第四章
綾瀬署に着いた須依は、マンションへの業務妨害と名誉棄損に関して、その後動きがあったのかを尋ねるために、以前話を聞いた担当刑事を呼んで貰った。
あの時は烏森が同行してくれたため、窓口の場所などはよく覚えている。初めてだと駄目だが、一度でも通った所ならカンが働く。そのため今回は須依一人でも平気だった。
盲目の女性記者は珍しいため、須依の事を覚えていたらしい。しかし思わぬ反応が返ってきた。以前取材した際は穏やかだったはずの彼が、姿を現した途端に威嚇してきたのだ。
「あんたまた来たのか。なぜそんなことを調べている」
明らかに警戒している気配を感じた。だが須依もその程度で怯むほど
得意の笑顔を振りまきながら、何も気づかない振りをして明るく答えた。
「いえ、以前お尋ねした件の単なる追加取材です。確かあの時は身柄が拘束されて逮捕され、彼の両親がお金を出し早々に示談成立できたから保釈されたと伺いました。もう刑は確定したのでしょうか。おそらく執行猶予が付くだろうと言う話でしたけど」
前回同様の流れから説明した話を聞いて、若干相手の緊張が緩んだ。
「ああ、あの時は有名人がストーカーされていた事件も調べていると言っていたね」
「そうです。そうです。あちらの件も執行猶予がついて、犯人はすでに保釈されていました。しかし今後は一定距離以上近づかないよう、警告されたそうです。それでこちらの件はその後どうなったのかと思いまして。もう保釈はされていますよね」
そう尋ねた途端、再び表情を硬くして突っぱねられた。
「判決がどうなったかを知りたければ、裁判所に行けばいいだろう。さっき言っていたストーカー事件だってそれで調べたんじゃないのか。どうしてわざわざうちの署に来た」
彼の言う通りだ。警察は犯人を捕まえ、検察に身柄を渡すまでが仕事である。その後は検察が起訴をするか判断し、裁判にかけるなどして刑が決まる。確定されれば裁判記録に載る為、余程の事件でない限り閲覧することは可能だ。
もちろんこの署へ来る前に、須依は烏森の協力を得て確認していた。すでに懲役一年、保護観察付きの執行猶予二年の判決が出ていて、彼はすでに釈放されている。その事を知った上でこの署に来たのは、その後の彼の行方を確認するためだった。
「いえ、もちろん刑の内容だけを調べるだけならそうしますが、その後の彼がどういった生活を送っているのかまで書かないと、記事になりませんから。あの有名人をストーカーした人は、執行猶予で保護観察付きの条件が付いたようです。だから定期的に保護司と連絡を取り、今は大人しくしていると聞きました。観察付きでない執行猶予なら一般の人達と同様に、旅行や住所を変更することにも制限がありませんけど」
保護観察付きだと海外旅行はもちろん国内旅行や住所変更など、最初に申告した居場所から離れる際にはいちいち報告や許可を得なければならない。
特に住所が大きく変わり、保護司の変更が必要な場合は移転先の保護司との引き継ぎもある為に許可されるまで時間がかかるという。
「そんなことは知らないよ。そいつも同じじゃないのか。こっちは釈放された人間をずっと監視するほど暇じゃない」
「保護司とはその後連絡を取っていないのですか。ストーカー事件の方は、本当に再犯しないかどうか、警察と連携を密にしていると聞きましたけど」
須依の問いに彼は答えることを躊躇していた。ストーカー事件とは違い、基本的には判決が出て保護観察処分を受けた犯罪者に対してまで、その後警察が関わる必要などない。といって建前上、その後の事は知らないと言い放つことは、一般市民にとって無責任だと感じるだろう。
もしそのような記事が掲載されれば、法的には問題なくても世論の感情を逆なでする恐れがある。そこを逆手に取り、須依は質問を重ねた。
「その後の彼は、真面目に生活を続けているのでしょうか。大学は逮捕後に退学させられたと聞きましたから、以前のような一人暮らしを辞めて親元にでも戻ったのでしょうか。それともまさか、まだ逆恨みで書き込みを続けているなんてことはないでしょうね」
担当刑事は何とか言葉を捻りだした。
「そ、そういう被害届や苦情は聞いていない。第一、釈放後はうちの管轄から移ったから良く知らないよ」
