第十章
約束の当日、須依はタクシーを呼んで助手席へと座った。マンションへと向かう前に林と合流する為、千葉方面に向かって国道を走らせる。予定していた夜八時より十五分前に着いた為、コンビニの駐車場に停めてドアを開けて白状を持ったまま外で待つことにした。
須依が視覚障害者の女性だとしか林は知らないだろうし、こちらも彼の顔を認知することができないためだ。逃亡している彼が自分を掴まえるための罠でないと、安心させなくてはならない。その上で彼から近づいてきて声をかけさせ、車に乗って貰わないと困るのだ。
一人で来いと言った彼の指示に従い、須依は夜なのに薄いサングラスをかけ、一見して視覚障害者と分かる格好をしていた。ここまですれば林が間違えることはないだろう。後は彼が約束通り姿を現すかどうかだ。
しかしその心配は必要なかった。しばらくしてこちらへと歩いてくる足音が聞こえたところで、話しかけられた。
「須依さん、ですね。お待たせしました」
初めて聞く、機械を通さない生の長い言葉に驚く。緊張しているのか低音で小さな声だ。
「はい、そうです。初めまして。情報提供者の方、ですね」
ここでも彼の名は出さない。須依だけでなくタクシードライバーがいるし、どこで誰が聞いているか分からないからだ。
「そうです。行きましょうか」
「では後部座席に座って下さい。私は助手席に座ります」
「分かりました」
短いやり取りを終えて二人共車に乗り込み、運転手には改めて行き先を告げた。九時までにはあと一時間、渋滞などに巻き込まれない限りここからだと十分前には着くだろう。その辺りを計算して彼はここを指定したと思われる。
現地に近づくまで二人はずっと沈黙を保った。運転手も奇妙な緊張感を察してか、余計な事は喋らない。そのため車内は静まり返ったまま走り続けている。
もうすぐ到着します、というカーナビの音声が聞こえてきた時点で、須依は後ろの彼に話しかけた。
「予定通り足元にうずくまって隠れていてください。マンションに入るのは、こちらが私と同僚の烏森の二人。先方も二人です。あなたは私達が入室した事を確認した後、言い頃合いを見計らって来てください。鍵はお持ちですよね?」
「ああ」
彼はそう答えて言われた通り、ごそごそと後部座席の足元に隠れたようだ。その音を確認しながら、須依は運転手に話しかける。
「私達が下りた後、しばらくして後ろの彼が降ります。その後は帰って頂いて結構です。料金も念のため、多めにお支払いしておきますから」
「分かりました」
返事が返ってきてしばらくすると車が停まった。目的地に着いたらしい。須依は運転手に促されてドアを開け、一人で外に出た。辺りはとても静かだ。
警察による立ち入り禁止のテープが依然と貼られているらしい建物の方角を見つめる。電気は通っているはずだが、廊下の灯りは意図的に消しているらしく真っ暗だ。もちろん部屋の灯りはどこも点いていないように見える。
ここは四人もの人間が殺されている場所だ。そう考えるとさらに恐怖を倍増させた。昼間の明るい時でも人は近づき難いだろう。
須依がタクシーから数歩離れた所で、こちらに向かってくる烏森の足音が聞こえた。懐中電灯を持っているらしく、ぼんやりとした灯りが見える。須依の耳元まで近づいた彼は、小声で囁いた。
「ここからは良く見えないが、タクシーの後ろに乗っているのは、奴か」
須依は彼にだけ通じる手話でそれに答えながら、尋ねた。
「まだあちらは来ていませんか」
「ああ。まだだ。俺は少し前に着いていたが、恐ろしく静かだよ。事件からそれなりに経過したせいか、外から見る限りは発覚当初のように警察官が外で見張っている様子もない」
「そうですか」
彼の右肘を借りて、二人でゆっくりとマンションの入り口近くへと向かう。静寂とこの場所の異様な空気に耐えきれなくなったのか、彼が再び小声で話しかけて来た。
「本当に来るんだよな」
「間違いないと思います。約束は守るはずですから」
二人は改めてこれからの段取りを確認しながら言葉を交わす。そうしている間に車が近づいてくる音が聞こえ、ライトの光らしきものがぼんやりと見えた。約束の時間らしい。
「来たようだな」
「二人しかいませんか?」
「ああ、助手席に斎藤警視が座っている。他には運転している奴しかいないようだ」
「後部座席に隠れている様子はありませんか?」
「ここからは見えない。彼らが車を降りたら確認すればいい」
「そうですね」
須依達が立っていたすぐ傍に、彼らの車も停められたようだ。辺りが暗いからか車から降りて来た人物達も、懐中電灯らしきものを持って周囲を照らしていた。須依にはほぼ見えない状況だから必要ないが、彼らには見え難い状況だからだろう。
足音は二人分しか聞こえない。だが念のためにタクシーに隠れている彼に聞こえるよう尋ねた。しかし運転していた部下が一緒の為、言葉には気を付ける。
「斎藤警視、お約束通りお二人だけ、ですよね」
「ああ。二人だけだ。なんなら車の中を確認してみればいい」
「ではそうさせてもらいます」
烏森が代わりに答え、須依の手を肘から離して歩き出した。向こうが乗って来た車の中を覗きに行ったのだろう。少しして戻って来た彼は、再度須依の手を肘に置いて言った。
「他には誰も乗っていないようですね。では行きましょうか」
そこでもう一人の人物が声を上げた。
「課長、この二人をマンションの中に入れて本当に良いのですか」
「ああ。私が責任を取る。ちゃんと所轄にも仁義を切ってここの鍵を借りて来た。それに彼ら、特に彼女はただのマスコミじゃない。ある意味今回の事件に関わっているかもしれない被害者だ。彼らが取材で得た情報は、それだけ重要なことを意味する」
「だからと言って、課長自らをこんな場所にまで呼び出して中に入れろ、なんて交換条件を飲むのですか」
