第三章

 詐欺集団を一斉摘発する瞬間は、無事捉えることが出来た。

 こんな時、目が見えない須依に出番は無い。その分烏森が十二分の働きをしてくれた。逮捕の瞬間の写真と動画撮影を一人でこなし、そのデータを新聞社だけでなく事前に耳打ちしていた系列テレビ局の記者へとすぐに送ってくれたのだ。

 おかげで夕方のトップニュースでその映像を流すことに成功した。もちろん夕刊にも間に合うよう、記事も書いた。運転しながら状況説明をする彼の話を聞きながら、助手席で座っていた須依がパソコンに打ち込んだものだ。

 音声の読み取り機能を使って何度も確認をしながら推敲を重ね、最後は彼の目視によるチェックもして貰った。それらをクリアした上で担当デスク宛てに送信し、それが須依の名で掲載されたのだ。

 そのおかげで須依のスクープは評価され、報酬もしっかりと手にすることが出来た。しかしその一部を使って烏森に食事やお酒を奢ることで、別件取材における手間賃を支払うよう約束させられたのである。

 約束通り一斉検挙の件を一段落させた後、記者クラブに戻った須依達はここ最近で生安のサイバー課が絡んでいる案件を調べた。しかし斎藤の言った通り、めぼしい事件がなかなか見つからない。

 それでも気になったものを強いてあげれば、某有名人に対して脅迫めいた書き込みを行った人物が特定され、逮捕された案件が一つ。あとは某マンションの元住民がネットへ悪質な誹謗中傷の書き込みを行い、管理会社兼所有者から業務妨害と名誉棄損の被害届が出された事件だった。

 前者は芸能人に疎い須依すら知っている、目黒署管内で起こった有名人の事件だ。被疑者はここ三年ほど執拗なストーカー行為を続けており、これまでも警察から何度か警告を受けていたという。

 それがさらにエスカレートしたため、今回は逮捕にまで至ったらしい。しかしこれは違うような気がした。須依にはそれ以上何も匂ってこなかったからだ。

 それでも須依は烏森に頼み込んで所轄へと足を運び、ストーカー事件の詳細を調査してはみた。しかし特にこれといった収穫が得られなかったのである。

 それでは後者の方かといえば、これもそれほどの感触は得られなかった。書き込みを行った発信者が特定され、身柄はすぐに確保された事件だが捕まったのは大学生らしい。以前住んでいたマンションでトラブルを起こし追い出され、そのことを根に持っていたようだ。そこで特定の掲示板へ、ある事ない事を書き込んだという。

 本人はそれほど悪気が無かったと言っていたそうだが、その書き込みが影響してかマンション側としては長期に渡り、多くの部屋で借り手がつかなかったと強く主張していた。それまでは空室になっても、すぐに入居が決まっていた状態だったらしい。

 さらに誹謗中傷の影響で退去した住民もいたようで、被害は決して小さいものでは無かったという。だがこれもそれほどの大ネタではない。

 だがこのどちらかの事件に何かある、と睨んだのは斎藤の言葉からだった。嘘をつく時は、本当の事を織り交ぜて言えばバレ難い。これは彼が学生時代の時から使っていた常套手段だ。仕事柄、社会人になってからも多少の付き合いが続いて十数年になる。 

 加えて聴力が鋭くなった須依だからこそ気付いたのだ。一瞬動揺した彼が放った話の内容にヒントがあった。

「もちろん海外からのハッキングには、いつも神経を尖らせている。しかし事件としては、ストーカー行為や名誉棄損に当たる書き込みが多い」

 海外からのハッキングにより、機密情報などが流出すれば大きな事件だ。しかし相当高度な技術を使わないと可能ではないし、対象が官公庁ならば簡単にネタが流れてくるとは思えない。

 だからこれはフリであり、本ネタはその後の事件だろうと須依は読んだ。そして実際調べてみれば、その二つに符合する事件がごく最近動いていた。だからこそ目を付けたのである。

 そこで須依達は次に元大学生を逮捕したという綾瀬署へと出向き、事件に関して聞き取りをすることにした。しかし残念ながら、こちらもこれといった手掛かりを得ることが出来ずに終わったのだ。

