第八章

 無謀な作戦の成功率を少しでも上げるために、須依はいくつか手を打っていた。

 一つは記事を掲載している雑誌社に担当記者への問い合わせがあった場合、電話ならばすぐ須依のスマホに転送して貰うよう依頼したことだ。手紙などであれば即刻取りに行くため、時間を置かずに連絡を入れる事も約束して貰った。

 理由はもちろん、逃走中の林から万が一連絡が入った場合いち早く対応するためだ。相手の状況から考えれば、こちらから折り返し電話をかけることなど出来ないだろう。それに恐らくコンタクトを取るならば、居場所の特定がされにくい公衆電話を使うと思われる。

 とはいっても、林との連絡を須依が持つ携帯で行うには危険が伴う。なぜなら盗聴、または逆探知される恐れがあるからだ。自分は完全にマークされていると感じていた。

 そんな中で逃亡している彼と連絡を取り合う方法を考えた時、やはり公衆電話しかないと思った。その為事前に自分が移動するだろういくつかの場所の近くにある、公衆電話の番号と場所を控えて置いたのだ。

 記事の反響が大きかったため、林とは全く関係のない問い合わせが数十件以上あり、空振りばかりが続いた。

 しかし林がこちらを敵ではないと見定め、連絡を取ろうと考えるまでには時間がかかると覚悟していた。チャンスは第三弾の記事を掲載した後だとも予想していたため、決して諦めなかったのである。

 そしてその読みと賭けが見事に当った。ある日携帯にかかって来た電話口から、いつもの雑誌社の女性が恐る恐ると言った口調で話し出した。

「あ、あの、須依さんですか。また記事を書いた記者と話がしたい、という連絡があったのですが、転送してもよろしいですか。少し様子がおかしい方からですけど」

「様子がおかしい、ってどういう感じ? クレーム? 怒鳴り散らしているとか?」

「い、いえ。須依南海という記者さんと話がしたい、とだけおっしゃられましたが変な声でした。何か機械を通して喋っているような感じで」

 咄嗟にそれがボイスチェンジャーだと理解し、胸が躍った須依は直ぐに答えた。

「直ぐに転送してください! 早く!」

「は、はい、分かりました」

 彼女の返事の後に、しばらく間があった後で気配が変わった。須依は咄嗟に言った。

「情報提供者様ですね。盗聴などの恐れがある為、もしよろしければ二十分後にこれからお伝えする公衆電話の番号におかけ直しください。もしご心配なら、私が言った番号が本当に公衆電話かどうか、先にご確認いただいても結構です。いかがでしょうか」

 相手は若干戸惑っているようだったが、少し時間を置いて話し出した。

「あなたが須依南海さんですか?」

 その声はやはりボイスチェンジャーを通したものだ。警戒し、怯えているように聞こえたが、口調自体は丁寧だった。そこで敢えて明るく言う。

「はい。そうです。貴方からのご連絡をお待ちしていました」

 すると相手はさらに動揺していたようだが、短く返事をした。

「分かりました。二十分後ですね。何番でしょうか」

 須依はその時、警視庁の記者クラブにいた。そこで事前に用意していた中で、一番近い場所の公衆電話の番号を伝えた。そこにはここから急げば何とか時間内で着くはずだ。しかも幸いなことに烏森が隣にいる。

 相手は伝えた番号を繰り返して確認した後、すぐに電話を切った。

「来ましたよ、烏森さん。駅に向かいましょう」

「よし、分かった」

 横で興奮を抑えながら会話をしている須依の様子を見ていたらしい。すぐに意図を理解したようで、急ぎ記者クラブを後にした。

 目的の公衆電話へは、約束の五分前に着くことが出来た。烏森には周囲を見張ってもらうよう依頼してから須依は電話の前に立ち、時計を耳にかざしてかかってくるのを待った。

 すると約束の時間になった瞬間、公衆電話が鳴った。須依は慌てて受話器を上げ、素早く答える。

「もしもし、お電話をいただいていた須依南海と申します。先程ご連絡いただいた情報提供者様ですか?」

 ワンコールしない内に出たために相手は驚いたのか、言葉に詰まっているようだ。それでも機械越しに短い答えが返って来た。

「はい、そうです」

 しかしそこから何も言おうとしない為、こちらから尋ねてみた。

「恐れ入りますが、お電話いただいたのは、連続誘拐殺人事件についてでしょうか」

 やや間があったが、相手ははっきりと答えた。

「はい、そうです」

 そこで思い切って切り出した。

「林秀夫さん、ご本人ですか。もしそうならご安心ください。その可能性を考え警察が盗聴できない様に、こうして駅の公衆電話を使っています。ですからなんでもおっしゃってください。現段階であなたは事件の犯人ではなく、あくまで参考人です。推定無罪の原則からしても、あなたからの情報は決して第三者に漏らすことはありません」

 はっきりと力強く早口で述べた須依の言葉に、相手は一瞬息を飲んだようだが腹を括ったのだろう。待望の答えが返って来た。

「そうです。林です。そちらの公衆電話が駅だと言うことは、先程電話をかけて確認しました。しばらくしてたまたま通りかかった方が電話を取られ、教えてくれました。ですから信用できると思い、再び電話をしたのです。あなたの書かれた記事を拝読しました。そこで是非聞いて貰いたいと思い、また教えて欲しいこともあって連絡をしたのです」