「ああ。君は一緒にいて証言を確認してくれさえすればいい。それとも何か。今更そんな仕事に付き合うのが嫌だとでも言い出すのかね」
「い、いいえ。課長のご指示とあれば従います」
「だったらしばらく黙っていてくれ。ああ、すまない、行こうか」
斎藤が部下とのやり取りを終えて、こちらに対して言った。
「行きましょう。宜しくお願いします」
まだ貼られているらしい規制線のテープを烏森に上げて貰ってくぐり抜け、鍵を持つ彼らを先頭にマンションの入口へと歩き出す。中に入ってエレベーターに四人が乗り、四階へと上がる。そして四〇一号室の扉を開けて入った。
ここは林が住んでいた部屋だ。ここに入れてくれれば、警察にとってとびっきり有益な情報を提供するという交換条件を出していた。それを斎藤が承諾してくれたのである。
少し廊下を歩いてドアを開けた気配がした後、パチンと言う音がして少し周囲が明るくなった。部屋の灯りを点けたのだろう。烏森の説明だとリビングらしい。
「それでは約束通り話してくれるかな」
「斎藤警視、もう少しお待ちください。立ち話もなんですから座って話しませんか」
烏森の提案に彼も頷いたらしく、どこからか持ち出してきた椅子を四脚用意したようだ。須依は誘導されるがまま、入り口近くの椅子に座った。
声からして左横に烏森が、部屋の奥の正面に斎藤がいるようだ。その横は彼の部下が腰掛けているらしく、四人が向かい合った形になった。
「さあ、もったいぶらずに話してくれ」
急かす声がした。その時、須依は入口の扉が静かに開く微かな音を耳にする。他の三人は誰も気づいていない様子だ。どうやら来たと確信した須依は口火を切った。
「私達がこのマンションで起こった事件を取材して分かったことは、この部屋に住んでいた林秀夫の他に主犯者がいる、ということです」
「主犯者? あの連続殺人は林の単独犯の線で捜査本部は動いている。勘違いをしているんじゃないのか。例えば拉致する際に、気絶させたとしても一人では運べないはずだとか言い出すんじゃないだろうね」
「そんなことは言いません。拉致の際、四人ともスタンガンを押し当てて気絶させたのは林で間違いないでしょう。そこで倒れた相手を運んだのは、彼と彼が飼っていた大型犬だと言うことも分かっています。だからといって単独犯だと決めつけるのは間違いです」
この情報は警察が意図的に隠していたものだ。その為かなり驚いた声で聞かれた。
「何故それを? その事は外に出していない情報のはずだが」
声帯を切除した大型犬を室内で隠れて飼っていたことは、前の管理会社の担当者や林本人の口からも確認を取っている。須依は質問を無視し、話を続けた。
「それだけではありません。最初の三人の死体は、最終的に絞殺された後大型犬に食べさせて骨だけにしたことも分かっています。だからこのマンションの下水から、被害者の血液や肉片が排泄物の中から発見されたのでしょう。そこからは警察発表の通り、残った骨は砕いて粉にし、壁に塗り込まれた。そうですね」
「どこから捜査情報が漏れたかは知らないが、犯人が複数犯だと思われていたのはその犬のせいだ。主犯は林で共犯が犬というのなら理解できる。しかし何故他に“主犯者”がいるなどと言い出すんだ」
「それは最初の被害者である手塚はともかく、相当周辺に気を配って警戒していた他の三人を林一人だけで拉致できるとは思えないからです。特に二人目の被害者、山戸純次を拉致した際は防犯カメラにハッキングして、映像の入れ替えまでしています」
「ああ、それは彼がネットを通じてハッカーを金で雇っていたからだろう。そういう意味では共犯だが、彼は自分の身元がばれないよう、特定の人物ではなく事件やその役割毎に様々な人物を通して仕事を依頼していた形跡までは、サイバー対策課でも確認している。残念ながら、雇われた相手もハッカーのプロのようだから、なかなか特定するところまでは至っていない。だから共犯者がいるといえばそうだが、主犯はあくまで林だ」
「確かに依頼したのは林本人ですが、そうさせた人物が他にいるのです。それが主犯であり、また四人目の被害者である三間坂月々奈を殺した犯人でしょう」
「三間坂を殺した犯人? それも林じゃないのか」
「何故そうお思いですか。それまでの三人は絞殺した後、肉体は犬の餌にして骨は砕かれて壁に隠されました。しかし彼女だけは違いましたよね。それまでの殺し方とは違い、顔の原型を留めないほど殴られた後に絞殺されて、そのまま放置された。それを大型の冷蔵庫に入れたのは林でしょうが、何故そのような事が起こったのでしょう」
「おい、ちょっと待て。何故他の三人と殺され方が違うと分かる? 三人は体を食べられ、骨を砕かれているから、詳しい死因はまだ特定できていない。それなのに四人目と絞殺は同じだと言うのは、犯人しか知り得ない情報だ。お前達、どこでそんな話を聞いてきた?」
その瞬間後ろのドアが突然開き、部屋に入ってきた人物がそれに答えた。
「どうやらこの二人は、失踪していた林と連絡を取り合い、そうした情報を得ていたようです」
これには斉藤も驚いたようだ。
「お、おい、君は誰だ!」
「公安部の者です。申し訳ございません。斎藤警視や捜査本部には黙っていましたが、先日失踪していた林を確保し、現在公安で取り調べを行っています。その中で林と連絡を取り合っていたここにいる二人が、今日この場所に林を連れてくる段取りだったことを吐きました。そこで私が林の振りをして、そこにいる女性記者と一緒にここへ来たのです。どういう意図があって斎藤警視らの前に連れてこようとしたのか、少し様子を伺ってから二人を連行して確認を取るつもりで待機していました」
「おい、須依。これはどういうことだ。説明しろ」
須依は一度大きく息を吸ってから、彼の質問に答えた。