なんだ、ちゃんとその後の動きを把握しているじゃないか、と心の中で思いながらも口には出さず、須依は恍けて聞いた。
「そうでしたか。じゃあ引っ越しをされた訳ですね」
「それはそうだろ。賃貸マンションに住んでいたんだ。そこで逮捕されたのだから、周りの目も気になるだろう。そのままの住所で居られる訳がない。大学も辞めているから、この近辺に住み続ける必要もなかったはずだ」
「確かにそうですね。それではどちらに移られたかはご存知ですか? やはり山梨にある親元さんのところでしょうか。確か実家は地主さんで有名な資産家だったようですね。だから早々に多額の示談金を支払うこともできて、保釈も認められたようですから」
「詳しくは知らないよ。ただ都内から出たことは確かだ。つまり警視庁の管轄からも外れたってこと。だから俺は何も知らない。それにあんたもこれ以上追ったって、何も出てこないから止めておきな」
そう言って彼は逃げるように去っていった。実のところ須依はその男が北千住からほど近い、すぐ隣の埼玉県草加市周辺に移り住んだらしいとの情報を掴んでいた。片田舎にある実家は名家であり周りの目も気にしてか、息子が保護観察付きで戻ってくることを拒絶したそうだ。
その為彼はとりあえず、今まで住んでいた地域とそれほど離れていない場所に移り住んだと思われる。だが詳しい住所までは把握できていない。最近は個人情報保護の観点から、簡単に調べることが難しくなっていた。
それでも時間を掛ければ割り出すことは可能だ。それより問題なのは警視庁管内からはずれ埼玉県警の管轄になっていることと、先程の刑事の反応だった。
後者は明らかに、あの元大学生のその後の行き先を把握した上での過剰すぎる対応だ。つまり釈放後に何かあったからこそ、管轄外へ移った犯罪者を気にしている証拠である。
だがもし彼が埼玉で行方不明になっているとなれば、警視庁は埼玉県警に捜査協力を依頼しているはずだ。しかしそのような情報は、まだ入ってきていない。
恐らくそれが表に出れば、参考人が埼玉県内に在住していたことが明らかになる。そのため意図的に伏せているのかもしれない。
管轄が県をまたげば、連携は難しくなる。おそらく若い男性の行方を捜す熱意も、温度差がでるだろう。警視庁にとっては、国全体を騒がしている山戸の失踪に関わった参考人とみている人物だ。
しかし県警からすれば、事件と直接関わり合いがあると断定されていない人物の失踪である。一度逮捕されている前科者で保護観察付きの人物とはいうものの、凶悪犯ではない。下手をすれば数多く届け出のある、行方不明者の一人を捜す程度の扱いをされている場合も有りうるのだ。
どちらにしても須依が目を付けていた元大学生が、今回の事件で警察が探している参考人と同じ人物かをまず確認しなければならない。以前住んでいた場所が北千住だったため、隣の埼玉県で近くに住んでいるのならば、東武伊勢崎線の沿線上である確率が高いと予測した。
足立区北千住に隣あっているのは、埼玉県草加市や川口市だ。駅も北千住から北に向かうと草加の駅がある。その周辺に住んでいるとなれば、管轄は埼玉県警の武南警察署だ。そこで須依はまず別の場所へと足を向けるため、応援を呼ぶことにした。
「あの件は空振りだったんじゃなかったのか」
文句を言いながらも一時間ほど後に車を飛ばしてやってきてくれた烏森の問いに、須依は助手席へと座りながら答えた。
「空振りかどうかをもう一度確認する必要が出て来ました。でも前回取材した時とは状況が変わっているようです」
目的地に着くまでの道中、綾瀬署での担当刑事の反応を彼に教えた。
「なるほど。過剰反応といえばそう言えなくもないが、ただ別の管轄に移った奴の件にまで関わるのが面倒だっただけかもしれないぞ」
「それがどちらなのかを確かめるために、来ていただいたんじゃないですか」
「それは分かっているよ。だがこれも貸しだからな。前回とは別件のスクープに関わらせてもらわないと割に合わんぞ」
「了解です。ただこの案件で私の“カン”が当たっていれば、大スクープになりますよ」
「ああ。でも外れていたら他の案件を紹介しろよな」
