第九章

 烏森の車から降りた須依は建物の中に入り、受付で重永しげなが雅文まさふみとの面談の約束があることを告げるとすぐ中に通してくれた。

 言われた通りエレベーターに乗り、二十三階まで上がる。そこから右へ曲がった場所にある会議室へと向かったが、その途中で声を掛けられた。

「お待ちしていました。須依さん、お久しぶりです」

 来訪を待ってくれていたようだ。声がした方に向かって軽く頭を下げて挨拶する。

「ご無沙汰しています。すみませんでした。急なご連絡でご迷惑でしたか?」

「大丈夫ですよ。仕事の依頼に繋がるお話なら、単なる取材とは違いますから時間を取るのは当然です。それに電話でも言いましたが、今日はそれほど急ぎの仕事がありません。ではこちらの会議室にお入りください。アテンドします」

「ありがとうございます」

 重永は慣れた手つきで須依の左手を取り右肩に乗せた。そしてゆっくりと前に進む。その後をゆっくりとついて行く。そして椅子が引かれる音がし、そこへ座るよう促された。手探りで椅子の背もたれを触り、腰を下ろす場所を確認する。

 須依が無事座ったことを確認した彼は、左斜め前方に腰掛けたようだ。そこから話しかけられた。

「以前預けていただいたパソコンの分析には正直手間取っています。あいてはかなりのやり手のようで、追跡は相当難しいですね。他にも何か手掛かりがあるといいのですが」

「それなのですが、今回無理を言ってアポを取らせて頂いたのは、その事件と関係することです」

「どういうことでしょうか」

「重永さんは“エウノミア”というハンドルネームを持つ人物をご存知ですか?」

「“エウノミア”? すみません。初めて聞きました。その言葉に何か意味があるのですか」

 そこで須依は林の名を伏せた上で、エウノミアという言葉の由来やネットのどこのサイトに現れたかを伝えた。そしてその人物が手塚の事件と一連の連続殺人事件に関わっている可能性があり、何者かを探って欲しいと依頼したのだ。

「なるほど。このことは警察も掴んでいる情報ですか?」

「それは不明です。掴んでいるかもしれませんが、少なくともマスコミに対しては発表していません」

「そうですか。現在の所は怪しいというだけで、直接事件に関わったと言う証拠はない訳ですね。つまりこちらとしては純粋に、そのハンドルネームを使用している人物を特定すればいい、と。そしてその人物と手塚さんのパソコンに侵入した人物が共通するかどうかを調べればいいのですね。それなら特に問題は無いでしょう。ハッカーの手口というのはだいたい同じ手法を取ることが多い。つまり同一人物なら、苦戦していた手塚さんのパソコン分析も進むかもしれません」

「ただご存知のように、相当なハッキング能力を持っていると考えられます。ですから特定することも、又は追跡することすら難しいかもしれません」

「なるほど。相当手強い相手だと思って取り組まないといけない。下手に追っている事がばれたなら、それだけでこれまでの全てのログの足跡を消されてしまう可能性もある。そういうことですね」

「はい。既に消されているかもしれません。それほどの難敵だと思っていただいて結構です。国際的なハッカー集団と対等に渡り合えるレベルだと考えて貰った方が良いでしょう」

「そこまで言われると、俄然やる気が出ますね」

 重永自身、高い能力を持ったハッカーだ。その知識を生かしてネットセキュリティ会社で日夜、依頼を受けた企業や官公庁を世界中のハッカー達の攻撃から守っている。

 こういう専門知識を持った人種は、その得意分野において自信があるが故に、高いプライドを持っていた。彼らの興味は正者か悪者かではなく、自分より優れているかいないかにあるのだろう。その為須依の依頼は彼の自尊心をくすぐったようだ。

「それでは慎重に“エウノミア”が現れたサイトを調べて見ましょう。他に何か情報となる物はありますか」

 彼の質問に、須依は出来るだけ答えた。独自の推測を加えた際どい情報まで伝えたのだ。さすがに彼も話が進むにつれてただ事ではなく、何故自分に直接依頼して来たのかも理解したらしい。

 彼には須依が大物議員に怪我をさせられた場面が写っている、防犯カメラの映像を預けている。当時、編集長がホテルから入手した際にこっそりコピーを取っていたものだ。念のためにと思っての行動だったが、その後揉み消されてしまった。