「今説明された公安の刑事さんが言った通り、逃走中だった林さんから情報を得ていたのは確かです。しかし匿っていた訳ではありません。彼はずっと身を隠していた場所から、この事件の裏には真犯人がいると記事を書いた私に興味を持ち、連絡をくれました。ただしどこにいたのかは、ごく最近まで知りませんでした。事件の真相がほぼ明らかになった時点で自首するよう促したところ、彼からこの部屋にその真犯人を連れてきて話をさせてくれるなら、と条件を付けられたのです」
「だからこの部屋で話をする、という条件だったのか。なるほど。しかし現れたのは林ではなく、公安の刑事というのは何故だ」
「か、課長、納得している場合じゃありませんよ。今の話だと、この二人は林と情報交換をしていたのですよ。犯人隠避の容疑があります。逮捕しましょう」
「まあ、待て。今の話が本当なら林は自首するつもりだったんだろ。それに話が途中だ。最後まで聞いてみてからでもいいじゃないか」
「そうですよ。何を焦っているのですか、田端次長。先程から斎藤警視の代弁者を気取って私達に質問攻めしてきたのはあなたでしょう。これからゆっくりとご説明します。それとも私達が林ではなく公安の刑事さんが現れたことに、全く驚いていないことを戸惑っていらっしゃるのでしょうか」
斎藤の言葉に須依が同意しながら田端を挑発した。そう、林が探していた“エウノミア”の正体はまさしく田端警視なのだ。その真相に辿りついたものの、相手は警視庁の幹部である。それに彼が事件を起こした主犯である事を証明する決定的な物証は、なかなか見つからなかった。
その為林と須依で話し合った結果、自分が自首するからこの場所へ田端を呼び出してくれ、そうすれば奴の口から真実を吐かせてやる、と提案をしてきた。それを須依は受け入れ、斎藤を通じ手配をしたのである。
彼は須依の出した条件とその理由を説明した時は渋っていた。しかしその直後、何者かにホームへ突き落される事件が起こったため、事実確認をしてくれた。そこで彼は独自に動いて事件の裏で田端が関わっていることを掴んだ為に、ここで合流する提案を受けてくれたのだ。
本来ならこの場所に来る途中、車で林と待ち合わせて彼を後部座席に乗せ、ここまで連れてくる予定だった。須依達が部屋に入ったことを確認してから、遅れてやってくるよう指示もしていたのである。
彼はマンションの入り口の鍵も部屋の鍵も持っている為、それが可能だった。そして須依達が会話をしていたリビングの外で待機し、出て行くタイミングを計るはずだったのだ。
しかし公安はその前に隠れていた林を確保し、須依達との段取りを吐かせて公安の刑事と入れ替わったのだろう。だが須依達はその事に気付いていた。
「一昨日の事です。私宛にボイスチェンジャーを通して、連絡を取りたいと言う電話が雑誌社にかかってきました。これは林さんとそれまでやっていた方法です。そこでいつものように公衆電話の番号を伝え話したところ、違和感を覚えたのです。短いやり取りでしたが、機械を通しているとはいえいつもの声とは感じが違いました」
「ほう。そこで別人だと気付いたか。さすが須依だな」
「正直、その時点ではおかしい、と思っていた程度です。その前に私達は事前に林さんから送付された、彼が使用していたパソコンの分析をある会社に依頼していました。そして一昨日、そのパソコンにダウンロードされていたGPS機能が付いたアプリが作動したとう連絡を受けたのです。分析していた担当者によると、最初は千葉周辺で点灯し始めたようです。そして時間が経つにつれてそれが移動し、最後は警視庁の中で点滅し続けました」
初めて耳にしたのだろう話に、田端は明らかに動揺していた。
「そ、それはどういうことだ?」
「私達は林さんが“エウノミア”である田端次長の手引する人達に拉致された、と感付きました。そこで生安部の本木さんに連絡をし、秘密裏に当初点滅した千葉周辺を探索して貰ったところ、何者かが長期間潜伏していたと思われる場所を特定したのです。公安も時間が無かったからなのか、すぐに証拠隠滅する必要は無いと判断したのかは分かりません。しかしおかげでその場所から、林さんのDNAが発見されました。しかし林さん本人はいない」
そこで斎藤が要約した。
「つまり今ここにいる公安の刑事が言った通り、林の身柄は確保されていたのだな」
「そうです。そこで林さんのGPSアプリをスマホにダウンロードし直して、警視庁内を確認して貰った所、公安部が使用している部屋だったと確認が取れたようです」
「おい! 何を言っている。エウノミアとは何だ? 私が公安に指示したような言いぐさだが、何を証拠にそんなことを言っているんだ、お前は!」
自分達の目論見が崩れたことで苛ついたのだろう。須依の説明に田端は噛みつき、怒鳴り始めた。それを無視し、さらに話を続けた。
「林さんが捕まったことを確信した私は、斎藤警視に連絡をしてその裏取りをお願いしました。そして私は今日、公安の刑事さんを林さんだと勘違いしているように行動していましたが、気付いていましたよ。田端次長も公安の刑事さんも、私の目が見えないからと侮ったようですね。だから一人で迎えに来いと言う指示を出し、入れ替わるなどという手を考えられたのでしょう。しかし声が全く違いました」
「声? お前は林の生の声を聞いたことがないはず。それは奴から確認を取っている」
プライドを傷つけられたと感じたらしく、刑事は鼻で笑った。須依は笑い返して答えた。
「いえ実は林さんが油断されたのか、ボイスチェンジャーを外したまま、“ああ”と一度だけ言ったことがあります。私はその音を覚えていましたから、今日タクシーの中で刑事さんが、ああ、と同じ言葉を喋られた時に間違いなく違う人物だと確信出来ました」
「それは後付けだろう。林が俺達に捕まったと知ったから言っているだけじゃないのか」