彼は前回付き合った際の感触が良くなかったせいか、この取材にはあまり期待していないようだ。
須依達が綾瀬署の次に向かった目的地は武南署ではなく、草加市周辺を管轄するさいたまの保護観察施設だった。
住所を変更した時点が判決の出る前だったなら、保護司も最初からその近くに住む人が担当として割り当てられる。そこに行けば少なくとも名前が分かっている元大学生が、今どうしているか判明するはずだ。
結論は早かった。須依達が取材と称して施設を訪問し、担当者と話がしたいと申し出た時点で、けんもほろろに追い出されてしまったのだ。もちろん保護観察中の人物への取材は、本人が承諾しない限り簡単にはできない。
それでも従来なら施設側は一応本人に問い合わせてみる、という程度の態度を取ってもいいはずだ。前科者で保護司の観察が必要とされている人間は、通常の生活を送ることに支障がなく、更生が順調に進んでいることを社会にアピールしたがる者は少なくない。
それに何か隠すような素振りをすれば、再犯の恐れがあるかまたは何か問題が起こっているのか、と痛くない腹まで探られかねない。その為、下手に隠し立てをしないのが通常の対応だった。少なくとも施設側はそう考えるだろう。
けれど用件を伝えた時点では普通だった女性の担当者が、取材対象者の名前を告げた途端に警戒しだしたのだ。烏森に言わせると明らかに表情が強張っていたらしい。そして
「彼に関しての取材はお断りします。こちらとしては何もお答えできません」
と本人に確認しようともせず、一方的な形で拒否されてしまったのである。
「いや、まずは取材を受ける気があるかどうかだけでも、本人に確認してもらえませんか」
どうにか食い下がろうとしたが、担当者の他にも後ろから上司らしき年配の男性が出てきて、ぴしゃりと断られた。
「今お問い合わせされた人物に関しての取材は、一切お断りすることになっております。個人情報に関わることですので、私達がお話しすることもできません。お帰り下さい」
「それは本人やご家族が、事前にそういう申し立てをされているということですか?」
「そういったご質問にも、お答えできません」
相手は断固とした決意を持って対応していると感じられた。これは単に家族などから強い取材拒否の依頼をしているだけとは思えない。もしそうなら、そういった理由で申し訳ありませんが、と柔らかく断りを入れれば良いだけだ。
そこで直球をぶつけてみた。
「先程お伝えした人物が行方不明になっているという噂を聞いたのですが、それは本当ですか。もしそうなら保護司と定期的な連絡を取れていないことになりますよね。場合によっては、執行猶予が取り消されることもあるでしょう。そうなると、こちらの責任問題にもなりませんか」
質問を受けた担当者からは、明らかに動揺している気配が感じられた。それでも上司はこういったケースにも慣れているのだろう。それとも最初から覚悟をしていたのか、平静を装って静かに答えた。
「先程も申し上げましたが、お話しできることは何もございません。お帰り下さい」
そこまで言われれば、元大学生についての取材は無理だ。そこで切り口を変えてみた。
「分かりました。その方についてはこれ以上の取材は諦めます。ところでこちらの施設では少年なども含め、施設に通ったり保護司による観察対象となっていたりする方は、どのくらいの数がいらっしゃいますか?」
この問いには先方も答えざるを得ない。公にも出している数字だ。調べれば分かるだろうと突っぱねることもできるだろうが、大手の新聞社名で取材に来ている記者をその程度のことで追い払えないと思ったのだろう。面倒くさそうな口調で担当者が数字を口にした。
日本全体では年に約八万五千人が保護観察を受けているそうだ。その対象者は大きく四つに分かれている。
まずは少年による保護観察処分だ。非行により家庭裁判所から処分を受けた少年が約四万一千人と全体の約半分近くを占める。他には非行により、家庭裁判所片少年院送致の処分を受け、その少年院から仮退院となった少年達が約八千人いるらしい。
後は成人だが懲役または禁錮の刑に処され、仮釈放を許された者が約二万一千人、そして今回の元大学生のような、刑の執行猶予とあわせて保護観察付の言い渡しを受けた者が約一万五千人いると言う。