 そのため自分の身に何かあった場合、公表して貰うよう高い報酬を払ってデータを渡したのが彼との付き合いの始まりである。

 このことをきっかけに、ネット関係での際どい取材協力はほぼ全てと言ってもいいほどお願いしてきた。というのも彼はこの時をきっかけに、議員の秘密を保持している手を使って政治家に近づき、官公庁の仕事を取るようになったのだ。その上公に出来ないような個別案件にも手を出していると聞く。

 おかげで須依との関係を機会に、彼の会社は急成長を遂げてきた。そうした訳アリの付き合いなのだ。これは現在フリーの記者である須依だからこそできることであり、大手新聞社の社員である烏森が近づきたがらないのも無理はない。

「これは相当厄介な事案ですね」

「もちろん報酬はお支払いします。かなり危険を伴うことも承知していますから、高額になっても構いません。しかしこれは何としてでも、明らかにしなければならないのです」

「ジャーナリストとしての矜持、ですね。でも本当にこの調査が本格的に動きだせば、結構な費用になると思いますけど、須依さんがお支払いになるつもりですか?」

「もちろん今書いている雑誌社や、東朝新聞からもある程度経費として認めさせるつもりです。ただ全額は無理だと思いますので、超えた分は自腹も覚悟しています。しかし今回の件はお金の問題ではありません」

「そうですね。分かりました。お引き受けします。官公庁からの仕事も受けている我が社としても、このような危険な存在がネット社会で暗躍し続けることは放置できません。かかった費用も事件が無事解決したならば、しかるべきところに請求することもできるでしょう。その点はお任せください。それになにせ須依さんからの直々の依頼です。お断りなど出来ませんからね」

「有難うございます。宜しくお願いします」

「では調査の進捗のご連絡も、慎重を期した方が良さそうですね。定期的に暗号化した文書を点字にして、バイク便で雑誌社当てに送りましょうか。その方が安全でしょう。それだと盗聴や盗み見も、そう簡単にできないでしょうから」

「お願いします。こちらも今後は電話ではなく、文書で連絡するようにしますので」

「その方が良さそうですね。どこで監視の目が光っているか分かりませんから」

「お手数をお掛けします」

「いえ、いえ、気にしないでください。十二分に遣り甲斐のある依頼です。必ずご期待に沿える結果をお伝えしたいと思います」

 こうして二人は別れ、須依は烏森の待つ記者クラブへと向かった。また今後のことを考慮すれば、相手の監視から逃れられる安全な拠点が必要かもしれない、と考えていた。 

 そして何故公安などが、イザという場合の時に使用するシェルターをいくつも抱えているのか、という意味をこの時に痛感したのだった。

 その後林とは二度連絡があり、いくつかの情報交換を行った。彼は相変わらずボイスチェンジャーを使用していたが、かなり須依達の事を信用してくれていると感じられた。彼の口からも直接そう言われた。なぜなら警察に追われている殺人犯に対して、出頭を促すようなことを一言も言わなかったからだという。

 須依は彼と話すうちに、烏森が言っていた二重人格説のことは頭から外れつつあった。“エウノミア”の正体がほぼ明らかになった時点で、お互いが持っている情報交換からは、やはり林は“奴”にコントロールされて事件を起こしたという自信があったからだ。

 といって彼は少なくとも三人を殺し、一人を拉致監禁した罪から逃れることは出来ない。

 ただ“奴”を表に引っ張り出すことさえできれば自分は出頭して逮捕され、死刑になっても構わないと言う。それだけのことをしたのだから当然だと言う彼は、警察に捕まった後の資産の処理についても言及していた。

 まずはマンションなども売却して、自分が殺した三人の遺族に対する損害賠償に充てて欲しい。三間坂に対しても拉致監禁し、最終的には殺されてしまうように仕向けた責任があるからその慰謝料も払う必要がある。

 それ等を全て支払った後で少しでもお金が残っていれば、全てを奨学金などで苦労している学生などに対して支援している団体へ寄付して欲しい。

 彼はそう願いながらも、“奴”に対する復讐心だけは衰えなかった。これまで自分が殺人を犯したのは、罪に問われず逃げ延びている悪党をこの世から消したい一心からだという。だからこそ“奴”を野放しにはさせない、と言い続けていた。

 しかしそう簡単に尻尾を掴ませる相手ではないことは互いに理解している。どのような方法が良いだろうか、とこれまで彼なりに考えていたようだ。

 そこで雑誌社の住所を書き、須依当てにパソコンを送ったから早々に分析して欲しいと言ってきた。そしてある程度の証拠が掴むことが出来た時点で自分自身が顔を出すから、“奴”を引きずり出して欲しいとお願いされたのだ。