 ここは出来るだけ相手に話をさせて聞き役に徹しようと、敢えて短く尋ねた。

「なんでしょう?」

 すると彼は一度大きく息を吸った後、饒舌に喋り出したのだ。

「あなたが記事に書かれたように、あの事件を引き起こしたのは、ハッキング能力のある人物による主導で実行されたものです。といって私は自分が無実だと逃げるつもりはありません。ただこのまま私だけが単独犯として逮捕され、処罰されることだけは許せない。ですから是非あなたのお力を借りて、“エウノミア”の正体を暴いて欲しいのです」

 聞き慣れない言葉に、思わず尋ねた。

「“エウノミア”の正体、ですか?」

「“エウノミア”とは、ギリシャ神話で全知全能の神ゼウスと、法と掟の女神テミスとの間に生まれた三人の女の子の一人で、“秩序”を司る女神の名です。そしておそらく私を罠に嵌めた奴の、ネット上で使用されている“ハンドルネーム”でもあります」

「やはり高いハッキング能力を持つ、主犯格の人物がいたのですね。そいつがあなたを唆し、または拉致する人間達がどこにいるかなどの周辺情報や、防犯カメラへの細工をした。そうではありませんか?」

 そこから彼の言葉が少しくだけ始めた。

「そいつが全てを行ったかどうかは分からない。ただ、奴とのやり取りから始まったんだ」

「どういうことですか?」

「話すと長くなるが、いいのか?」

「私は大丈夫です。もう一人、味方の記者が周囲を警戒し見張ってくれていますから。しかし万が一警察関係者に気付かれたら直ぐに切ります。その場合は明日同じ時間、ここへかけてください。駄目なら他の方法を考えますが」

「いや、それでも構わないが、あなたの携帯に直接かけることは駄目なのか?」

「伝えてもいいのですが、あの記事を書いたことで私達も警察からマークされている可能性があります。盗聴されたり身柄を拘束されたりして、スマホの着信履歴を見られた場合、そちらにご迷惑がかかることもあると思い、こうした方法を考えました」

「なるほど。あのような記事を書けば、私が接触してくると最初から考えていたのか」

「そうです。しかし私の目的はあの事件の本当の真相を掴み、主犯格を掴まえることです。その為には林さんの協力が必要だと思い、こうした手を考え付きました」

「記事を書いたからと言って、私が連絡を取るとは限らないだろう」

「もちろんそうですが、それしか方法が思いつかなかった為、賭けに出たのです。でもあなたは連絡をしてくれました。正直私は今、ホッとしています。既に主犯格の人物達に捕まって口を封じられているかもしれないと、今の今まで心配していましたから」

「分かった。そこまで言うあなたを信じよう。こちらも今のところは大丈夫だが、危ないと思ったらすぐ電話を切る。その場合、続きは明日のこの時間に話すことにしよう」

「そうしましょう。では話を戻しますが、全てが“エウノミア”という人物とのやり取りから始まった、というのはどういう意味ですか?」

「奴と初めて接触したのは、私が会社を休職して自宅療養のために部屋で籠っていた頃だ。しかし体調には好不調が激しい分、たまに起きていられる良い状態の時もある。そんな時はパソコンを立ち上げ、ネットサーフィンなどで憂さ晴らしをしていた」

「つまりマンションを購入する前、まだ以前お勤めになられていた会社の社宅に住んでいた頃ですね?」

「そうだ。あの頃は色々あったからな。それに取材して知っていると思うが、長い間別居していた両親が年老いて落ち着いたこともあり、一緒に暮らし始めていたんだ。それなのに私が休職する少し前、バスツアーに参加して超過勤務が祟った長距離バスの運転手が起こした交通事故に巻き込まれ、二人共亡くなった。精神的にも参いったよ。その上煩雑な遺産相続の手続きをしなくてはならず、そのことで大変な目に遭った。それが落ち着いたと思った頃から体調を崩し、自分がうつ病にかかっていると判って休職することになったんだ。そうした背景もあって、上司達は私の病気の原因が会社だけにあるとは考えず、それを認めようとはしなかった。休養するために休職したはずが、さらにストレスが溜まっていったよ」

「なるほど。そんな時に“エウノミア”という人物と接触されたのですね。そこではどういった会話をされていたのですか?」

「最初はたわいもない事だ。日頃の鬱憤などを書き込んで、それに同意して貰ったり、慰めて貰ったりしていた程度だった。両親の事や自分の病気以外にも、例えば化学芳香や猫アレルギーがあったから、そうした悩みを書くとアドバイスもしてくれた。それに時々買い物の為に出歩いた時など、まるで犬のようにリードを付けた猫を我が物顔で散歩させっている人がいたので、そういった飼い主への不満などを書き込むと、奴は同意してくれて一緒に怒ってくれたんだ」

