2話 夜、漂ってくる美味しい匂い -2-
「崖……とか…………あり、かよっ!」
俺は三十区に戻り、四十二区を目指して歩いていた。
そしてたどり着いた区の境は、崖だった。
遥か下にみすぼらしい街並みが見える。高さにして20メートル程度。ちょっとしたビルくらいの高さだ。
なるほどなぁ。最底辺の区が格上の三十区に隣接してるってのが引っかかっていたんだが……これなら三十区の人間も安心ってわけだ。
この高さなら、登ろうなんてバカはそうそういないだろう。ほとんど不可能だしな。
けど、下りることなら出来そうだ。
で、俺は今、必死に崖を下りているところだ。
複数の区を行ったり来たりしているうちに、空はすっかり薄暗くなっていた。
俺はいまだに宿を決めていないどころか飯すら食っていない。いや、そもそも金を手に入れていないのだ。
なんとしても四十二区に入らねば。
今から街の外周をぐるっと回っている時間はないのだ。
俺の噂も広まっていることだろうし、顔を指されるのはマズい。
「だからって……異世界に来ていきなりダイ・ハードかよ…………つか、異世界に来たら不思議な力とかに目覚めてるもんなんじゃねぇのかよ!? 筋力も体力も高校生レベルじゃねぇかよ!?」
チート能力とか、神に与えられし力とか、そういうのは一切ないらしい。
まぁ、三十六歳の体よりかは動いてくれるがな……
「こりゃ……明後日筋肉痛確定だな…………あ、若いと明日来るのか……どっちでもいいわ」
ビルほどもある崖を、命綱なしで下りる恐怖。
おまけに酷い空腹と歩き回ったことによる疲労。
俺の体力は限界だった。
そして……
ほんの一瞬気を抜いただけで、俺の体はあっけなく崖から滑り落ち、空中へと投げ出された。
……あ、死ぬ。
こっちに来て何度目かの死の予感に、ほとほと嫌気が差す。
神様よ、そんなに俺が嫌いかい?
滞空時間はわずかだった。半分くらいは下りていたからな。
そして、俺の体は無残にも地面へと叩きつけられ……
バッシャーン!
……バシャン?
俺の耳に聞こえたのは水音だった。
俺が落ちた場所は、空気の澱んだ湿気っぽい沼が広がる湿地帯だった。
助かった……のか?
体を起こすと、耳の中にごっそり水草が詰まっていた。
水草を取り、辺りを見渡す。
うん。生きてるな。
なんか沼臭いし。俺の五感は正常に機能しているらしい。
つか……あ~ぁ、服がドロドロ……どっかで洗わなきゃな。これ一着しかないのに……ったく。
俺が落ちた沼は、深さが膝くらいで、沼底は柔らかい泥で埋め尽くされていた。
おかげで助かった。臭いけど。まぁ、死ぬよりマシだな。臭いけど。
沼から出ようと立ち上がると……沼の中で何かが動いた。
なんだ?
何かいる…………
息を殺して沼を注視する……と、一匹のカエルが顔を出した。
なんだ、カエルか………………………………って、デカくない?
そのカエルは、体長が80センチほどもあり、なぜか服を着ていた。
これはアレか、カエル人族とかいうことか? オウム人族とかいたし。
ってことはあれか、ここに住んでる人か。
挨拶……するべきだよな?
突然降ってきた俺は、完全に不審者だろうし。
いや、客観的に見れば明らかにカエルの方が不審ではあるんだけど、やっぱ先人は尊重するべきじゃん? なので、俺は笑顔でさわやかに挨拶をする。
「や、やぁ! 初めまして」
どうしても引き攣ってしまうのだが、なんとか笑顔を作って挨拶をしてみる。
すると、カエルは俺に向かって「ケロケロ!」と鳴いた。
しゃべれねぇのかよ!?
なにこの街!? オウムはしゃべるのに、カエルはしゃべらないの? その線引きが分からん。
まぁいい。
カエルの生態になど興味はない。
俺はカエルを無視して沼から上がる。
その間、カエルはジッと俺を見つめていた。……なんなんだよ、気持ち悪ぃな。
沼から上がり、辺りを見渡して…………俺は硬直した。
カエルが……大量にいる。
沼を取り囲むように数百匹のカエルが立っており、こちらを見つめていたのだ。
「ぎ、…………ぎゃぁぁあああっ!」
叫んだね。
軽くトラウマものだぞ、あの光景は。
ヌメヌメした、体調80センチの巨大ガエルが数百匹、二歩足で立ってジッとこちらを見つめているのだ。
ホラーだぞ、マジで!
俺は逃げるように湿地帯を後にし、我武者羅に走り続けた。
立ち止まればカエルに追いつかれる。そんな気がして。
捕まれば最後……俺はきっと沼の底へと沈めらるのだ。冗談じゃない!
途中、幅の広い川に出た。
流れは穏やかそうだが、如何せん暗い。水深も分からん。
だが、迂回するような時間はない、つか、心にゆとりがない。
カエルが、今にも追ってきそうなのだ。
「えぇい、構うか! 飛び込め! 汚れた服も綺麗になって一石二鳥だ!」
闇とカエルの恐怖から、俺は迷わず川へ飛び込み、懸命に泳いだ。……割と深かった。
川から這い出し、休む暇もなく再び走り出す。
それからひたすら、俺は走りに走って、ふと、空腹であることを思い出した。
そこで俺の体力は尽きた。
舗装もされていない、土が剥き出しの道に倒れ込む。
もうダメだ。もう一歩も動けない。
見上げた空には、九割近くが欠けた頼りない月が浮かんでいた。
月にすら見捨てられた気がした。
……あぁ、最悪。なんだよ、この世界。
美人はいないし、チート能力は備わってないし、行き倒れていたところを助けてくれたお人好しを騙して香辛料を奪い取ったらあっちこっちで犯罪者扱いされるし…………あぁ、それは当然か。
結局、俺は人を騙すことでしか糊口を凌げない男なんだな。
その俺が嘘を封じられちまったんだ……人生終了のお知らせだな、これは。
と、そこへ……微かにいい匂いが漂ってくる。
これは…………なんだか懐かしい香りだ。
子供の頃、暗くなるまで遊び回って家に帰ると、台所の窓から玄関の外にまで漂ってきていた夕飯の匂い。
そんなものを思い出させるような、優しくて温かい匂いだ。
俺は最後の力を振り絞って体を起こし、匂いのする方向へ足を動かした。
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