“奴”と直接対面して命がけで接すれば、何か出てくるかもしれない。そこで共犯者でなければ知りえない、決定的な一言でも口にさせれば良いと彼は言う。しかも裁判にかけられないようであれば、私が彼を裁くとまで言い出していた。

 須依はそれらのことを踏まえて烏森と合流し、今後の打ち合わせをするため車を出して神奈川方面へと向かった。都内を出ることで少しでも監視網から逃れようと考えたからだ。 ビジネスホテルの一室を借り、彼とこれまで取材で得た情報の整理を行った。

「この事件には、与党内の派閥権力争いが絡んでいるというのが須依の推理だったな」

「はい。今回の犠牲者の内、山戸と梅ノ木が拉致され、監禁による拷問を受けた情報で痛手を負ったのは、与党最大派閥である城嶋派とその次の薬師田派です」

「城嶋派のトップは城嶋晴信だったな。薬師田派は薬師田義彦。両名とも今回の件ではまだ逮捕や辞任などには至っていないが、いずれ彼らにも手が伸びるのではないかと噂は飛んでいる」

「そうです。最初は城嶋派のライバルである、薬師田派の何者かが仕掛けたのかもと思いましたが、そうではなさそうです」

「城嶋派の後継者と言われる堀川ほりかわまさるの名が出て来たからか。しかしお前が書いた記事からすると、堀川への復讐とも取れる。だから真犯人達は、城嶋派を潰そうと動いたとも考えられるぞ」

「それだとライバルの薬師田派や、その他の派閥の政治家達までが巻き込まれたことの説明が付きにくいと思います。もちろん本来の目的を隠すためのフェイクかもしれませんが」

「なるほど。“奴”は、同じく政治家だった堀川勝の父親の婚外子だったな。そして戸籍上の親でもあり育て親がその秘書だったが、ある汚職事件をきっかけに自殺した。その後母親は失踪したため、その男は母方の祖父母の元で育てられていた」

「そうです。つまり堀川勝とは腹違いの兄弟という訳です」

「しかし分からんな。本当なら堀川は育ての親を殺した敵じゃないのか」

「最初は私も堀川への復讐かとも思いましたが、今回の事件でもし城嶋晴信が失脚すれば、次の派閥のトップは堀川が継ぐ線が濃くなると言われています。しかも今回の事件で同じ派閥の他の有力な幹部は既に辞任へと追い込まれたか、辞職はしていなくても社会的に大きなダメージを受けていますから」

「なるほど。さらに薬師田義彦も失脚すれば、敵である薬師田の派閥の力も急激に失われる。すでに有力な幹部の一部が辞職に追い込まれているからな」

「そうです。これらから導き出されるのは、腹違いの兄弟である堀川勝の出世を手助けすることが目的だったのではないか、ということです。そう考えるとすっきりします」

「一人目の犠牲者の手塚はその後の計画の為に殺され、四人目の三間坂は真犯人の個人的な理由により殺された。警察発表や林の証言の通り、残酷なほど殴られてから首を絞められ殺されていることからも明らかだろう。林の話だと、山戸と梅ノ木には知っていることを吐かせるために“相棒”を使って脅す際、傷を負わせたことは認めている。しかし手塚はもちろんの事、三間坂のような痛めつけ方をして殺してはいないというじゃないか」

「そこです。三間坂も政治家や官僚、財界人を相手に脅迫をしていた話はありました。しかし前の二人とは違って、城嶋派や薬師田派などに所属する議員達を貶める結果はでていません。彼女が握っていた脅迫のネタが、今後堀川が政界で動く際の武器になるため、拉致監禁してそのネタを奪い取ったのかとも思っていましたがそれも違いました。彼女の取り巻きから得た情報だと、個人的に弱みを握られたことで単に口封じと復讐の為に殺したと考えた方が良いでしょう」

「なるほど。この一連の事件に紛れ込ませることで、本当の動機をうやむやにさせ、その後全ての罪を林一人に負わせるつもりだったんだな。だったらなぜ三間坂を殺した際、林は気絶しただけで殺されずに済んだのかが分からん」

「もう少し利用しようとしていたか、または警察に追われて逮捕されそうになる直前に口を封じる予定だったのかもしれません。そうでないと全て林の責任に出来ないでしょう」

「そういう理由なら理解できる。ただ今回林が逃走してまだ捕まらずに生きていて、しかも俺達と情報共有しているとは、まだ相手も気づいていないだろう。主犯格が存在し、それが奴らと関わっているとなれば焦っているはずだ。須依の書いた記事の事もあるし、下手には動けない。上手く林を拉致して罪を着せるのは、相当難しくなるだろう」