 彼は過去を思い出しながら当時の事を思い出し、興奮し出したようだ。ボイスチェンジャーを通してでは聞き取りにくいほど早口になり、口調は徐々に激しく乱暴になった。彼の愚痴はさらに続いた。

「猫なんて家の中で飼えばいいんだ。たまには外に出したいと思っての行動かもしれない。それともその飼い主は以前飼っていた猫に逃げられた経験があったとも考えられる。私だってその程度の想像はできるし、一〇〇%理解できない訳ではない。だが問題なのはその飼い主の態度だ。猫を不自由なく歩かせるためなのかリードを極端に長くし、猫を嫌う人なんていないと信じきっている、その傲慢な態度が気に食わなかった。おそらく自分の取っている行動が他人に迷惑をかけていることなど、考えた事などないのだろう。怖がる人間の方がおかしい、と言わんばかりに闊歩している。その不遜ふそんな行動に腹が立ったんだ」

 彼の話を聞く限り、須依はやはり自分と似た感覚を持っている人物だという推測が間違っていなかったと思った。

 世の中には色々な人がいる。須依は犬が苦手だ。その為に街中で散歩している姿を見るだけで、とても恐ろしくなる。そういう人もいるのだ。可愛いと思って寄ってくる人達もいるだろう。しかしそうでない人が存在することも考えて欲しい、と何度も思ったことがあった。

 食べ物でも今や小麦や卵、牛乳、落花生、蕎麦やエビ、カニなどの七種目には、アレルギー表示が義務付けられている。他にもメロンなどの果物で拒絶反応を示す人もいるし、イスラム教信者の多くはハラール認定された物しか食べられない。そうした宗教的な理由や文化の違いによって、口にする物が異なる場合もあるのだ。

 食べ物だけではない。生き方などもそうだ。例えばLGBTの人々等もいる。国は少子化で困っているから子供を産めというが、望んでいてもできない人達も存在するのだ。

 生まれ持った体質だけでなく貧困などの経済事情や子育てに向かない等の環境から、躊躇する若者も決して少なくない。須依もその一人である。

 さらにはもっと根本的な問題として、昔から存在するのは人種問題だ。肌が白い、黒い、黄色いなど、この世の中は様々な肌の色をしている人達により成り立っている。それらを無視し、己の狭い世界で培った価値観だけで判断し差別することは、完全な時代錯誤であり想像力が欠如している人間のすることだと須依は思う。

 それでも他人に迷惑を掛けず、マイルールの世界で生きることを選択しているのならそれは許されてしかるべきだろう。須依も視覚障害者という枠の中で生きているから、余計にそう感じていた。“エウノミア”という人物でなくても、林の主張には頷ける点が多い。しかし途中からややその発言が、過激になり始めたことに気付いた。

「他人を自分勝手な尺度で図り、迷惑をかけるなど言語道断だ。そんな奴はこの平和な日本という国でなければ、殺されてしまう場合もあると身をもって知れば良い。それこそマナー違反の輩は、すぐに殺されてしまう国へ強制送還してしまえばいいのだ。私はそんな愚痴を書き込むことで、溜まったストレスを発散していた。そんなコメントに同意してくれる人達は、ネット上なら日本だけでも何千人といる。その一人が“エウノミア”と名乗る奴だった。私の予想では恐らく男性だと思われる“奴”とは、当時とても話が合ったんだ。愛描家達の悪口で盛り上がりながら、“彼”は犬も嫌いらしく、また甲殻類を多く食べ過ぎるとアレルギー症状が出るらしい。共通の話題だけでなくそれぞれの弱点を明かしながら、お互いを理解しあったつもりだったよ。その為に話は盛り上がり、親しくなることができたのだろう。二人は会話を交わせば交わすほど、似た価値観を持っていることに気付いたんだ。そうやって老若男女問わず、マナーの悪い輩に対する愚痴を毎日のように呟き、賛同してくれる“奴”やその他の同志達に少しずつ気を許し始めてしまったからだろう。いつしか自分の自殺願望や、その後の理想の死後まで告白していた」

「自殺願望、ですか?」

「ああ。その頃は死んでしまいたい、と何度も思っていた。余るほどの金はあるが身内はいない。転勤を重ねていたこともあり、親戚付き合いもしてこなかったから親しい縁者も存在しない。ましてや愛する人や愛してくれる者もいなかった。まさしく俺はこの世において孤独な存在だったんだ。虚しさだけが心に残り、ただ部屋の中で引き籠る生活が続く。まじめにコツコツと働いてきた結果、こんな目に合った自分が情けなく思ったこともある。世の中に必要とされないのならいっそ自殺してしまおうか、と真面目に何度も考えたんだ」