「林さんがあなた達に捕まったことは想像出来ましたが、本木さん達も先程の時点では彼の存在を確認できていませんでした。私達も声を聞いていませんから、心の中では捕まってはいない、間違いであって欲しいと願っていたのです。でもあなたの声を聞き、そしてあなたの口から身柄を拘束したと聞いた時点で、認めざるを得なかった」
そこで斎藤のスマホが鳴り出した。それに出た彼は何度かはい、はいと丁寧に頷いた後、電話を切って言った。
「今公安部長から直々に連絡があった。刑事達が林を確保していることを確認したそうだ」
「林さんは無事なの?」
須依は思わず尋ねた。
「かなり痛めつけられていたようだが、命に別条はないそうだ。さすがに彼らも口を封じるつもりまではなかったと言っている。それに公安の刑事達は田端に上手く言いくるめられ、利用されていただけのようだからな」
「な、何を言い出すんですか、課長。公安部長からの連絡というのは本当ですか? どういう話をされたのですか?」
「公安は君と協力し、このマンションをシェルターの拠点にしようとしていたようだね。ここへ来る前に生活安全部長にも同席して貰い、直接私が公安部長と話をして一連の事件の説明をした。そこで今夜私達が警視庁を離れた後、林が拘束されているだろう部屋へ入り、事実を確認して欲しいとお願いしていたんだ。今の電話は刑事達にも事情を聴き、私が事前に伝えていた情報が事実だったことを確認したという連絡だったよ。詳しくはこれからだともおっしゃっていたが、全てが明るみに出るのも時間の問題だろう。あと君には逮捕状も出ている」
そこでようやく事の成り行きを理解した彼は、啞然としていたようだ。さらに林の振りをしてここまでやってきた刑事も、田端に利用されたことを悟ったらしい。
「そ、そんな馬鹿な」
そう呟きながら、力なく床にしゃがみこんでしまったようだ。
しばらく沈黙が続いた為、須依が説明した。
「このマンションで公安とあなた達が林さんを利用して何をしていたか、斎藤警視は全てご存知です。その上であなたをここに呼ぶことを承知してくれました。事件の経緯のほとんどは、林さんが送ってくれたパソコンにも記載されていました。さらに過去のログを辿り、あなたが“エウノミア”というハンドルネームを使って林さんとコンタクトを取っていたことも確認済みです」
「わ、私は何もしていない。何人もの人間を殺した殺人鬼の言葉を信じるのか」
絞り出すように答える彼に対し、須依は頷いた。
「もちろんです。彼は三人までの殺人を、手口を含め全てを白状しました。それなのに四人目だけ嘘をつく必要はないでしょう。一人殺したのか二人殺したのかで、話が食い違うことはあるかもしれません。今の日本の司法では、死刑になるかどうかの瀬戸際ですからね。しかし三人が四人になったからと言って、罪は軽くならないでしょう。恐らく死刑は確定だと思われます。だからこそ彼の証言には真実味があると、私達は判断しました」
「では聞くが、どこにそんな証拠があるんだ」
「ですからログにあなたの書き込みが全て残っています。林さんを唆し、そして山戸を拉致した際に防犯カメラをハッキングしたのもあなたです。罪を犯しているはずの人間が、何の罪にも問われずのうのうと暮らしていることに怒りを覚え、拉致して殺す計画に林さん自身が賛同したことは確かでしょう。でも彼は警察に捕まり、死刑になることを既に覚悟していました。しかしあなたは違います。林さんが最も憎んでいた、罪を犯しながらも逃げおおせようとしている卑怯な人間です。林さんは自分が捕まることが嫌だから逃げていたのではありません。裏で操っていた“エウノミア”を表に引きずり出して罰する為に、情報を収集していました。そこで私達と連絡を取り、あなたへと辿り着いたのです」
「何をでたらめな事を」
「惚けても無駄です。あなたが四番目に殺された女性のハニートラップに罹り、脅されそうになったことは確認が取れています。ただその事務所にハッキングして不都合なデータをすべて消去してバックアップも持ち去ったため、脅迫は成立しなかった。それでも実際に関係を持ち、実際に秘密の暴露を耳にした彼女がいる。その口は封じなければならない。騙されたと言う恨みもあったのでしょう。そう考えたあなたは彼女を殺す事を計画した。他の三人とは全く異なる、個人的な動機があったからです。だから一人だけ、他の三人とは違う形で殺された。違いますか」
「何を言っているんだ、お前は。だから何の証拠があるというんだ!」
激高する彼を、今度は斎藤が宥めながら話に割って入った。
「そう興奮するな。証拠があるから逮捕状が出たんだ。お前が公安の人間を上手く利用して、あのマンションで色々トラブルを起こし、警察の息がかかった管理会社の手に渡るよう動いたことも分かっている。しかし殺人を犯している現場を、公安の刑事達に見つかってはさすがにまずい。だからシステムの点検をする必要があるからと色々な言い訳をし、四人を拉致して監禁している間は、普段出入りしている刑事達を追い払っていたようだな。それに林の持っていたパソコンのデータをこちらでも分析したが、複数の人間が林にアドバイスをしたり、犯行の手伝いをしているように見せかけたりしていた。しかし実態はお前一人の犯行だったことも把握済みだ。それに三間坂やその他三人が殺された日、このマンション周辺でお前がいた映像も残っている。先程の連絡で聞いたが、お前の自宅を家宅捜査した所、皮膚片のついたスタンガンや血痕が残った手袋も見つかったそうだ。林を気絶させた時、そして三間坂を殴り殺した時に使用したものじゃないのか。分析結果が出るのも時間の問題だぞ」
ここまで証拠を突き付けられれば、さすがの田端も打ちひしがれたらしい。ようやく観念したようだ。
「そ、そこまで調べられていたのですか。それなのについ先ほどまで、課長は私の前で何も知らない振りをしていたなんて」