「そうですね。ただとにかく林の居場所は、警察や“奴”達が必死になって捜索しています。半グレ達もいますから、彼は強がっていましたが発見されるのも時間の問題だと思います。その前になんとしても、彼が言った“エウノミア”と私達が主犯格と睨んでいる人物が同一人物なのか、そうでないのかを調べなければなりません。どういう手を使ってでも、今回の事件に関わっている事を証明する決定的な証拠を掴まないと、彼の命が危ない」

「確かにそこが肝心だ。それなりに打てる手は尽くしてきたが、他に出来ることはあるか」

「私も考えてはいますが、今の所何も浮かびません。結局本木さんにお願いした件と、重永さんに調査依頼をした件で何かが出ないと、次の手が打てない状況ですね。彼から届いたパソコンの分析が進めば、もう少し活路は見出せるかもしれません」

「堀川勝を突くと言うのはどうだ」

「難しいですね。今回の件も堀川がどこまで知っているかは不明です。それに下手な動きをすれば、相手に漬け込む隙を与えてしまうでしょう」

「俺達が逮捕されでもしたら、完全に事件の真相は闇の中になってしまうからな」

「相手もそう考えているはずです。だから慎重に動かないといけないところですが、逆転の発想で、大胆に動いて見ると言う手もあります」

「どういうことだ?」

 そこで彼に思いついた作戦を告げると、彼は驚愕の声を上げた。

「おい、そんなことして大丈夫か?」

「虎穴に入らずんば虎子を得ず、です」 

 渋る彼を説き伏せた須依は、翌日思い切って直接斎藤と連絡を取った。そして記者達も集まる例の店に一人で来るよう呼び出し、今回はカウンター席の一番端に座って二人になった所で別の方向からネタをぶつけたのだ。

「公安部が行っていると噂されている都内のシェルターの確保に、サイバー対策課が絡んでいると言うのは本当なの?」

 当然彼は平然を装った。

「突然何を言い出す。公安は警視庁の中でも特殊で秘密主義を貫いているところだ。どういう動きをしているかなんて、余所の課の俺が分かるはずがないだろ」

 しかし須依は引き下がらなかった。

「普通はそうよね。でもサイバービルには、公安のサイバー攻撃対策センターも入っているでしょ。そこで生活安全部のサイバー対策課と公安とが繋がっていてもおかしくない。いえ、関係ないはずがないのよ」

 彼はそこで大きくため息を吐いた。

「確かに交流はあるさ。効率化の為に様々な研修や情報交換をする場として、あのビルに入ったのだからな。しかし万が一そんな話を耳にしたとしても、記者のお前に話せることなんてない。それぐらい分かるだろ」

「もちろんよ。その上で確認したいの。あの連続殺人事件に関わる大事な事よ。私達が調べたところだとあの事件が起こったマンションは、公安がシェルターとして使っていたという情報があるわ。もしそれが本当なら大変な事でしょ。さらにそこへサイバー対策課が関わっていたとしたら、大変な責任問題になるわよ。警察が関わっていたマンションであれだけ残虐な事件が起こっていたのに、気付かなかったとなれば余計よ」

 これにはさすがに彼も動揺を隠せなかった。

「おい。それはどこからの情報だ。あのマンションを公安がシェルターとして使っていたって? お前はガセを掴まされているだけだろ」

「いいえ。確かな筋からの情報よ。それこそ公安があなた達に隠れて行動していたら、分かる訳がないわよね。でも今の時代にシェルターを設置する際、ネット環境を装備しないなんて考えられないでしょ。昔と違って単なる隠れ家として使用するというより、サイバー攻撃に対処するための拠点として、利用する目的が主になっているんじゃないの」

 どうやら図星だったようだ。もしそうだとすればサイバー対策課の課長である彼が、全く関知していないはずがない。しかし彼は反論した。

「確かにそういう拠点がないとは言わない。都内はもちろん、警察庁や各都道府県にも公安はある。サイバー対策を強化するために、いくつか拠点を必要としていることは確かだ。しかしあのマンションが拠点の一つだなんて、捜査本部からの情報の中にはない」

 その声からは嘘かどうかは判別することができなかった。本当に彼は知らないのか。それとも完全に白を切っているのか。それを確かめる為に須依は揺さぶりをかけた。

「もし私の話が信じられないと言うのなら、課に戻って公安の上の人に確認してもらうといいわ。ただし気を付けなさいね。本当にあなたが聞いていないのなら、意図的に隠されているのかもしれない。下手に突っつくと痛い目に合うでしょう。それに誰が信用できて誰が疑わしいかを見極めることも必要よ。そうしないと何か問題があった時、課長であるあなたが責任を取らされることになるわ」