「そうでしたか。でもそれは思い止まったのですね」

「ああ。それはかつて自殺をした友人の記憶が蘇ったからだ。彼は二十代後半の頃、休日出勤して自社の高層ビルに入り飛び降りた。同じ中高一貫校を卒業して東大に入り、俺の会社よりもっと有名な会社に入社した奴だ。そんな彼とは唯一親友と呼べるほど仲が良かった。あの時は生れて初めて心の底から悲しいと思ったし、同時に怒りを覚えたよ。辛い事があったのなら何故自分に相談してくれなかったのか、と胸が張り裂けそうになるほど悔しい思いもした。何故ならその一年前には、保険の事で相談に乗って欲しいと電話を受けたことがあったからだ。死んだ彼のことを思い出すと、友人も身内もいない惨めな自分だが、今の状態で自殺することは躊躇われた。なにより他人に迷惑をかけてしまうことを嫌ったからだ。自殺するにしてもなるべく人の手を煩わせない死に方をしようと、何度か模索したこともある。部屋に籠っていた分、ネット環境だけは整えていた。時間も有り余っていた為に、パソコンで様々な書き込みやサイトを覗いたものだ。しかしピンとくる良い死に方など見つかるはずもない。自殺は自分の死後の死体処理がどうしても面倒になる。お金がかかるだけでなく、誰かしらにはそれなりの迷惑をかけてしまう。そんな時“奴”らは反対するどころか、共感してくれたんだ。中には様々な良い方法があると教えてくれる者もいれば、デメリットも存在すると忠告してくれる者もいたよ」

 そこまで話すと彼の口調は急に変わった。

「しかし話題はある時から過激化し始めた。どうせ死ぬなら他人に迷惑をかけ、かつ法で裁かれないような奴らを制裁してから死ぬというのはどうか。そう提案してきたんだ。そしてその意見は悪くないと、“奴”らの多くが賛同していたよ。正直言うと、その時俺の心は揺れた。これまで自殺願望を持つ自分勝手な輩達に腹を立て、自分ならそんなことはしないと思っていたからだ。それならばどうすると想像した時、私は“奴”らが勧める行動と同様の事を考えたことがあった。そこで一度はその考えに賛同しかけたが、やはり実行するには勇気がいる。何せ殺人を犯すのだ。躊躇しない方がおかしい。だから考え方には賛同しても、極力具体的な話題になることが怖くなっていったんだ。そしてできるだけそうした会話を避けるようになったよ。しかし“奴”らの想いはどんどんと強くなって過激になり、とうとう俺をけしかけ早く実行に移さないのかと言い出した。そしてこういう人間を狙ってみるのはどうか、と制裁する具体的な名前を出し始めたんだ。さらには実行方法までリアルな提案をしだしたよ」

 須依は思わず息を飲んで尋ねた。

「それで今回の一連の事件を起こしたのですか?」

「いや。その時は止まった。そこまで発展すると、今の時代では犯罪準備罪にも問われかねない。ネットを監視する公安などのサイバー対策をしている部署の目に留まる危険性もある。そこでとてもついていけないと感じた俺は、次第に“彼”らと距離を置き始めるようになったんだ。すると腰が引けていることが相手にも伝わったらしい。“奴”らも話しかけてこなくなった。丁度その頃、マンションの購入を本格的に考え始めた私は、そちらに力を入れ始めていたんだ。そのため自然とネットにアクセスしなくなり、“奴”らとの交流は途絶えるようになった」

「そうでしたか。一時は踏み止まったのですね」

「ああ。考えてみれば、あの頃が一番充実していて幸せだったよ。自分に合った静かな環境を手に入れ、その上生きがいを見つけたんだ。マンションは自分の今後の生活だけでなく、私の死後に残った資産も有益に使うことができると考えたから購入した。そうすれば一人で孤独死して多少迷惑をかけたとしても、それ以上に社会貢献できるだろうと思ったんだ。こんな私でも何か社会に役立つことが出来ると想像しただけで、脳がポジティブに働いたのだろう。その効果もあってか徐々に体の調子は良くなっていたんだよ」

 この話は中村という担当者から聞いた話と一致していた。そして彼が証言した、あの頃の林は人を何人も殺すようには見えなかった、との見解が正しかったと言える。だからこそ尋ねずにはいられなかった。

「それがどうしてまた、その連中とコンタクトを取るようになったのですか?」

 再び彼の言葉は荒くなった。

「マンションを購入して、一年が経った頃だ。立て続けにトラブルが起こった。理想の住処を見つけて体調が良くなりつつあった私は、再び体調を崩すようになってしまったんだ。そこでしばらく遠ざかっていたネットに、再び愚痴を書き込むようになった。そんな時再び“奴”らが私の前に現れ、反応するようになった。“エウノミア”もその一人だ。“奴”らはこれまで空いた時間の事など気にすることなく、俺の不満やストレスに対して慰めの言葉をかけてくれた。それだけでなく、問題解決のアドバイスさえしてくれたんだ」

「一度危険だと感じ、距離を置いていたのに、ですか?」

「以前のやり取りから、“奴”が注意人物だという認識は、その時まだ私の中に残ってはいたよ。“エウノミア”という名を名乗るだけあり、秩序を乱す人間や問題に対して、“奴”はとても敏感に反応し、これまでにも過激な発言をしてきたからな。しかしマンションのトラブルで心身ともに弱っていた私には、信頼できる人のアドバイスや協力が必要だったことも事実だ。そこで思い切って“奴”に相談を持ちかけたよ。もちろんマンション名は特定されないよう伏せて、だ。すると“奴”は、まずネットに評判が立っていないかを調べれば良いと言い出した。しかしこれまでもその程度の事なら試していたからそう伝えると、“騙されたと思ってもう一度やってみなよ。ただしマンション名の後に、ここへ記載した複雑な記号と数字を入力するように”と返信があったんだ。私は当時わらをもすがる思いだったから、言われた通り検索を試みた。すると今までは全く出てこなかった、マンションに対する悪口が大量に書かれたサイトを発見したんだよ」