言い渡しを受けたそれぞれの保護観察者は、全国五十か所の保護観察所に配置される。そこで約一千名いる保護観察官と、地域で活動する保護司、約四万八千名とが協働して対応するのだ。
その中で埼玉県内の保護司は現在約千五百人,更生保護女性会員が約五千四百人,S会員と呼ばれる方達が約七十人、協力雇用主約三百五十の事業主の方々並びに更生保護施設「清心寮」と共に更生保護の諸活動を展開しているという。
つまりは人手が足りない中で、懸命に対処しているのが現状だ。須依はそのことを知った上で質問を重ねた。
「それだけの人数の方を、決して多いとは言えない観察官と保護司の人達やボランティアの方々で対応するのは大変でしょう。中には更生できず再犯する人も出てくるでしょうね」
これには男性上司が答えた。
「さすがに再犯ゼロという訳にはいきませんが、それを目指すことが我々の使命です」
須依は大きく頷きながら尋ねた。
「当然、一生懸命社会復帰を目指して努力している少年達はいるでしょう。でも連絡が取れなくなってしまうような人達も中にはいると思いますが、こちらではどれくらいそういった人がいますか」
遠回しに聞いた質問だったが、答えないと余計に怪しまれると計算したのか、担当者はパーセントで教えてくれた。計算すればそれなりの人数がいると分かる。
そこからさらに問い詰め、目的の男の所在がどうなっているかを再度確認しようとした時、烏森の持つスマホが鳴った。ディスプレイに出た番号を見て、職場からだと分かったらしい。そのことを須依に伝えてから
「ちょっとすみません」
と、断りを入れてその場から少し離れた。思わず舌打ちをしたい気分になる。案の定、これ幸いにと施設の担当者と上司が言った。
「それではこちらも今忙しいので、取材は後日アポイントを取った上でお願いします」
そして離れていく足音を聞きながら、やはり逃げられたかと悔しがった。だがしょうがない。何とか怒りを抑えて彼が戻ってくるのを待った。
「はい、はい」
と遠くで答えている声が聞こえた途端、驚愕している口調に変化した。何が起こったのかが気になり、須依も彼の後を追って外に出た。
すると電話の向こうでも興奮しているようだ。漏れてくる声の主は彼の上司でもあり、今回の仕事の依頼をしてきたデスクだった。
須依が傍まで来たことに気付いた彼は、通話をしながら怒鳴るように言った。
「おい、ちょっとスマホを貸してくれ。確かお前の持っている機種は動画も観られたよな」
突然の問いかけに戸惑いながらも、須依は携帯を取り出して自虐的に答えた。
「そうだと思うよ。私は観た事無いけど」
目が見えなくても今は様々なアプリが開発されたおかげで、ニュースなどの文字情報を音声に変えてくれる便利なものが増えた。
そうした視覚障害者でも利用できる機能が使えるよう、スマホも新しい機種が出れば一早く変更するようにしている。日常生活にも使えるが、仕事には欠かせないアイテムが揃っているからだ。といってもどれだけ画像が鮮明になろうと、当然動画配信機能だけは使う機会など無い。
「悪い、少し借りるぞ。はい。今から観てみます」
彼は須依の冗談にも反応すらせず、差し出したスマホを奪い取った。そしてデスクと会話しながら、何やら操作をしているようだった。
するとしばらくして息を飲む音がした後、言った。
「あ、ありました。これですね。今見つけましたが、音声を大きくして聞きますね」
デスクと須依の両方に対して喋った彼の言葉の後、とんでもない声が聞こえて来た。そして見えない様子を、彼は言葉で補いながら説明してくれたのだ。
「ここに行方不明だったはずの山戸が、拉致された状態で話している」
「じゃあこれは山戸の声、ですか?」
動画から流れてくる音を遮らないように、小声で尋ねる。
「そうだ。木製の椅子に座らされている。山戸の足は椅子に固定されて、手も後ろで拘束されているようだ。体もロープのようなもので巻かれている。恐らく拷問を受けたのだろう。手足や顔などから血が流れているようにも見える。何かで切り裂かれたか、引っかかれた跡のようで、着ている服はボロボロだ」