「ようやく認める気になったか。どうせ正式な取り調べで聞かれるとは思うが、君は何故このマンションをサイバー対策の拠点にしようとしていた? しかもその工作を公安と一緒に行っていたのは何故だ?」
斎藤が彼を厳しい口調で問い質した。その迫力に怯んだらしいが、それでもなんとか小声で答えていた
「それは公安の拠点に関しては秘匿とされているからと、先方の部署に頼まれたからです」
「ほう。いまさらそんな嘘が通じると思って言っているのか。先程ここへは公安部長に話を通していると説明したはずだが。それにもっと以前からお前がおかしな動きをしていたことに、俺は気付いていた。手塚という大学生が失踪したかと思ったら、山戸の失踪に彼が関係していると知って驚いたよ。それで何かあると調べて見たら、このマンションの存在に辿り着き、お前が絡んでいることを知った」
須依が斎藤と会話をした際に何か引っかかると感じて取材した所、手塚の存在に辿り着いたのだが、それは必然だったのである。彼はその時既に奇妙な動きを察知して動いていた。だから須依の“カン”が働いたのだ。
「そ、それはサイバー攻撃に備える為、複数個所に拠点を構えることは公安部長もご存知なはずです。しかしどのような場所にといった細かなことなど、一つ一つ把握することはありません。公安部の中でもグループによって、お互い秘密にしていることもあるのが公安でしょう。私達はその一つに協力しただけです」
「ここまで来てまだ白を切るのか。お前は最初からこのマンションに住む林を狙っていた。そうだろ」
一瞬の間があったが、斎藤が促したのだろう。田端は少しずつ話し出した
「はい。公安は以前からイザという時に使うためのシェルターを用意していました。そこでサイバー攻撃対策センターが出来て、国内外における様々な高度技術を使った攻撃に対応するための拠点作りも必要となったことは課長もご存知でしょう。その応援として私達の部署に声がかかったのが始まりです」
「それで何故このマンションを選んだ?」
「公安の依頼で都内に環境の良い物件を探していた所、このマンションが目に留まりました。他に住民が少なく、それぞれの部屋に防音設備が整っているという条件が魅力的だったからです。最初は単にその一部屋でも借りておきたいと言う話から始まりましたが、公安が調べているうちに、名義は不動産会社になってはいるものの、実質の所有者がクルトワ人の林だと分かったのです」
その言い方に、須依は反発を覚えて反論した。
「クルトワ人? 確かに彼の父親はそうですが、母親は日本人で国籍も生まれた時からずっと日本のはずです。日本で生まれ育ち、幼稚園から大学までずっと日本人に囲まれ、普通に就職して日本の保険会社で二十年以上真面目に働いてきた方ですよ。そんな人を父親がクルトワ人だというだけで、一括りにするのはおかしいでしょう」
しかしその抗議が逆効果だったらしい。田端は開き直ったのか、大声で言い返してきた。
「それでも純粋な日本人じゃない。しかも林の父親は、クルトワの田舎町で広大な土地を持っていた。それをたまたまクルトワ政府が開発地として買い上げたため、莫大な金を手にしたんだ。それだけじゃない。その金を使って林の父親は日本の土地を買い漁り、資産運用をしていた。そいつがたまたま事故死したおかげで林は多大な遺産を受け取り、その金でここのマンションを買い取り改装した。ここは日本だ。しかも心を病んでいるような外国人に、好き勝手させる訳にはいかない。だから奪い取ってやろうとしたんだよ」
「ふざけないでください。彼が父親の財産を受け取ったのは確かですが、それがなくてもこのマンションを買うぐらいの資産は、ご自分で稼いで持っていました。日本の企業で、それこそ心身を削って働いたお金です。精神を病んだのも、日本の会社が働かせ過ぎたからでしょう。しかも彼はあなたのような人達に会社でも偏見の目で見られ、いい大学を出ていることを妬まれ、出世も同期の人達から比べればとても遅かったのです。それでも彼はコツコツと真面目に働き、課長職まで昇りつめたのです」
ここで斎藤が疑問を投げかけた。
「おい、田端。それじゃあクルトワ人の父親の遺産を得た金でこのマンションを買った林が気に食わなくて、マンションごと公安の息がかかった不動産会社で奪い取ろうと企んだと言うのか? それはおかしいじゃないか。確かお前が“エウノミア”という名で林に近づいたのは、マンションを購入する以前からだったはずだ」
痛い所を突かれたと思ったのだろう。ぐっと言葉を詰まらせた田端は苦し紛れに言った。
「林は遺産を相続した頃から、公安にマークされていました。そこで私が彼に接触をしたのです。話を合わせていく内に過激な思想を持っている事を知り、要注意人物として公安と共同でマークしていたのです」
そこで斎藤は納得したようだ。
「そうか。それで林がマンションを購入したことを機に、それを乗っ取る計画を立てたんだな。そして公安の刑事達を巻き込み、住民を追い出すようなトラブルをわざと起こしたのか。最初に家賃滞納で出て行かせたのも、お前の仕業のようだな」
「な、何のことです?」
息も絶え絶えの状況でも田端は惚けた。そこで須依が反論する。
「私達の取材で家賃滞納をして止む無く退去した住民は、クレジットカードの不正利用の被害を受けたことが分かっています。そして退去後に入居したのが、公安の関係者らしき人物だったことも。これは偶然だとでもいうのですか。あなた達がハッキングで罠に嵌めて追い出したんじゃないですか」
「その件もサイバー対策課と公安部が共同で今調べている所だ。誤魔化さずに話せ、田端」
斎藤による念押しが効いたのか、彼は開き直ったらしく、認める供述をし始めた。
