冷たくて、淡い。
まゆし
冷たくて、淡い。
「お疲れ様です、責任者の中村さんはご在席でしょうか?」
事務所の電話を取った俺は、他事業所の事務が電話を掛けてきたことに気が付いた。
緩やかな優しい声と、丁寧な口調で俺の名前を呼んだ。
「エリア編成の変更に伴って、そちらのエリア担当になる書類がこちらにありまして……」
責任者でありながら、どうすべきか迷った俺は「確認して連絡をします」と、少しぶっきらぼうに答えた。機嫌が悪いわけでもなかったし、電話口の彼女の声が受け付けないというわけでもない。
何となくクールな印象を与えてみたくなり、格好つけただけだった。まだ面識のない彼女に対して。
その日の夜、俺は会議を済ませて帰宅しようとしていた。相変わらず会議の時間は無駄で嫌いだ。この時間で、どれ程の作業が進んだだろう。デスクの上にどれ程の書類が溜まっていると思うのか。こんな会議の時間さえなければ、残業などもしなくて済むのに。しかし、残業をしたところで家に帰って嫁と話すこともないのだから問題は何もない。それでも生産性の無い会議は嫌いだ。
心の中で毒づきながら周囲を確認せず歩いていたから、目の前に人がいたことに気が付かず、トンとぶつかった。
「おっと、ごめん」
「いえ、こちらこそ申し訳ないです」
その声は、電話口で聴いた声と同じだった。
「あ。中村さん、ですよね?初めまして。今後とも、よろしくお願いします」彼女は人懐こい笑顔を俺に向けた。
声だけで俺を判断したのか?と思ったが、首から引っ提げたままの社員証を見たのだろう。おっとりした雰囲気の割に、出会い頭にすかさず社員証を見る反応の素早さに少し驚いた。
「先程は突然のお電話で失礼しました」
「いや、構わないよ」
またしても、俺はぶっきらぼうに答えてしまった。
ふわっとした優しい声に、可愛らしい笑顔。きちんとした言葉遣いに、清潔感のある服装。二十代前半に見えるが、今年の新卒ではないはすだ。中途採用だろうか。
「中村さんて、クールな方なんですね」と、彼女は笑顔で言った。「そんなことないよ」と俺は完璧な作り笑顔を見せる。彼女に対して、自分の思う通りの印象を持たせることが出来て満足だった。
俺の担当エリアとは違うエリアを受け持っていたが、スマートにこなしてしまうのか、担当エリアの売り上げが悪いのか、彼女は担当外の仕事を上司から押し付けられていた。
良い意味で解釈をすれば、上司からの信頼が厚いと言える。
そして、俺にとってはそれはありがたいことでもあった。彼女がたまに俺の事務所来て仕事をするからだ。静かな事務所内に二人のキーボードを叩く音だけが響く。
彼女が事務所に来る時は、決まって食事に誘い適当な居酒屋に入る。仕事の話だけではなく、家庭の愚痴のような話も彼女は嫌な顔をひとつせず聞いてくれる。離婚間際の家庭事情という重い話ですらも。初めて電話で話した俺のクールな印象は、彼女にはもう無いだろう。
彼女の存在が、心の拠り所になる。
仕事も責任者という立場上面倒なことも多い。家のことも何から何まで今は面倒だ。結婚した時よりも離婚する時の方がやっかいで、やることが山程ある。寝ている時以外、苦痛に晒される日々を彼女という存在ができたことで乗り切れている現状。
彼女の笑顔にどれだけ救われていることか。
ある時、俺の担当エリアでもない事務所に数日行くことになった。責任者が急性胃腸炎とやらで緊急入院してしまい最低でも一週間出勤できないらしい。通常であれば副責任者が仕切るので特に問題はない。
ところが、生憎と近々役所の職員が事務所に来る予定があり、責任者代理をしろということだった。
役所の職員が来る前に、必要書類の確認もしておかなければいけない。
副責任者は外回りの仕事を責任者の分も引き受けて連日終日外出で日が暮れてからヨレヨレになって帰ってくる。
他の社員も書類よりも客先優先にしなければ、売上が落ちてしまい、それが『あの責任者は部下の育成に不向き』と社長に判断されてしまうことが嫌な様だったから、外回りを欠かさない。同じエリアの事業所からもヘルプが来ていた。