耳にした描写を頭に描きながら、山戸の話す内容に聞き入った。どうやら国会で問題になっている件の真相を喋っている。誰かに脅されているような声だが、それでもその説明の中身は具体的で、信ぴょう性が感じられた。誰もが驚くような内容や人名を、次々と暴露している。
途中でデスクの声が漏れ聞こえて来た。
「全て観終わったら、すぐ警視庁に戻ってくれ。この動画に対してどういう発表があるか、何か新たな動きや見解があるかどうかを探ってくれ。いいな!」
電話はそこで切れた。引き続き動画から流れる声に須依は聞き入っていた。再生が終わったのは約三十分後だった。それから彼が運転する車に乗り込んで、霞が関へと向かう。
車内で聞いた彼の補足説明によると、動画の再生回数はすでに百万回を超えていたようだ。拘束されている場所はどこかの部屋らしく、特別変わったところは見つからなかったという。
「ビニールシートのようなもので部屋全体が覆われていた。窓は写っていなかったが電気は点いていたな。撮影していたのが夜だったのかもしれないし、外の光を遮断していたなら昼間の可能性もある。とにかく居場所を特定されない工夫がされていたよ」
「他に気づいた点はありますか?」
「おそらくカメラの横か後ろに、動画を撮影している犯人がいたのだろう。その周辺に山戸の視線は集中していたが、明らかに表情が怯えていた。映像に移らないところから指示が出されているようだった」
「犯人は複数いる様子でしたか?」
「それは分からない。確かに山戸の視線は同じ個所を凝視していたと言うより、分散していたような気はした。だがそれほどバラついてはいなかったよ」
「ということは、犯人を見ていたとしても、二人か多くて三人程度でしょうか」
「多分な。一人では無さそうだったが、三人以上に取り囲まれているような視線の動きではなかったと思う。ただその場にいたのが二人程度だっただけで、他の仲間は別の場所にいたのかもしれない」
「明らかに脅されていて身の危険を感じ、切迫した状態で話をしているように聞こえました。だからこそ早口だけど中身は詳細で、証人喚問をしたとしてもあれほどの内容は聞き出せない程のことまで暴露したのでしょう。それだけ身の危険を感じていたということでしょうか」
「あの引き攣った表情からすると、そうだろう。須依には分からなかったかもしれないが、動画はところどころ編集されていたようだ。画面自体が時折途切れていたよ。しかし脅されながら話していたとはいえ、疑惑とされていた問題で想像以上の事を喋っていたな。特定の大物議員の名前が出てきた時は驚いた」
動画が配信されたのは今より一時間ほど前らしい。恐らく警察関係者もあの動画を見て何らかの行動を起こしているはずだ。
それでも映像の発信先を特定したり中身を分析したりしても、手掛かりを掴むにはそれなりの時間がかかるだろう。高速に乗って飛ばして走っているから、マスコミに対する記者会見が開かれるまでには十分間に合うはずだ。
須依は助手席に座りながら先程の動画について考える。声を聞いた限りでは、犯人による要求はなかった。単に疑惑の件で、山戸の知る情報を告げさせただけだ。
彼の失踪が自作自演である可能性もまだ完全には捨てきれないが、その確率は低いだろう。もしそうなら烏森達が見た彼の怯えた動作や須依も聞いた声も全て演技であり、相当な役者レベルでなければならない。
やはり今回の事件は何者かによる拉致、監禁だったと考えるべきだろう。それなら犯人の目的は一体どこにあるのか。今回の動画のインパクトは確かに大きいが、証拠能力はない。犯人の動機が何かを考えた時にもそれは考えた。
強制、拷問又は脅迫による自白は、証拠とすることができないのがこの国の法律だ。ならばどうして犯人は拉致監禁という重大な犯罪行為に及んだのか。さらに居場所を特定される危険を犯してまでも、このような動画を配信したのか。
もし真実を明らかにしたかっただけならば、逆効果になりかねない行為だ。それでも山戸が口にした内容は具体的かつ強烈だった。その為世論が動き、真実かどうかを確かめる空気は生まれるだろう。