「それはどういったものだったんですか?」

「所謂裏サイトと呼ばれるものだ。通常のサイトで見られるものは、ネットの中のほんの一割に過ぎないと言われている。つまり残り九割は非合法だったり、クレジットカードなどの個人情報がやり取りされていたりすることは、私も知識として持っていた。しかし現実にそのサイトを見た私は激怒したよ。書き込みの内容を読む限り、前に住んでいた人物によるものらしいことが分かった。しかもそこにはマンションの悪口だけでなく、管理会社の不正を仄めかす書き込みもあったんだ」

 それらの内容については、既に須依達は取材済みだった。その裏付けの為管理会社の担当者から話も聞き確認もしている。そのことを彼に告げると、その後の話を続けた。

「内容に驚いた私は“奴”にそれを伝えた。そこでアドバイスされたんだ。誹謗中傷が全くのでたらめなら、警察に通報した方が良い。管理会社についても本当かどうか確かめる必要があるだろう、と。そこで私はまず管理会社の担当者を呼び出し、確認の為に問い詰めた。最初は誤魔化そうとしていたが、最後には不正を認めたよ。サイトには認めざるを得ないほど詳細に記載され、証拠となるやり取りの音声までが晒されていたから、当然と言えば当然だった。あなた達も調べたかもしれないが、管理会社は早く部屋を埋めたいがために借主のことを碌に調べず、規定の賃料から勝手に割り引いた家賃で貸す不正を行っていた。さらにマンションの具体名が晒された状態で悪評が広まっていたせいで、新たな借り手が途絶えたのだと、担当者も認めたよ。その事に気付いていたが、何とか隠蔽しようと新たな借主を探すために不正を重ねたらしい」

「だから本来なら困難なはずの、管理会社兼不動産会社を変更することが出来たのですね」

「ああ。これも“奴”のアドバイスのおかげだった。こちらの条件をほぼ全て了承させることができたんだ。先に管理会社として悪意のある書き込みをした手塚に対する被害届を出させ、その後民事訴訟も起こさせた。それらが全て片付いた後、“奴”が事前に紹介してくれた新たな管理会社と不動産会社に変更させたよ。すると再び空いていた部屋が埋まりだした」

「今の管理会社などを紹介したのは、“エウノミア”という人物だったのですか。けれどもすべて埋まった訳ではなかった。そうですよね」

「ああ。何故か私の部屋の下の階に当たる三〇一号室と二〇一号室だけは、空室のままだった。それでも真下の部屋に誰も入らない方が気は楽だったし、二階は他の階の部屋と比較すれば、隣や上など二部屋と接しているから入りにくいからだろう、と全く気にしていなかった。しかし今考えれば、それも罠だったらしい」

「お気づきだったんですね。“エウノミア”があなたに一連の計画を実行しやすいよう、そうさせた」

「今はそうだったのかと思っている。ただあの時の私はトラブルさえなく過ごせれば良く、最悪の事態を避けることができれば、それ以上望む必要はないと考えていた。何より大切なのは、マンションの部屋が埋まってお金が入ることではない。静かで安泰な生活を取り戻し、体調を良くすることが第一だったからな」

「それなのに、なぜあのような事件があなたのマンションで起こってしまったのですか」

「俺は一連の騒動で“奴”の協力を得て問題が解消し、一定の安らぎを得られたことに感謝した。それから俺と“奴”らとの交流が再び始まった。それが大きく道を外れるきっかけになったんだ。“奴”らと繋がりを持つことは、再び悪魔の誘いを受ける覚悟がいると私は理解していたよ。そして結局、“奴”らの誘惑に負け、拉致の計画を立て始めた」

「それはどうしてですか」

「理由の一つとして“奴”に対する恩義に報いたいという思いがあったことは否めない。

 しかしそれまでのトラブルで受けた精神的ダメージで思い知ったのは、この世にはどうしようもない輩が多すぎるということだ。そんな奴らに屈して寝込む生活を続けるような苦しみを味わうくらいなら、積年の想いを果たすべく、私が愛するこの国から愚か者を排除すべきだと決心できたからだろう」

 そこで一旦言葉を切った彼は穏やかな口調に戻して言った。

「あなたは最初に私を林と確認した後は、名前を出さずに会話を続けている。その態度に好感を持ちました。信頼に足る人物だと確信しました。だから素直に打ち明けましょう」

 そこから最初に手塚の事件を起こしてからの経緯を簡単に説明しだした。彼は時折挟んだ須依の質問に対しても正直に答えてくれた。そして最後の四人目を拉致した後、何が起こったのかを教えてくれたのだ。