「お前、何が言いたい?」

 さすがに気づいたようだ。そこでさらに踏み込んでみた。

「あなたなりに一度、サイバービル内を中心に調べてみなさいよ。その上で私が調査したことが本当かどうか、または何を掴んでいるかを知りたいのなら、あの事件が起こったマンションの部屋に、私や烏森さんを入れて。そこでなら全て話をするわ」

「どうしてあのマンションなんだ?」

「それは調べて見れば分かるから。それと、もう一つ条件があるの」

 そこで須依は持っている情報の一部を彼に告げ、一人ではなく複数でマンションへ来るように伝えた。それを聞いた彼は声のトーンをさらに落としていった。

「お前は記事で“ある人物”が今回の事件に関係しているようだと書いているが、本気で言っているのか。それに今話したネタを、どうやって手に入れた?」

「ネタ元の秘匿は記者としては絶対よ。でも必要とあればそれを明かしてもいいわ。真相が全て明らかになるのならね」

 ようやく納得したらしい彼は言った。

「分かった。こっちで十分検討した上で、必要と判断したならお前達に声をかける。ただ忠告しておくが、首を突っ込み過ぎるな。といってもすでに手遅れかもしれないが。本木とその仲間が、お前の周りをうろちょろしているようだからな。おかしな真似をすれば直ぐに身柄を確保されるぞ」

「分かっているわよ。足元を掬われない様注意するわ。でもかなり深いところまで関わっちゃったから、今更知らないでは済まないでしょうね」

 二人はそこで別れ、彼はタクシーを呼んでどこかへと消えた。自宅へ帰ったのかそれとも職場に戻ったのかは分からない。須依はまだ地下鉄が動いている時間だったため、そのまま最寄りの駅へと向かう。

 それほど頻繁ではないが、何度か使ったことのある駅だ。人はまだそれなりに多くいるようだった。スムーズに改札を抜け、ホーム中央からやや外れた場所に立つ。 

 この駅には転落防止の壁がないため、白杖でブロックを念入りに確認する。その上で周囲の気配を気にしながら、ほんの少し後ろに下がった。人が良く通る場所や前に立ち過ぎていると、何かの拍子で人と衝突し、落ちてしまうことがあるからだ。

 そんな時、こちらへと歩いてくる足音が聞こえた。電車がやってくる合図の音楽が流れている。同じ電車に乗ろうとする客らしい。だが奇妙な気配を感じた。その為一瞬身構えたが、須依の後ろを静かに通り過ぎて離れていった。

 気のせいだったかと気を緩ませた時、ゴーッという大きな音が鳴り、風を感じた。電車がホームへと入ってくるようだ。その瞬間、今度は先程通り過ぎた人が向かった先から人の走る音がかすかに聞こえた。と同時に殺気を感じる。

 今度は気のせいではないと体全体に力を入れ、ホームの線路とは逆の壁際へと逃げようとした。しかし相手は強靭な足腰を持った男だったらしい。そうはさせまいと、背後から激しくぶつかって来たのだ。強烈なタックルを受けた状態で、須依の体は電車が通る線路へと落ちた。

 線路へと叩きつけられ、右腕に激痛が走る。その瞬間ブオーッと警笛が鳴った。キャーッと叫ぶ声や、危ない! 人が落ちた! と怒鳴る声も聞こえる。ホームにいた他の客が見ていて咄嗟に声が出たのだろう。

 それらの音で自分のいる位置を一瞬で把握した須依は、倒れた体を左に回転させた。途中でおそらく線路であろう鉄の塊にぶつかったがそれを乗り越え、さらに転がる。そこでようやくコンクリートの壁にぶつかった。

 その時鼓膜が破れる程の、キーッという激しい急ブレーキ音が須依の耳を襲い、同時に凄まじい風圧に押される。電車がほんの直ぐ近くを通り過ぎたようだ。危機一髪だった。寸での所で転落した際に逃げ込む、ホームの下の空間へと転がり込むことが出来たのだ。

 そこから駅は大騒ぎになった。周囲で目撃していた多くの客は、確実に轢かれて死んだと思っていたようだ。しかし電車が停止し、車掌達が駆け付けた際に須依が声を出したため、無事だと分かった途端に驚きと喜びに満ちた拍手が沸き起こった。