証人喚問に呼んだとしても、結局何も話さず真相を闇に葬られるくらいなら、その流れに賭けてみようと犯人達は考えたのかもしれない。ならば今回の事件はこの国の将来を憂いた、過激派達の行動なのだろうか。手口としてはその公算も十分有り得る。
須依がまだ若かった頃でも政治による汚職はあった。しかしこれまでは政府や与党内でも派閥があり、それらのパワーバランスが働くことでけん制し合い、それなりの自浄作用もあったのだ。世論やマスコミもそれを後押ししていたと思う。
ただ近年では弊害とも言われてきた派閥の力が弱まったおかげで、ころころと首相が変わると言う国際的にも情けない状態は確かに解消された。しかしその結果が、どの国でも起こる長期政権による腐敗を進ませたのだ。
多くの派閥を取り込むことで権力を握り、メディアに対して圧力をかける。または影響力のある評論家を抱え込むことで、意図的な印象操作を行ってきた。そして自分達の生活を守ることで必死な国民を上手く利用し、口先と目先の経済を上向かせることで与党は多数の議席を得ることに成功した。
それだけではない。質が悪い事にその後は全てを信任されたと勘違いしてか、国民を馬鹿にするような発言や行動ばかり取り続けている。今回拉致された山戸も彼らの庇護の元で動いていた人間の一人だ。
しかし今回の事件における彼の発言は、のさばって来た政界だけでなくこれまで見せかけの安定、または成長をし続けているかのようにみせかけていた経済界をも大きく巻き込むことだろう。
脅迫されている状態であるとはいえ、内容はかなり具体的な不正に関する裏付け証拠も口にしていた。公文書に書かれた内容を改ざんし、隠ぺいしたことを認めただけではない。その経緯やそれらを指示した人物の名、またはそれを証明する為に何を調べればいいかも喋っていた。
そこには多くの大物議員や幹部官僚が関与していることも、洗いざらい白状していたのだ。さらにその人物達と会った日時や時間帯、またその状況や細かなやり取り、そして誰が同席していたかなども、詳細に述べさせられていた。
いずれにしてもこれは単なる失踪事件ではなく、拉致、監禁に傷害、恐喝事件である。と同時に、今後日本の政財界の根底を揺るがす大事件へと発展することは確かだ。警察は今回の動画配信が、どのような形で行われたかを必死になって分析するだろう。
映像に映っているものや、山戸の声以外の僅かな音声などからも手掛かりを探すはずだ。斎藤達の部署だけでなく、科捜研などの分析チームも動くに違いない。
それに加えて、須依は現在参考人として警察が追っている人物が、例の元大学生である確率がこれで高まったと考えていた。この件はまだ烏森以外、誰も知らないネタだ。事件の展開によっては、彼の居場所が大きな手掛かりとなるだろう。
警視庁に到着した須依達はデスクの指示通り、記者クラブに入って捜査本部の動きを追った。だが予想通りまだ調査が進んでいないらしく、大した情報は得られなかった。何かを掴むまでにはもう少し時間がかかるだろう。
そこで須依は様子を見ながら、次に山梨へ向かうつもりでいた。元大学生の両親に直接取材を試みるのだ。そこから何か出てくるかもしれない。もしかすると犯人グループは、山戸の拉致の前に身柄を抑えた元大学生で資産家の実家に対し、身代金の要求をしていることも考えられる。
大々的な犯罪を実行するには、それなりのお金がかかるだろう。山戸の拉致より前に元大学生を拘束していたとすれば、必要な資金を得る手段かつ彼の痕跡を残すことで捜査を攪乱することが目的だったのかもしれない。
様々な可能性を頭に入れながら、須依は今後どう動くかを思案していた。しかし山戸の誘拐・監禁事件の取材に追われたことで、山梨へ行く機会を逸していたのである。動画での告発で具体的に名前が上がった議員達が本当に関与しているのか、世論や国会における追及が激しくなったからだ。
野党議員が騒ぐ中、マスコミもこぞって取り上げ裏付けの検証を始めた。山戸が証言した手掛かりや証拠、さらに国有地の不正な売却や公文書改ざん問題への言及していたことが事実かどうか、確認をしなければならない。
その為取材先や確認事項が多数あり、他の記者同様須依達も猫の手を借りたいほど忙しく走り回らなければならなかった。しかもこの手の取材となると、須依が単独で動くには手間も時間も掛かるため限界がある。要するに足手まといだ。