「どちらかの案件は、何か大ネタに繋がりそうな気がしたんだけどな」

 根拠はなかったが、これまでの経験がそんな独り言を呟かせた。しかしそんな得意の“カン”も今回は空振りだったらしい。

 ストーカー事件も、その後気になるような続報はなかった。業務妨害で捕まった大学生の件も、親が賠償金を払ったらしく示談がついたようだ。本人も早々に保釈され、刑は執行猶予付きになるだろうと聞いた。

 予想が百パーセント当たる、ということはない。むしろ外れの方が多いくらいだ。それでも他の人間が気付かない、または追わないような僅かの可能性に賭けないことには、他社を出し抜くネタなど掴めない。

 多くの選択肢の中から、一つ一つ潰していきながら突き進むしかないのだ。ただそれを早く手にできるかどうかは、目を付ける順位付けと機動力、そして最後は運次第だろう。

 世の中はうまくいかないものだ。例えば須依がサッカーから遠ざかったことを第一の挫折、失恋と失明による退職が第三、第四の挫折だとすれば、第二の挫折は現在の野党が政権を奪取し、与党となっていた頃に掴んだスクープにまつわる事件だった。

 今は事件関係の記事に関わることが多い須依だが、退職前は政治部の記者として活躍していた。一時財務官僚によるセクハラ問題が大きく取り扱われたために知られるようになったが、意外と女性の政治記者は多い。

 官僚の幹部は圧倒的に男性が多いからだろう。その為女性記者の方が口を滑らせやすく、重要な情報を回してくれることが少なくないからだ。

 当時告発した女性記者のように、須依自身も政治家や官僚達から夜遅くに呼び出されて食事をしたことなど当たり前のようにあった。もちろん今でいうセクハラも受けたものだ。 

 それでも社命であり、他社をすっぱ抜く記事を書くためだと歯を食いしばって耐えていた。そんな苦労の甲斐もあって大きなネタを手にできたのだ。

 丁度プライベートも仕事も順調だったが、徐々に視力の調子は悪くなっていた頃である。その分鋭くなった須依の勘が冴えていたのかもしれない。当時の政府幹部だった議員の発する気配がおかしい事に気付いたのだ。

 原因が女ではないかと疑ったのも、偶然とはいえ良い読みだった。その議員は妻帯者で子供もいた。それでも五十代とまだ若く、外見もそれなりに異性受けするタイプだったため、言い寄ってくる女性も少なくなかったようだ。そして彼も決してそれが嫌いな訳では無かったらしい。

 匂うと感じてから彼の日常の動きを探り始めて、一カ月ほど経った時だ。ある女性と高級ホテルで密会している現場を、ついに抑えることが出来たのである。

 写真も撮り、そして二人仲良く手を繋いでタクシーに乗り込もうとしている時、須依は素早く走って近づき、直撃した。

「大臣、その女性とは一体どういった関係ですか?」

 相手も油断していたのだろう。彼は慌てふためいて何も語らなかったどころか、須依を突き飛ばしてタクシーへと乗り込み、その場から走り去ったのだ。

 その時須依にも隙があった。まさか相手がホテルの従業員達が近くにいる場所で、女性記者に対し手を出すはずがないと油断していたのだ。

 サッカーからは遠のいていたが、体だけはずっと鍛えていた。夜討ち朝駆けと走り回る体力と気力がこの仕事には特に必要だからだ。

 それなのに慌てて走り寄った所を押されたからだろう。大きくバランスを崩して転倒してしまったのだ。場所も悪かった。コンクリートで覆われた地面に段差があったため、腰を痛打しただけでなく足首も捻ってしまったのである。

 立ち上がろうとしたが激痛で動けず、 そのまましばらくその場でじっとうずくまざるを得なかった。そんな須依を発見したホテルの従業員が心配気に駆け寄ってきた。理由を尋ねられたが、大丈夫です、としか答えない須依の状態から見過ごせない怪我だと思ったらしい。

 大事になることを恐れて遠慮する須依をよそに、ホテル内の救急看護室へと運ばれた。しかもそこにいた医師に骨折の疑いがあると診断され、早急に病院で処置を受けた方が良いと言われたのだ。