「そうです。最初に追い出した住民の家賃滞納は、私がハッキングによってクレジットカードを不正利用し、預金残高不足に陥らせました。その後に入居させたのはおっしゃる通り、公安の息がかかった住民です。そして事前調査で下の住民が化学芳剤を使用していることを知り、タイミングを見て管理会社にクレームを入れさせました。もちろん林が同じアレルギーを持っていたことを知っていましたから」
「やはりクレームを出した住民は、実際にアレルギーではなかったのですね」
須依の問いに彼は乱暴に答えた。
「ああ。身近な同僚にそういう人間がいたから、管理会社に提出した診断書も同僚の診断書を加工して偽造したものだ。目論見どおり、クレームによってそれまで気付いていなかった林は匂いを気にしだし、部屋の住民である手塚を追い出そうとした。そこで管理会社と奴との間でトラブルが起こったんだよ」
「手塚が出て行った後に入居したのも、公安の仲間ですよね」
「そうだ。上下の部屋を借りた方が何かと使い勝手が良いと言うからな。この時早く部屋を埋めたいと管理会社が焦っていることを見越した俺達は、強引に家賃の割引交渉をした。すると管理会社は林に内緒で判断を下した。これも後々、管理会社ごと乗っ取ることを見越しての罠だったが、見事に引っかかってくれたよ」
「それで今度は契約更新の時期が近い、二〇二号室の住民をターゲットにしたのですね」
「ああ。二〇一号室に設置した機械を使い、隣にしか聞こえない波長を使った騒音を出し、管理会社へクレームを入れさせるよう仕向けたんだ」
「だから管理会社が他の部屋の住民に確認しても、そんな騒音など聞こえてこないと言っていたのですね」
「そうだ。それで管理会社に対して不満を持ったその部屋の住民は契約更新せず、他のマンションに移ったんだ。これも計算通りだったよ」
「その後に入ったのもまた公安の仲間だった」
「そうだ。その時再度管理会社が二〇一号室を無断で値下げして貸している弱みに付け込み、さらなる値段交渉をして借り上げることに成功したよ」
「二〇三号室に住んでいた母子家庭が煩いという苦情を入れたのも、他の住民同様追い出すために仕組んだことだった」
「そうだ。しかしあの女がマナー違反をしていたことは本当だ。それを管理会社に密告しただけで追い出すことは簡単だった。子供の声はたいしてことが無くても、煩いと言えば誰もがそうかもしれないと思うからな」
「あの住民も謂れのないクレームに腹を立てて、出て行かせるよう仕向けたって訳ね」
「その後の部屋もまたこれまでと同様に公安で借りてやった。もちろん管理会社の弱みに付け込むことは忘れなかったよ」
「その後何のトラブルも無いというのに、三〇二号室や四〇二号室の住民が契約更新をせずに退去していったのもあなた達の仕業ですね」
「その頃には追い出された手塚が、あのマンション悪口を書き込んでいると知っていたから、利用させてもらった」
「それだけではないでしょう。手塚大也さんが使用していたパソコンも同じく分析しましたが、あなたが関与している証拠が見つかっています。彼のパソコンをハッキングして、必要以上な書き込みを行った。違いますか?」
「ああ、そうさ。俺達の誘導で奴の書き込みはエスカレートしていった。さらにあいつのアカウントを乗っ取り、こちらでもっと悪質なことを書き込んでやったよ。具体的にマンション名も晒したから、あの周辺で悪評が広まっていったんだ。もちろん三〇二号室や四〇二号室の住民の目にも、その評判がネットで目に付くように細工した。それで彼らは自らの意思で出て行ったんだ」
「林さんがそれに気づかないよう細工したのも、あなた達ですね」
「そうさ。早く知られては困るからな。ハッキングで林のパソコンからはマンションの評判を閲覧できないよう細工し、いくらネットで検索しても出てこないようにした」
「その後、空室になった三〇二号室と四〇二号室には新たな入居者を入れなかったのも計画の一つだったですね」
「予想通りネットの評判を知ったのか、他に入ろうとする物好きな奴はいなかったよ。それに俺達が急いで借りる必要は、もう無かったからな」
「空室がなかなか埋まらない状態を続かせ、林さんと管理会社との信頼関係を悪化させた。そのタイミングで元々公安が借りていた部屋のうち三部屋を解約させた。しかし何故一部屋だけ残したのですか」
「一部屋は借りておかないと、その後の工作がやり辛かったからだよ」
「なるほど。それで林さんが悩んでいるところに接近し、アドバイスを送る振りをしてそれまで閲覧制限をかけていたサイトを開放させたのですね」
「案の定サイトの書き込みを見て激怒した林は管理会社の不正の証拠も手に入れ、俺が紹介した新たな管理会社との契約を済ませた。警察の天下り先の一つである、公安の息がかかった会社だとも知らずに、な」
「それで再び空いている部屋のうち三部屋を借りさせた」
「引き続き公安の隠れ家として使用できるようにしたよ。優良なマンションの大半の部屋を借りるというのが、当初の目的の一つだったからな」
「林さんの真下の部屋とその下にも入居しなかったのは、その後の計画のためですか」
「俺のアドバイスに気を良くした林は、元々持っていた向社会性を発揮し、俺達の誘導にどんどんと嵌っていったからな。だからと言って三〇一号室を自分の名義で借り上げ、以前住んでいた手塚を拉致して殺したのは林だ。私ではない」
もう説明するのはうんざりだと言いたげな彼だったが、須依は許さなかった。
「林さんは確かに手塚さん達を拉致し、殺すことに賛同しました。しかし三間坂の時だけは違いますよね。林さんは最初から何故彼女をターゲットにするかが良く分らず、渋々あなたの言う通りにしただけだと証言しています」
「そうだったな。拉致した後も、林は彼女を殺せないかもしれないと思った。だから私が手を下してやったんだ」
「それでマンションに監禁しようとした時を狙って、林さんを気絶させたのですね」