 それまでの告白も犯人だけしか知り得ない事実を告げていた。だが最後の事件に関しては当然警察も知らず、おそらく主犯格の人間でさえ知り得ない事実も紛れていたのだ。

「私が三間坂を拉致してマンションのあの部屋へ運んだ時の事です。いきなり背後からおそらくスタンガンらしきものを押し付けられて気絶させられました。私の“相棒”も同様です。そして目を覚ますとあの女は、顔面をボコボコに殴られた状態で首を吊られて殺されていたのです」

「つまり三人目まではあなたの言う“相棒”の手を借りて拉致し、殺した。けれども、四人目だけは拉致しただけで殺していない、という訳ですね」

「はい。私はこれまで“奴”らとはネット上で情報を交換していたが、会ってすらいません。だから“奴”らの事は全く知らない。しかしそれは“奴”らもそうだったはずです。殺人を犯している私の正体や、それを実行している場所すら知られないようにしていました。それなのに誰かが私を襲った後、彼女を殺したのです。そんなことが出来るのは“奴”しか考えられない。そこでようやく自分が利用されていたことに気付きました。そこですぐに彼女の死体を一時保存用に用意していた冷蔵庫の中に入れ、逃げたのです」

「それが逃走したきっかけだったのですね」

「はい。自分の身を守り、かつ“奴”に復讐する為です。私も色々考えました。以前の管理会社の担当者に連絡し、トラブルに関することや新たに入った住民達のこと、そして不正をした経緯などを改めて確認もしました。すると多くのことが判ったのです。このまま逃げているだけでは埒が明かない。そう決心して筆跡が私の物だと分からないようにし、隠れ家からできるだけ遠く離れた場所へ移動して警察宛に告発文を送りました。すると案の定、警察は動き出した。事件が表に出たことで、マンションの実質的オーナーであり、部屋の借主でもある私が追われることは覚悟の上です。しかし警察を動かすことで、“奴”らや梅ノ木が率いていた政治団体、半グレ達のような面倒な追手が、手を出しにくくなることを優先させました。警察よりも先に俺を見つけ手を下したならば、真っ先に疑われる。もちろん彼らも三間坂の虐殺死体が発見された時点で、警察からマークされると踏んだのです。そうなると注意するのは警察と“奴”の動きだけになる。ここからが私との知恵比べだと考えました。そこであなたの記事を読んで、これだと思ったのです。あなたは私の知らなかったことを調べ、そして知りたいことを取材してくれている。だから是非協力して欲しい。もちろん見返りとして金が必要なら払うが、おそらくあなたはそんなものより私が出頭する、または逮捕される場面をスクープする方がお望みだ。違いますか?」

「そうです。犯罪者からお金を頂くわけにはいきません。私はジャーナリストの端くれとして、真実を明らかにしたいだけです。もしあなたから主犯格の情報が得られ、全ての真相を知ることができるのなら全面的に協力いたします。ただ倫理上、あなたを匿うわけにはいきません。ですからあくまで所在不明の情報提供者として今後接触したいと思います」

「分かりました。それでは今後あなたに連絡する時は、どうすればいいですか?」

「そうですね。こちらから接触することはできないでしょうから」

 須依がある連絡手段を提案した所、彼はそれを承諾してくれ、今後定期的に情報交換をすることを確認した。そして尋ねられた。

「あなたには“奴”が誰だか、ある程度見当がついている。またはほぼ特定しているのでしょう」

 これには正直に答え、いくつかの情報を伝えた。

「まだ確たる証拠はありませんが、第三弾で書いた“ある人物”が怪しいと睨んでいます」

「そいつはハッキング能力を持ち、かつ今回の事件を仕掛ける動機を持っていますか」

「はい。あなたが先ほど説明された“エウノミア”というハンドルネームを使用した人物が、おそらく主犯格だと思います。その人物なら複数の仲間を使ってあなたに接触し、ターゲットの情報を教えることも可能だったでしょう」

「つまり私は関係のない、別々の人物から情報を収集していたつもりでいた。だがそれも“奴”の仲間から仕入れたものだった、ということですか」

「そう考えて間違いないでしょう。私も取材により、ある仮定に沿って記事を書いてきました。しかし今回の証言により、私の指針が間違っていなかったと確信できました」

「しかし今の所、その人物が“奴”だという証拠はない訳ですか。あればとっくに捕まっているはずでしょう」

「残念ながら、その通りです。それを得ようとしているのですが、相手が相手なものですからそう簡単にいきません。ただあなたから伺った“エウノミア”というハンドルネームは大きなヒントです。それを辿っていけば、何か掴める可能性はあるでしょう」

「しかし相手はハッキングのプロです。証拠を残すようなヘマはしないでしょう。ただ私が“奴”らとやり取りしていたパソコンは、念のために破壊せず手元に残しています。そこから辿ればなんとかなるかもしれない」

「その点は同じくプロに任せるしかありません。もし私達を信用して頂けるのならば、そのパソコンをこちらに送ってください。分析して見ましょう。所詮は人間がやっていることです。どこかでミスを犯している可能性もゼロではありません。完全犯罪を成し遂げるには、相当綿密で緻密な作業と根気が必要です。しかも今回“奴”には仲間がいることが鍵かもしれません。犯罪に関わる人間が多ければ多いほど、エラーが発生する確率は高くなる。それらを発見できればいいのですが」