 そうなるとホテル側としても、ただで返す訳にはいかない。敷地内の段差で転び怪我をさせたとなれば、理由如何では責任問題になる。そこで従業員の付添いの元、須依を強制的にタクシーへ乗せて病院へ向かう間、別の責任者が防犯カメラのチェックをしたらしい。

 そこからが大変だった。女性とタクシーに乗り込む男性に、須依が突き飛ばされて転んだ瞬間が写っていたのだ。こうなるとホテル側に責任は無いけれど、客が傷害事件を起こした証拠を掴んだことになる。しかもその相手が現役の議員で大臣だということも、ホテル側は把握してしまった。

 一方病院で診察を受けた須依は腰を打撲し痣が出来ており、足首は幸い骨折していなかったけれどひびが入っていた。さらには重度の捻挫で、靭帯損傷の一歩手前だと言われたのだ。

 その結果を同行していた従業員がホテルに待機している上司に報告した所、怪我をさせた相手がいると聞かされたらしい。そこで傷害事件として警察を呼ぶかどうか、先方も相当悩んで頭を抱えたという。

 事実を知ってしまったホテル側としては、このままだと警察を呼ばない訳にはいかない。しかし当事者同士が話し合い、示談に至って双方納得した上で警察沙汰にしないと決めたのなら話は別だ。お客様の要望に従い、通報を取りやめたという大義名分ができる。

 そこで診断と応急処置を終えた須依に対し、付き添ってくれた男性が状況を説明してくれ、どうしましょうかとこちらに判断を委ねてきたのだ。正直大事にしたくない須依だったが、このままではホテル側としても放置できないという。

 止む無く警察を呼ぶ前に、須依は夜中だったが上司に報告を入れて病院へ呼びつけた。さらにホテル側から相手の議員へ連絡を入れ説明をして貰い、このままでは事件になってしまうと告げさせたのである。

 それを聞いてやむを得ないと判断したのだろう。大臣は秘書とホテルの責任者を引き連れて、須依のいる病院へとやって来た。

 その後須依から事情を聴いた編集長は、女性と一緒にいる写真も見た上で、駆け付けた大臣と一度話し合うことを先方に提案したようだ。病院側も事の重大さを把握したらしく、会議などに使われる一室を貸してくれた。

 そこで互いが椅子に腰かけて対面することになった。相対し、まず編集長が切り出した。

「さて大臣、どういたしましょうか。女性との密会現場を抑えた当社の女性記者を突き飛ばし、怪我までさせたにも拘らずその場から立ち去ったようですね。本来ならばとっくに警察がここに来て、傷害罪として事情聴取を始めているところでしょう。しかしホテル側が気を利かせ、その前にあなたをここに呼んだと聞きました。一体どう話を付けるおつもりでしょうか」

 大臣は立ち上がり、須依に対して一通り詫びを告げた後、再び座り直して言った。それでも政府の幹部というプライドがあるのだろう。あくまで上からの物言いだった。

「こちらが条件を付ける立場でないことは承知している。もちろん、怪我の治療代や通常の法律で認められる範囲内の慰謝料は支払う。ただそれ以上の条件があるなら、そちらがどのように考えているかを先に聞かせてくれないか」

「それでは須依が取ったスクープに関して、こちらの新聞または雑誌などの媒体で世間に公表することは構いませんよね」

「どういう記事を書いて公表するかにもよる。どう記載するつもりだ」

「細かい点は掲載時に決めますが、既婚者で子供までいる現役の大臣が、夜中の高級ホテルで女性と手を繋ぎ出てきたと言う、紛れもない事実は書かざるを得ないでしょうね。もちろんその女性との関係は、ただならぬものだということも、です」

 ここで横柄とも取れる態度を取っていた大臣は、言葉をさらに荒げ始めた。

「ちょっと待て! そうじゃない!」

 それでも編集長は怯まない。

「何が違うのでしょう? どういうご関係ですかと質問した女性記者を突き飛ばし、怪我までさせてその場から逃げられた。その状況から、肉体関係も無い単なるお友達だとでも言い張るおつもりですか」