いいエリアじゃないか。よく連携取れているな。
そこは、彼女が事務を担当するエリアだった。
一切外回りせずに書類を確認し、チェックリストに不備の有無を記載していく楽な仕事。そんなことは他の責任者がやれよとも思ったが、くだらない会議よりは遥かにマシだ。
「お疲れ様でーす」
事務所のドアをだるそうに開ける。すると、彼女が駆け寄ってきた。
「中村さん!ありがとうございます!助かります!」
彼女はいつも通り、愛らしい笑顔を俺に向けた。挨拶もそこそこに、責任者用のデスクを借りて座った時、彼女が隣に座った。
責任者と副責任者が外出することの多い、この事務所は、責任者の隣に事務のデスクがある。責任者が見落としそうな書類も、目につくような場所にまとまっている。
顧客からの電話対応もデスク配置を利用して情報が入ってくるからか、彼女の仕事ぶりは実にスマートだ。
そういえば、総務の部長が彼女を総務に欲しがったことがあった。もちろん、彼女の上司が許すはずもなく。また、彼女自身も「総務はお手伝いの範囲で協力させてください。私は、任されたエリアの、専任の事務として頑張りたいです」と言っていて、総務への異動の話は消えていた。
彼女はいつも担当エリアを一番に考え、担当エリアの社員に気を配っていた。社員からの信頼は厚かった。
俺の隣で彼女は真剣に書類に誤字などがないかを確認している。仕事で必要なものが全てデスクに固定されているかのような完璧な配置に清潔感。端に青い薔薇が一輪飾ってある。
花が好きなのか。今度、食事に誘った時にでもプレゼントしてみようか。まだ正式に離婚届は出していないが、彼女の喜ぶ姿を見て「俺の傍にいてくれないか」と言いたかった。
役所の職員が書類に目を通して帰った日。雑な居酒屋ではなく、洒落た個室の居酒屋に入ることにした。
俺はバレないようにしまっておいた花を、目を逸らして素っ気なく彼女に渡した。真面目に渡すのは恥ずかしい。
「デスクに花が飾ってあったのを偶然見たからさ、花が好きなのかと思って」
返事がないので彼女を見ると、驚いたように花を見ていた。
そして受け取りながら言った。目にはいつもの可愛らしい輝きがなく、怪しく
「ありがとうございます、中村さんてよく人を見ているんですね」
──どういう意味だ?
花屋で目に入って選んだ紫陽花。
彼女のデスクに置いてあった青い薔薇を思い出して、少し濃いめの青色をした紫陽花を選んだ。あまり見ない青色の薔薇を見た時、青色が好きなのかと思ったからだ。
彼女は俺を見て、不思議そうに少し考えてから何か結果が出たのか話し出す。
「あ、中村さん。知らなかったんですね。大まかな紫陽花の花言葉の一つは『浮気』。青の紫陽花にも一つ。『辛抱強い愛情』です。私は、浮気相手になる気持ちも、中村さんを待つ程の辛抱強い愛情も、残念ながら持ち合わせていないです」
目の前に、見たことのない愉悦の笑みを浮かべた彼女がいた。心が無いような、口元だけで笑い小声で言葉を続けた。
「少し吃驚してしまいました。フフッ……」
俺は動揺を隠せないまま、初めて見る彼女の表情を見ることしかできない。今、目の前にいるのは魔性の女だ。
彼女の笑顔は、背筋が凍る程、美しかった……
しかし俺の
帰りの電車で鞄からスマホを出して、紫陽花の花言葉を調べてみた。紫陽花には色が多く、かなりの情報量があった。
青い紫陽花の花言葉、そのページで指が止まる。
彼女のあの背筋が凍る程、美しい笑顔が浮かぶ。
俺というそれなりの職位を持つ社員から、評価を得て直属の上司からの信用を得る……順調に出世の階段を昇る。
彼女は『無情』なのだ。あの外面に惑わされた。間違いなく、あの綺麗な青い紫陽花は彼女に似合っていた。
だが、俺は無意識に、伝えてしまったのだ。
『あなたは美しいが冷淡だ』
冷たくて、淡い。 まゆし @mayu75
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