そうなればどうしても他の記者達のバックアップに回らざるを得ない。現場の記者が得た証言などを、取材先からメールや録音した会話のデータをデスク宛に送ってくる。それらを机上で待機していた須依がまとめて文字に起こし、記事の土台を作成する作業を行うことになった。
加えて警視庁や検察がどのような動きをみせるかをいち早く察知する仕事を任されたのだ。その為警視庁記者クラブで待機しながら聞き耳を立てながらも、地検特捜部関連の情報を得るために司法記者クラブへと赴いたりもさせられた。見知った関係者に手当たり次第当たっては確認する作業を行う為である。
司法記者クラブは警視庁から目と鼻の先にある高等裁判所内にあった。要するに須依は割り当てられた狭い範囲に押し込められ、ほぼ缶詰め状態となっていたのだ。
事態は急速に動いて行った。裁判なら証拠にならないであろう山戸の証言だったが、あまりにも具体的かつ信憑性があったからだろう。実際に裏付けも取れ、事実と確認されたものが次々と明らかになったのである。
結果辞職に追い込まれる政治家も出始め、また関わったとされる多くの官僚も更迭を余儀なくされた。さらに多くの関係者が検察の特捜による取り調べを受け、関係が疑われた企業のトップは辞任し、逮捕者まで出た。
こうして山戸により名を挙げられた者達が、次々と吊るし上げられていく中、相反して彼を誘拐して監禁した犯人に関する情報は、何も出てこなかった。動画を配信した後、全く動きがないと言う。身代金の要求なども全くない。もちろん彼の行方は不明なままだ。
パソコンに向かって記事を打ち続けながら、須依は今回の犯人の動機がどこにあるのかを考えていた。
これまでの状況からすれば、のらりくらりと国会答弁をかわして逃げる彼に対し、義憤を感じた者達の仕業のように取れる。トップであり国を動かす政治家や官僚自らが民度の低い態度を隠そうともせず、醜態を晒し続けていることが許せなかったのかもしれない。
しかし果たしてそれだけなのだろうか。過激な思想を持った人間達による行動だったと結論付けて良いものだろうか。
犯人達の中には、防犯カメラにハッキングする能力を持つ知的な人物がいる。他のマスコミもそれぞれ犯人像を書きたてる中、今や国際的にも劣り始めた日本に不満を持つ新たなテロリスト集団が出現したという見方は多い。
周辺のアジア諸国から一目置かれていたはずのこの国が、いつからか発展途上国と見下していた国に追いつかれ、追い越され始めている。そこで国内需要に限界を感じた政府は、世界から人を呼び込もうと必死に働きかけ、クールジャパンだ、日本は良い国だと宣伝し始めた。
その成果が出たのか、今や世界各国から押し寄せて来る観光客が年々増え、何とか日本経済を下支えしている。しかしそれに比例してか、国民の民度が落ちてきていると囁き始められ、独裁政権下にある国よりも国際的に劣っているとまで世界から見られ始めていた。
国内では日本のすごさを理解し、素晴らしいと評価してくれる人々ばかりをクローズアップしているが、見ている人は見ている。衰えた点を必死に覆い隠そうとしている意図が明らかだからだ。
特にSNSの発達により、これまで下に見ていた途上国に住む国民の行動や振舞いと同様、またはそれ以下のマナーの悪さがこの国でも見られることが可視化された。化けの皮がはがれているからこそ、政府やマスコミはそれらを隠そうと必死になっていることが何よりの証拠である。
ただ今回の事件がそうした日本に嫌気を際した人物による犯行なのか、須依は疑問を持った。もしそうだとすればその集団はどのようにして形成され、どういった意思疎通の元、どのような人物が主犯となって行動を起こしているのだろう。
もし新たに出現したテロリスト集団ならば、事件は必ず今回だけで終わらないはずだ。次なる犠牲者が出るに違いない。週刊誌などではそのような憶測記事を掲載しているところが実際にある。須依もそれを危惧していた。
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