「記事にそう書くつもりか!」

「それは大臣の態度次第ではないでしょうか。あくまで女性と肉体関係がないと言い張るのなら、マスコミとしては世の中に事実を知らせ、どう判断するかを委ねるしかありません。歪曲して伝えることは、マスコミとしてもできませんから」

 これには大臣も黙ってしまった。白を切ればそのまま記事に載る。しかも怪我までさせているのだ。そうなれば世間からの非難は避けられない。

 傷害事件として被害届を出されても、言い逃れが出来る状況ではないとホテル側から説明したとも聞いている。証拠がはっきりと映像で残っているからだ。しかも傷害罪は親告罪ではない。ただし過失致傷罪なら親告罪だ。この点の判断は微妙なため、どちらにしても早期に示談しておくのが得策なケースである。

 すると後ろに立っていた秘書が大臣に耳打ちをした。それを聞いた彼は頷き、言った。

「編集長。申し訳ないが今日はもう時間が遅い。そちらの怪我をした女性記者さんもゆっくり休んでもらった方が良いでしょう。だからこの件に関しては、日を改めて相談させてくれないか。明日の午後にでも必ずこちらから連絡する。そこでどう記事を載せるのか、警察への届け出をどうするのかなど、時間をかけて話しをしよう。そちらも上と相談し、東朝新聞としてどういう条件を出すのかを決める時間も必要なんじゃないのかな」

 ここで編集長も考えたようだ。何も今日、明日の記事に載せなければならない類のものではない。それに相手は大物議員だ。相手が条件を出すにしても、上と相談した方が良いと判断したらしい。

「分かりました。今日の所は怪我をした当社の社員に対し、こんな遅い時間でも来ていただいて謝罪していただいたことと、今後話し合うご意志があることを聞けただけで十分です。そうだな、須依」

 有無を言わさぬ言葉に、頷かざるをえなかった。しかし彼は大臣に付き添ってきたホテルの責任者の顔を見て条件を付けた。

「ただしホテル側の防犯カメラの映像は、こちらにご提供いただけますよね。それならば今日の所は警察へ連絡をせず、ここで解散することにしましょう」

 大臣達は困惑した表情をして互いの顔を見合わせていたが、ここで拒否はできないと判断したようだ。しぶしぶ頷いていた。

「それではこれで解散しましょう。大臣もお帰りになって結構です。私達はそちらのホテルに戻りましょう。須依はもう遅いからそのままホテルに泊まれ。部屋は空いていますよね。代金は治療費や慰謝料と一緒に、あとで大臣に請求しますから。よろしいですね。俺は防犯カメラの映像を頂いたら帰るから」

 結局強引に事を進めた彼の言う通り、須依はホテルへと再び戻って部屋に案内され、宿泊することとなった。

 もちろん実家にはその旨を連絡しておいた。電話を受けた母親は怪我について心配していた。しかし普段から夜遅くなって帰ることが出来ず、泊まり込むことも多かったため、外泊については何も言わなかった。

 その後須依のスクープは完全に編集長の扱いへと変わり、上層部を含む大人達の思惑に利用されたのだ。

 長年与党だった政党が野に下って三年目に入った頃である。そろそろ政権を奪取したいと目論む野党の幹部議員達と長く深い付き合いがあった新聞社としては、このスキャンダルを利用したいと考えたらしい。

 翌日、大臣から呼び出しを受けた編集長は政治局長と出向いたという。そこで須依の怪我について警察への被害届を出さない代わりに、密会していた女性との関係などを詳しく聞き取ったそうだ。そして系列の雑誌社での掲載を決めたのだった。

 当時は近年不倫記事が連発した頃のように、なんでも叩くという風潮は無かった。それでも与党の政権幹部が起こした女性スキャンダルは野党による格好の攻撃の的となり、世論の後押しもあって、結局大臣は辞職せざるを得なくなったのだ。

 これが後の政権交代に決定的な打撃となった訳ではない。しかしその大きな流れを作る一端になったことは確かだ。

 今の政権による大臣の失言や失態などと比べれば、それほど大きな罪では無い事でも、あの頃の世間は大騒ぎした。他の大臣の交代は他にも続き、それが痛手となったのだ。

 須依は当初、この記事を雑誌社に書くことは拒否していた。スクープを取ってきたのは自分だが、その使われ方に納得できなかったからである。確かに今回の不倫は女性にとって、許しがたいものだとは思う。