「それはいい考えです。そうした調査はあなたにお願いするしかない。今の私は自由に身動きができないし、ネットに接続するなどもってのほかですから」

「そうでしょうね。今頃“奴”も、必死になってあなたを探しているはずです。そして発見次第監禁して拷問し、嘘の証言をさせた後口を封じ全ての罪をあなたに被せることもやりかねません」

 彼は一瞬、自分がそうなっている姿を想像したのだろう。受話器から緊張感が伝わって来た。しかし強がってみせたかったのか、冷静に同意した。

「これまで私にやらせた手口を考えると、それも十分あり得る展開ですね」

 そこで須依は彼を励ますつもりで声をかけた。

「それだけは絶対に避けなければいけません。しかし逃亡に関して協力はできませんから、私達が証拠を掴むまで必ず逃げ切ってください。そのような悲劇を生まない様、私達も全力を尽くします」

 こちらの意図が届いたのか、彼の言葉に力が戻った。

「いえ、あなたから“奴”の情報を頂けただけで助かりました。相手がどの程度の力を持っているかが分かれば、それなりに対応策が打てる。一連の事件を起こしている際、“奴”は大きな力を持っていると私も感じていました。だからこれまでも過剰なほどの注意を払って逃走してきたが、正しかったと分かっただけで十分です」

「本当に気を付けてください。何か困っている事はありますか?」

「大丈夫。私は阪神淡路大震災を経験したことで、日頃から緊急時に持ち出す荷物などの準備は万全でした。それが幸いしましたよ。咄嗟にマンションから逃げ出したが、現金なども十分持っている。それにテレビなどで見る限り、警察が探している場所はまるで見当違いな場所です。それより“奴”らや梅ノ木の団体、半グレ達の方がよっぽど怖い」

「確かにヘイトスピーチをしていた団体や、彼女の周辺にいた半グレ連中も、復讐の為にあなたの行方を捜しているようです。気を付けてください」

「しかし以前四国の刑務所から脱走した囚人や、大阪の拘置所から逃げ出した奴らは、全国に指名手配されていながらも長期間逮捕されなかった。それに比べれば私はまだ指名手配をされている訳ではない。それでも細心の注意は払っています。それよりあなた達がやっている取材もかなり危険でしょう。そちらこそ気を付けてください。奴らなら何を仕掛けてきても不思議ではないだろうから」

「ありがとうございます。しかしその点は私達も理解した上で対策を取っています。ただ万全かどうかは分かりません。お互い油断しないようにしましょう。真相を全て明らかにするまでは、必ず生き延びなければなりません。悪に屈する訳にはいかないのです」

「元々私は命をかけて事件を起こしてきたから、死ぬこと自体は怖くない。しかし“奴”を表に引っ張り出すまでは、死んでも死にきれないのです」

「分かりました。では今後の連絡方法は先ほどの通りで。私達は次回お話しできるまでに、少しでも情報を掴んでおきます」

「お願いします。私から伝えなければならないことは、ほぼ全て話したつもりです。後で言い忘れていた事や思い出した事があれば、次回話すことにしましょう、ではこれで」

「宜しくお願いします。くれぐれもお体に気を付けて」

 そこで須依が受話器を耳から話そうとした時、短く「ああ、」という声が聞こえた。それは彼の肉声だった。最後に油断をしたのか、それとも気を許したからかは不明だが、ボイスチェンジャーを外して答えたようだ。

 少し寂しそうでやや疲れたような生声を耳に焼き付けながら、須依は時計で時間を聞いた。気づけば一時間以上経っている。そんなにも話していたのかと驚く。

 そこでずっと近くで見張っていた烏森が声をかけて来た。

「須依の作戦通りになったな。記事を書くことで奴からの接触を待つなんて、全く無茶なことをと思っていたが、まさか本当に連絡が来るとは」

「確かに大きな賭けでした。しかし例え連絡がなくても、取材で得た事を元に記事を書くことは決して無駄にならない。そう思ったからこそ、試すことが出来ました。それでも彼の話を聞く限りだと、ほぼ私達が予想していた通りだったことには驚きです。まさかと思いながらも大胆な推測を基に記載しましたが、これだけ当たっていたとは想像以上です」

 須依から会話の中身を詳細に説明した後、彼は頷いた。

「ああ、本当だ。余りにも突拍子もない推理だと思っていたよ。しかしマンショントラブルの裏側に関して、林が全く知らなかったというのは意外だったな」

「はい。私も当初あのトラブルは共犯者と計画を立てた上で、邪魔になった住民を追い出したのだと思っていました。そうして管理会社を変更させたと考えていましたが、そうではなかったようですね」

「しかし記事ではそこまで書いていない。そうなると、林が言う実質の主犯者である“エウノミア”が、あの記事を読んでどう思うかだ。俺だったら須依が相当な点まで真実に近づいていると感づくだろう。早く口を封じるべきだと考えてもおかしくない」

「そうですね。先程彼にも伝えたように手を打っておいて良かったと思います。今のところは何とか拘束されずに動けていますし、おかげで彼と連絡を取ることもできました。間一髪のタイミングだったかもしれませんね」