 そこからも大変だった。電車を動かさないと脱出できない。前方の車両に乗ろうとしていたこともあり、電車はゆっくりと後ろに下がった。そこで須依の落ちた場所に地下鉄の職員達が下りてきて、体を支えてくれながらホームの上へと運び上げられたのだ。

 さらに遅れて本木と他数名の刑事達もやってきた。

「須依さん、大丈夫ですか!」

「落ちた時に打った右腕が少し痛むかな。もしかして折れているかも。でも他は大丈夫。これくらいの怪我なら大したことないから」

 目で自分の傷の損傷具合は確認できないが、スポーツに取り組んできた長年の経験がある。捻挫や打撲などは日常茶飯時だったし、骨折もかつて経験したことがあった。その為今感じている痛みなら、どの程度なのかだいたい想像がついたのだ。

「すぐに救急車を呼びます。すみません。私達が近くにいながらこんな事になるなんて。

 店を出られて駅に着かれる前までは見張っていたのですが、改札で酔っ払いの騒ぎに巻き込まれ駆け付けるのが遅れました。何があったのか教えて貰えますか」

 そこで須依が説明をすると、これは事件性があるに違いないと彼らは騒いだ。須依が本木の呼んだ救急車に乗って病院へ運ばれている間、ホームに設置されている防犯カメラを確認したらしい。

 すると一度通り過ぎた男が駅に電車が入ってきそうになった所で、突然方向転換をして走り出していたようだ。見方によっては何か忘れものに気付き、慌てて戻った所でぶつかったかにも取れなくはないという。しかし須依が咄嗟に壁際へと動いたために、若干不自然な形で走る方向を変えて衝突していたそうだ。

 しかもホームへと落ちていく様子も見えたはずのその男が、そのまま走り去ったことは問題だった。しかもマークしていた本木達が足止めを喰らっていたのは、その男の仲間達による策略ではないかと疑う声も出始めたのである。

 須依が調べている記事の質から考えて、命が狙われたと言う見込みが高まったからだろう。本木に対して事前に相談していたことも影響したらしい。しかも病院での診察結果は右腕の骨折だけで済んだが、須依の反射神経と咄嗟の判断力が無ければ確実に死んでいた状況だった。そこで単なる転落事故による傷害ではなく殺人未遂事件とみなされたようだ。

 さらに一連の事件にも関係しているかもしれないと捜査本部の耳に入ったことから、カメラに映っていた男性の行方と、改札の周辺で騒いでいた酔っ払い達の行方を探る捜査が本格的に開始された。

 この事件が斎藤に要求していた件を実現させる為の大きな口実となった。まさしく災い転じて福となる、だ。本来なら絶対に許可されないであろう、現在も立ち入り禁止となっているマンションの中に入ることが認められたのだ。

 念のため検査入院していた病院から退院し、ギプスで固定された右腕を左手で擦っていた須依の横で、迎えに来てくれていた烏森がそうした経過報告をしながら言った。

「あとは林からの連絡待ちだな」

「そうですね。あの後彼から送られてきたパソコンの分析結果からも、それなりに有力な情報が得られたようですから。ただ気になるのは前回連絡があってから、少し時間が経っていることです。次の連絡はいつと決めてはいませんでしたが、そろそろ電話がかかってきてもおかしく無い頃ですよね、烏森さん」

「ああ。須依が駅で突き落とされたこともニュースになっていたから、心配してかかってきても良いと思うのだが」

 そんな会話を交わしていた時、須依のスマホが鳴った。相手は重永だ。

「はい、先日はどうもありがとうございました。今日はどうされましたか」

 須依がそう聞きながらも首を捻った。彼との連絡は盗聴などを防止する為、電話ではなく基本的には文書でやり取りすることになっている。だが彼の声は急を要することだったらしい。

「申し訳ないが至急こちらに来てくれないか。文書やメールだと時間がかかると思って電話した」

「分かりました。すぐに向かいます」

 電話を切り、烏森に理由を説明して車を出して貰うようにお願いする。彼は急いで須依の左手を肩に置いて歩きながら、心配そうに聞いてきた。

「連れて行くのは構わないが、何かあったのだろうか」

「行ってみないと分かりませんが、緊急事態が起こったと考えて間違いないと思います」

「それなら一分一秒が惜しいな。少し速足でいくぞ」

「はい。お願いします」

 彼の後を必死に追いかけながら車へと乗り込み、重永の会社へと急いだ。

 その移動中の車中で、雑誌社から電話がかかって来た。ボイスチェンジャーを通した声で須依を呼び出しているという。どうやら林からの連絡らしい。

 そこでいつものように電話を転送して貰った上で、重永の会社の一階ロビーに公衆電話があったことを思い出す。そこでその場所の電話番号を確認し、十五分後にそこへかけて欲しいと告げて、すぐ電話を切った。