「そうだ。しかしその後、あれほど素早く逃亡するなんて想定外だったよ。まずはどうなっているか、私に確認の連絡くらいは入れると思っていたが、そこから計算が狂った。事件を起こす際は公安の連中を遠ざけていたせいで、あいつに逃げられた。油断していたよ。本当に面倒な事をしてくれたもんだ。さっさと警察に通報して置けばよかったと悔やんだよ。こちらの痕跡を全て消してからと思っていたが、間に合わなかったんだ」
「何を言っているのですか。あなたは林を操り人形のように思っていたのでしょうが、彼には彼の正義を持って行動していたのです」
「ふん。おかげであいつを探すのに苦労させられ、挙句の果てに厄介な記者まで巻き込みやがって。そういえば何故あいつを確保したことが分かった? GPS機能が動いたと言うのはどういう意味だ?」
ここで斎藤が話に割って入った。
「それは私が答えてやる。林はパソコンを須依に送った時点で、最悪の事態の事を想定していたようだ。お前達に発見され掴まりそうだと思った時、決死の覚悟でバッテリー付きのGPS発信器を飲み込んだらしい。比較的小さいとはいえ、縦横で三~四センチほどあるというから、飲み込むには相当苦痛だっただろう。先程連絡があった公安部長の話では、最悪の場合開腹手術が必要になるかもしれないと言っていた」
須依は思わず聞いた。
「だ、大丈夫なの?」
「心配するな。命に別条はないと言っただろ。それより須依。まだ田端に話させなければならないことがあるんじゃないのか。このネタはお前が取材で得てきた情報だろ」
そうだ。まだ肝心な動機の話をしていない。そこで須依は再び田端に対して追求した。
「そう。あなたは先程から重要な事を隠していますね。最後に殺害した三間坂に関しては社会悪の排除じゃなく、完全にあなた個人の都合で殺した。しかしその前の二人、山戸と梅ノ木を林に拉致させ殺させたのは、あなたの腹違いの兄である堀川勝のためにやったこと。そうですね」
そこまで調べられているとは思わなかったのか、田端は狼狽していた。
「な、何を言っている。林は世の中で罪に問われずのうのうと生きている社会悪を制裁したいと言っていたから、条件に合う二人をあいつが殺した。俺はその情報を与えただけだ」
「そうでしょうか。林さんは手塚さんや三間坂さんも含めて、殺す相手を提案したのはあなただと供述しています。それに山戸や梅ノ木を殺したことで、実際政界はかなり混乱しました。あなたの真の目的は最大派閥で城嶋派の幹部である堀川勝を政界で活躍させるため、彼の政敵となる人物を消すこと。自分の弱みを握った三間坂を殺すことはついでだった。今回の一連の殺人事件は全てあなた達の私利私欲の為だったのよ」
「な、何を根拠にそんなことを」
「山戸が国会で吊るし上げられている時、恐らく堀川に相談されたのではないですか。彼に真相を喋らせることで彼の所属する城嶋派の上層部に加え、対立する薬師田派やその他の政治家達の首を取ることが出来ると。それで拉致して自白させる計画を立てた。しかしそれだけでは済ませられないからと、拉致監禁後に殺すことも考えた。といって自らが手を汚す訳にもいかない。そこで以前から目を付けていた林に白羽の矢を立てた。梅ノ木の拉致も同じ趣旨だった。でも手塚は他の殺人を実行する為だけに利用されて殺されただけ。さらに三人殺した所でその中に紛れ込ませれば良いと、以前から邪魔だと思っていた三間坂を拉致するよう林に仕向け、殺せない可能性も考えて自ら手を下した。というより余程彼女の事が憎かったのね」
「な、何を言っているのか分からないな」
「あなたは一人の殺人と三人の殺害教唆の罪に問われるでしょう。恐らく死刑は免れないかもしれませんね。それでもまだ堀川を守るつもりですか。命を賭けてまでそんなことをするほど、彼に借りがあるのですか?」
「そんなものはない! 奴は関係ない!」
「そうですよね。本来なら堀川はあなたにとって憎むべき人物のはず。あなたは同じく政治家だった堀川勝の父親の婚外子でしたね。そして戸籍上の親でもあり育て親となったのがその秘書だった。しかしある汚職事件をきっかけに自殺しています。その後あなたの母親が失踪したため、母方の祖父母の元で育てられていた。あなたが堀川の出世を助けるために計画を立てたことは分かっていますが、何故そんなことを? 堀川やその父親は、あなたを捨てただけではなく、育ての父親を自殺に追い込んだのですよ? しかもあなたの母親も失踪したことになっていますが、秘密を知って口を封じられたと言う噂もあるくらいなのに、なぜ堀川を助けようとしたのですか?」
「俺の母親は生きているよ。失踪して身を隠したのは、マスコミに追い回されない様、堀川が匿ってくれたからだ。今も彼の庇護の元、名前を変えて暮らしている。余命いくばくもない状況だけどな」
これまでの取材では得られなかった意外な告白に、須依は一瞬声を失う。それでも辛うじて尋ねた。
「病気、なの?」
「末期のガンだ。もう助からない。だが俺にはどうしようもなかった母の面倒を看てくれたのは、全て堀川だ」
「つまりあなたが堀川の要望に応じた理由は、母親を人質に取られていたからなのね」
しかし彼は強く否定した。
「だから関係ないと言っているだろ。母親のことは、堀川を憎んでいないことを説明するために言っただけだ。今回の事件とは関係ない」
「あくまで堀川を守るつもりなのね。貴方は育て親と同じことをするつもり? 命を賭けてまで守るほどの価値が彼にあるの?」
すると彼は不敵にも笑ったようだ。己の罪に関しては逃れられないと覚悟したらしいが、あくまで自分一人の犯行だと言い張ろうとした。