「しかし本当に本木は頼りに出来るのか?」

「今は信用するしかないでしょう。確かに相手は難敵です。だからと言って犯罪者のように、堂々と私達を拉致することはできないでしょう。だからこそ一連の事件の実行犯を一般人である林に押し付けたのだと思います」

「それは考えが甘いぞ。単に最初から全ての罪を擦り付けるつもりだったのかもしれない。だがそれ以前に林の証言自体が全て嘘、または思い込みである可能性も考えた方が良いぞ。彼が精神障害者であることは確かだからな」

 この意見には須依も驚いた。

「もしかして共犯説自体も彼のでっち上げかもしれない、ということですか?」

「そうだ。確かに須依が聞いた感覚では、嘘だと思えなかったから信用したいと言うのも理解できる。お前の聴覚が優れていることは否定しない。けれど本人が真実だと信じ切って話している事もありえる。例えば二重人格などの場合だ」

「彼が多重人格者かもしれない、というのですか」

「そうだ。そうなると彼の言う共犯者“エウノミア”というのは、彼のもう一人の別人格かもしれない。彼自身がそのことに気付かず、騙されたと信じ込んでいる場合だってある。だから須依の書いた記事通りだと信じているのかもしれない」

「今の時点でその可能性を完全否定はできませんが、あの記事は私達が取材で突き止めたことから推測したものです。共犯者はおらず、彼の単独犯だと考える方が多重人格説以上に矛盾は多いと思いますが。それに半グレ達から聞いた“あの人”の存在も無視できません」

 そこで彼も考え直したらしく唸った。

「ああ。確かにそうだな。今の管理会社の件もあるか。だが林の言葉がすべて正しいとすれば、共犯者のことを余りにも知らなさすぎると言うのもやや不自然だ」

「そうですね。一度も接触しなかったと言うのは、余りにも徹底しています。彼の主張も理解はできますが」

「拉致してマンションに連れ込むまでは、全て彼とその“相棒”だけでやったと言うのも、一見無茶な計画のように思える。それに気絶させた人間を運ぶと言うのは、“相棒”に手伝って貰ったといっても、かなりの重労働だ。それを誰かに見られる可能性もある。普通なら少なくとも見張り役が数人必要だろう」

「もしかすると、彼の知らないところで“奴”またはその仲間が隠れて様子を見ていたのかもしれませんよ」

「そうかもしれないな。連れ去り方法を聞いた時には俺も驚いた。よくそんな方法が使えたと感心したよ」

「普通なら主犯格としては間違いなくやり遂げられるか、心配になるでしょうね」

「だから年の為に見張りを付けていた可能性が高い。その点から何か探れないかな」

「拉致された場所やあのマンション周辺にある防犯カメラに、彼らの仲間が写っていたとすれば使えるでしょう」

「それだ! “エウノミア”達が事件に関連していた証拠の一つにはなる。すぐにその点を洗い直すよう、本木に告げた方が良い」

「そうします。後は“エウノミア”というハンドルネームを使った人物と私達が思っている人物が同一人物かを辿る必要があります。ただそれが一番難しいかもしれません。しかしその人物を突き止め林と別人物だと分かれば、彼の多重人格説は考えなくてもよくなります。防犯カメラの分析も同様です。この二つの調査結果が出るまでは、予断を持たず取材を進めましょう」

「良い考えだ。しかし彼は逃走する際に持ち出したパソコンがあると言っていたな。つまり警察は、林がどのような人物と接触していたかまで詳細に把握できていないだろう。“エウノミア”と会話をしたログなどがあれば多少は辿れるが、今のところこちらの手元にはない。手がかりはハンドルネームだけだ。さすがにサイバー対策課に頼んでも追うのは難しいだろう」

「そっちの方はやはり専門家に頼みましょう。以前大也さんのパソコン分析を依頼した所の方が話は早くていいと思います。事前にアポを取っておきましょう」

 須依の言葉を聞いて、烏森の声が急に険しくなった。

「ああ、それって例の会社か」

 恐らくそのような反応が返ってくるだろうと予想していたため、平静を装って答えた。

「そうです。私が新聞社を辞めるきっかけとなった、あの事件の事を知っている会社です」

 しばらく間を置いてから彼が口を開いた。

「そうか。俺がそっちに顔を出すのはまずい。同行はできないがそれでも大丈夫か」

「ご心配なく。あちらへは何度も通っていますから、どう行けばいいかも分かりますし、慣れていますから」

「そうか。じゃあこれから記者クラブへ戻る前に、あの会社を経由して須依だけ降ろそう。事件現場周辺の防犯カメラの件は、俺から本木に伝えておく」

「助かります。その方が早いですね。アポイントが取れたらですけど」

「じゃあ、そっちへ向かうから連絡してみろ」

「お願いします」

 彼はその後、目的地に着くまでずっと無言だった。その間須依は急なアポイントだが、至急お願いしたい旨を伝えると相手は快諾してくれた。

 その事を告げると彼は黙ったまま頷き、そのまま目的地へと向かってくれた。沈黙が続く中、須依は今後の展開について考えていた。

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