「林か? ようやく連絡が着いて良かったな」

「そうですね。重永さんの急ぎの要件は気になりますが、彼とは早急にあのマンションで落ち合う日時を決めないといけませんから」

 そう。最終手段はいくつかの証拠が揃った時点であのマンションに“奴”を呼び出し、林と直接会話をさせることだった。今の時点では、“奴”があの殺人事件に関わっていたことは間違いないが、殺人の首謀者だと言えるほどの決定的な物証までは用意できていない。

 林の提案を受け入れたのは、やはり“奴”がボロを出すことを期待するしかないとの結論に至ったからだ。本来は避けたかった。何故なら“奴”が白状、または何らかの決定的な証言をしなかった場合、彼は問答無用で“奴”を殺すつもりでいるからだ。

 彼は以前言っていた。裁判にかけられないようであれば、私が彼を裁く、と。彼は死を覚悟して須依達の前に現れ、出頭するつもりだ。しかし自分が逮捕されて身動きが取れなくなる前に、“奴”を制裁しようとも考えているはずだ。

 だがそれは絶対に阻止しなければならなかった。その方法も烏森とは前もって打ち合わせをし、何通りかのシィミュレーションを行った。確かに“奴”は悪人だ。しかし林達が取っていた方法と同じように処罰することは、この法治国家の日本で起こさせるわけにはいかない。

 彼が刑罰を下されて処刑される前に、そのことを心の底から理解して欲しいと須依は考えていた。だからこそ、必ず“奴”を法の下で罰しなければならない、逃得にはさせないと強く心に誓っていたのだ。

 重永の会社に着き、一階ロビーの隅に置かれた公衆電話の前に立った。烏森には近くに見張りとして付いて貰う。時間は約束の二分前だ。時計を耳に当てたままじっと待っている間に、数人の出入りしている足音が聞こえた。

 やがて公衆電話が鳴ったため、素早く受話器を取り上げる。周囲では何事かと一瞬こちらを向いたのだろう。複数の視線が感じられたがそのままスルーし、いつものように小声で告げた。

「はい、須依です。情報提供者様ですね」

 一瞬の間があり、そうですという機械を通した声が返ってくる。時間が無く場所も場所であるため、真っ先に伝えなければならないことを話した。

「マンションに呼び出す件ですが、先方から了承が出ました。基本的に夜八時以降ならいつでもいいので、こちらの都合に合わせると言われています。いつにしましょうか。よろしければ、どこか指定して頂ければ私達でお向かいに参ります」

「明後日。マンションには夜九時。千葉の谷津駅の近くを通る国道十四号線沿いにコンビニがある。一時間前の八時、そこまでタクシーを使ってあなた一人で来い」

 周囲を気にしているのか、いつものような口調ではない。しかも必要最小限の言葉しか話さなかった。もしかすると危険が迫っているのかもしれない。そう感じた須依は答えた。

「分かりました。明後日の夜八時に私一人でお向かいに上がります。念のため今から先方にアポの確認を至急取りますので、そのままお待ちいただけますか」

「ああ」

 短く答えたことでさらに不安になった須依は、すぐに手持ちのスマホで斎藤を呼び出した。彼は比較的早く電話口に出たため、簡潔に切り出した。

「例の待ち合わせの件だけど、明後日の夜九時に現地集合でお願いしたいの。いい?」

「明後日なら大丈夫だろう。今もまだマンションは立ち入り禁止になっているが、管理している所轄の担当者に連絡をして段取りはしておく」

「日時の変更は絶対駄目よ。お願いね」

「そういう約束だったからな。了解した。俺ともう一人、二人だけで行けばいいんだな」

「そう。じゃあまた」

 二人の会話はそれで終わらせて電話を切り、通話状態のままで待たせていた林に告げた。

「今の会話が聞こえていたのなら分かると思いますけど、アポの確認が取れました」

「分かった」

 そこで相手が受話器を置いたようだ。ツーツーという音だけが聞こえた。須依も受話器を置いたが、怪訝な顔をしていたからか烏森が心配そうに尋ねてきた。

「おい、どうした。何か不都合な事でもあったのか?」

「いいえ。無事、例の待ち合わせが明後日に決まりました」

「そうか。それにしては浮かない顔をしているが」

「え? ああ、最初は烏森さんに車を出して貰って迎えに行くつもりでしたけど、彼は私一人でタクシーを使って迎えに来て欲しいと言うので。だから烏森さんは明後日の夜九時、現地で待っていてください」