「いや、まだお前が掴んでいない情報がある。三間坂を殺したのは、私怨だけじゃない。彼女の罠に嵌って、警察の内部情報を寝物語として漏らしたことをきっかけに脅されかけたのは確かだ。しかし奴らの目的は金だけでは無かった。私が城嶋派の堀川と懇意であることも掴んでいたよ。そこで私は奴らのパソコンに侵入し、奴らの背後を調べた。すると薬師田派に所属する政治家幹部の手先だったことを知ったんだ」
そこで須依は彼の説明を遮った。
「与党で城嶋派に次ぐ派閥を持つ薬師田義彦の懐刀、阿刀利通のことですね。山戸の件にも絡んでいることを知ったあなたは、阿刀に被害が及ぶよう山戸を拉致して監禁し、情報を引き出して映像を流した。その結果、三間坂達の後ろ盾でもある阿刀を辞任に追い込み失脚させたとでも言いたいのですか」
田端は須依がそこまで知っているとは思っていなかったらしい。それでも話を続けた。
「一石二鳥、いや山戸という社会のゴミを排除することで、一石三鳥のはずだった。しかし他にも同じような奴らがいた。それが梅ノ木だ。山戸の件では何とか難を逃れた政治家の中に、彼らの後ろ盾となっていた奴らがいたからな。それが与党だけではなく野党の奴も含まれていた。だから余計に許せなかった。あの愚かな連中達が好き勝手な主張をしたいがために、言論の自由、集会の自由という権利を逆手に取って街を練り歩く。その度に我々警察官がどれだけ苦労して警備していると思っているんだ。敵対する反ヘイトの団体との衝突に備え、毎回大勢の警察官が神経をすり減らしている。彼らの給与は国民の税金から払われているんだ。それなのにそんな下らないことで使われていいと思っているのか。あいつらの背後には政治家だけでなく、財界の人間や暴力団までいたんだぞ。そういう輩達はこの国を良くしようなんて全く考えていない。ただ金と権力を持つことさえできれば良いと思っていやがる。本当は背後にいた奴らも全員皆殺しにしてやりたかったくらいだ」
「国を良くするために、なんて今更綺麗ごとを言って誤魔化さないでください。田端さんがやったことは、単に自分や仲間達に都合の悪い者達を排除しようとしただけじゃないですか。それを国の為になんて大義名分を付けて言い訳にしている。あなた達こそ、今この国を駄目にしている典型的な大人達だと気付きなさい」
斉藤も須依の意見に賛同した。
「そうだ。林もお前のそうした思想に共感して騙されていた。当初は自死するくらいなら、本当に愛しているこの日本を汚す奴らを、一人でも多く排除しようと思っていたらしい。だが今はそれも間違いだったと悔いているようだ。お前のような国賊に利用されたことを知ったから余計だろう」
「あなたは林さんの潔癖すぎる程の正義感の強さを利用したのです。そしてマンションのトラブルを起こし続けることで体調を悪化させ、正常な判断が出来ないように促した。しかもあなたは林さんを日本人だと認めず、彼の出自を利用して公安までも騙して動かした。この罪は重いですよ」
すると須依達の言葉が田端の心の地雷を踏んだのか、それとも逃げられないと悟って自暴自棄になったのかもしれない。それまで観念していたはずの彼が大きく叫んだ。
「やかましい!」
大声を出しながら、彼は須依に突進してきたようだ。左側に座っていた烏森はそれを防ごうと立ち塞がったようだが、彼ごと突き飛ばしたのだろう。グァッという声が聞こえた。そして須依に襲い掛かろうとしたに違いない。その風圧を感じた。
しかしそれ以前に彼を取り巻く空気の異変を察知していた須依は、椅子ごと後ろに倒れた。その反動を利用して、右足を強く振り抜いたのだ。
かつて鍛え抜いた足腰は全盛期より衰えていたが、同年代の男性を跳ね上げる程度の力は残っていたようだ。下から突き上げるように、オーバーヘッドをイメージした蹴りは見事に彼の腹部を直撃した。
「グッ!」
突っ込んできた田端の勢いが、カウンターとなったのだろう。その衝撃は須依の足にも響いた。会心の一撃を見舞った感触が足に残る。
さらに柔道で言えば巴投げのような形になったようだ。空中に舞った彼は、倒れた須依の背後の壁にドシンと激しくぶつかった後、床へ叩きつけられたらしい大きな音が部屋に響いた。
林が田端と顔を合わせた際に襲うだろうと予想し、彼を食い止めるために様々な場面を想定していたことが意外な形で役に立った。最初の作戦では、林が部屋へと入ってきたら須依の隣の烏森と代わり、椅子へ座らせるつもりだった。
そしてもし正面にいる田端を殺そうとした時には、傍にいる烏森が止められなければ、須依が横から蹴りを見舞って阻止しようとしていたのである。視覚障害者の女性ということで油断するはずだと思っていたし、さらに抵抗された場合の動きも予測していたのだ。
「確保だ!」
斎藤が大声を出す。それを合図に、多くの人が部屋へと雪崩れ込んでくる気配がした。彼が事前に待機させておいた刑事達だろう。誰もいないように装っていたが、このマンションには下の三〇一号室と、同じ階の四〇二号室にこっそりと隠れているよう彼が事前に指示していたらしい。
当然この部屋で話されていた会話は全て録音されていた。隠しカメラも設置されていたため映像も取られていたはずだ。タクシーの後部座席に隠れて後から入って来た公安の刑事がすんなり部屋に入ってこられたのも、事前打ち合わせをしていた為である。
ちなみに林が住んでいた頃は彼が神経質で用心深かったために、公安はこの部屋に盗聴器や盗撮器を仕込めなかったという。その代り別の部屋に設置した防音壁をも通す特殊装置で盗聴をし、彼を監視していたようだ。今回はそれと同じ手法を斉藤の部下達が使っていたと後に聞かされた。
須依の蹴りと壁と床へ衝突した衝撃に悶絶していた田端の手には、特殊警棒が握られていたらしい。それを奪った刑事達は彼に手錠をかけた。そして林の振りをしていた公安の刑事も同時に確保されたのである。
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