「一人で来いと言ったのか。まあ、それも仕方が無い。俺とは全く話をしていないから、信用できるのは須依だけということだろう。逃亡している状態から表に出てくるんだ。それぐらい慎重になるのも理解できる」

「そうですね。いよいよ最終決戦だから、彼も神経質になっているのかもしれません。それにしても千葉の谷津で待ち合わせということは、あっち方面に隠れているのでしょうか。彼が“エウノミア”の正体を探っていて反撃する機会を狙っていましたから、余り離れていない関東近辺だろうとは思っていましたが」

「たしか向こうの海岸沿いに行けば、空き別荘の点在している地域があったはずだ。恐らくその中の一つに逃げ込んでいたのかもしれない。以前刑務所から脱走した奴もそういうところで長期間いたというし、そこからヒントを得たのだろう」

「そうかもしれませんね。それに千葉方面なら彼のかつての転勤先には関係がありませんから、警察の裏をかくためにも都合が良かったのでしょう」

「全くのプライベートで行った時か何かで、偶然見つけていたのかもしれないな。じゃあ、俺はこのままロビーで待っている。須依は重永の所に行ってこい。急ぎの要件が何か気になるだろう。例の事件で新しい証拠が見つかったのかもしれないからな」

「分かりました。行ってきます。情報の中身によっては烏森さんにも上へ来ていただく必要があるかもしれません。それでもいいですか?」

 そう言うと彼は気乗りしない調子で、渋々答えた。

「しょうがないな。もしそうだったら、スマホに連絡を入れてくれ」

「お願いします」

 そう言って須依は依然と同様受付の女性に用件を伝えてエレベーターに乗り、重永の待つ部屋へと向かった。

 二十三階に着いてエレベーターのドアが開き、一歩外に出た途端に声をかけられた。

「お待ちしていました。急な呼び出しをして申し訳ありません。こちらへどうぞ」

 切羽詰まったような彼の口調で、相当厄介か重要な事が起きたのだろうと理解する。素直に彼の肩を借りて、促されるまま誘導してくれた部屋へと速足で歩いた。

 以前と同じと思われる会議室に入り、椅子へ座らされたと思いきや彼は小走りで離れた後、直ぐに須依の隣に座って机の上に何かを置いたようだ。

「これは須依さんから預かった、例のパソコンです」

「ああ、あれから何か新しい情報が見つかりましたか?」

「新しい情報と言えばそうですが、事件に関するものではありません。この前お伝えしたもの以外に何か見落としているものはないかと探っていたところ、それまで作動していなかったアプリが急に動きだしたんです」

「アプリ、ですか?」

「はい。スマホと同様にパソコンにも色々なアプリをダウンロードすることが出来るのですが、このパソコンの所有者はGPS機能のついたものを取り入れていたようです。例えば財布やスマホを無くした時に、パソコンでそれらの位置情報を確認できるようにしていたのでしょう」

「なるほど。それが何か? 急に作動し出したというのは?」

「これは例の事件で行方をくらましている林さんの物ですよね。このパソコンを立ち上げてネットに繋いだ時点で、分かる人には接続された場所がどこか特定することが出来ます」

「そうですね。林さんは“エウノミア”という人物から逃れるために、パソコンの電源を切ってしばらく使用していなかったと言っていました。しかし中身を分析するにはネットに繋がないとできません。だから私に託してくれ、それをプロであるあなたにお願いしたのですから」

「私がこのパソコンを分析して“エウノミア”の正体を探っていたことは、相手にも分かっていたと思います。それでも当社のセキュリティを破ることは困難だったでしょうから、所在が特定できたとしてもパソコンの中身にまで侵入はさせていません。それなのに彼のGPS機能が付いたアプリが動きだした。これはつまり“エウノミア”ではなく林さんがパソコンはこちらにあると分かった上で、意図的に作動するようにしたのではないかと思います」

「どういうことですか?」

「位置情報を知るには、電波を発信する機器を付けなければいけません。スマホなら中にその機能が入っているので、電源を入れば位置が分かります。しかし財布などの場合は、その機器を付けて機能をオンにしなければ作動しません。しかもこの機器はかなり広範囲の電波を感知するもののようです」

 重永が緊急で呼び出した意味をようやく理解した須依は、アプリが起動し始めた時の状況から今に至るまでの説明を詳細に聞いた。そしてこれには烏森の協力が必要だと考え、下で待っている彼を呼び出したのだ。

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