 しかしそれはあくまでプライベートな部分の問題だ。それでも公人の政治家として資質を問われてもしかたがない。また国民から選ばれた国会議員の中から、さらに選ばれ国の舵を取るべき大臣としていかがなものかという疑問も上がってしかるべきだろう。

 しかしこの問題を政争のネタとしてマスコミが恣意的に利用するなど、許されることではない。あくまで事実だけを記述し、反省を促す程度のネタで押さえるべきだと須依は主張した。

 それなのに大臣の資質を疑うだけでなく、現政権の緊張感の無さや奢りに繋がっているとの論調で記事を書け、という上からの指示には従えないと断ったのだ。

 結局、須依の説得を諦めた編集長達は、掲載する雑誌社の記者に記事を書かせることにした。須依のスクープは他人の手柄となったのだ。

 また公平であるべき新聞社が、一部の政党に加担するような動きを取ったことになる。須依は最後までそのことに異を唱え続けた。それが後の会社に対する不信感へと繋がっていく。

 さらに追い打ちをかけるように、徐々に視力が悪くなる病気にかかっていることがその頃分かった。それでもしばらく誤魔化しながら仕事をしていたが、視力の低下は矯正で間に合わないほどになり、限界を感じた。

 それでも引き続き仕事をして欲しいと周囲の人達は言ってくれたが、例の記事のわだかまりが須依を決意させたのだ。結局反対を押し切り、退職してフリーの記者となったのである。

 正社員ではなくなったために、これまでのような高い収入など得られない。政治記者の仕事を続けることは難しくなった。それでも東朝と契約を交わし、刑事事件などの仕事を定期的に依頼され、また他の社からの依頼も受けながらなんとかやっていけている。

 須依が実家暮らしだったことも幸いした。転勤族だった父も現在は定年退職し、その後関連会社で働いていたが、六十五歳で隠居生活に入った。そして晩年購入した北区赤羽の三LDKのマンションに住んでいる。

 父が七十二歳、母が六十八歳でお互い悠々自適な年金生活を送っている中、須依は親の所有する部屋の一室に住まわせて貰っていたのだ。

 ちなみに兄は父と同じく転勤族である保険会社に入社した。しかし結婚した妻が都内の従業員三十名規模の法人保険代理店の社長の娘だったため、転職して今はそこに勤めている。次期代理店の社長で今は常務だ。そして同じ赤羽の近くに住んでいる。

 ただ悪い事ばかりが起こった訳ではない。目が悪くなってから、須依は再びサッカーを始め、チームに所属するようにもなった。といっても普通のサッカーはできない。やっているのはブラインドサッカーだ。

 略称がブラサカと呼ばれるブラインドサッカーは通称名で、正式には視覚障害者五人制サッカーと呼ばれる。パラリンピックの正式種目にもなっており、ルールはフットサルで定められたものを一部修正したものだ。キーパーは健常者だがフィールドプレーヤーは基本的に視覚障害者である。 

 障害の度合いによってB1からB3まで別れているが、ブラサカは全盲またはほぼ全盲の人達で構成されるB1クラスの競技を指す。その他はロービジョンフットサルと呼称が異なっている。

 須依が参加しているブラサカでは、キーパー以外の選手はプレーヤーの条件を同じにするためアイマスクを嵌め、中に鈴が入って音が鳴ると言う以外はボールの大きさもフットサルとほぼ同じだ。コートの広さもそうだが、ゴールの幅などは二〇一七年に国際ルールが変更し、若干大きくなった。

 またブラインドサッカーでは、最近になって女子も男子と同じ日本代表のチームを結成し、国際試合をやるまでになった。しかしそれまでは競技人口も少なかったこともあり、現在国内にあるクラブチームでは男子の中に女子も加わってリーグ戦などを戦っている。

 須依は実家の赤羽と主な仕事の活動拠点である霞ヶ関との途中に、練習場を構えるクラブチームに参加していた。参加できる回数は仕事が忙しくなるにつれて少なくなったが、リハビリの為に始めた頃は夢中になり、ここで多くの事を得て学んだ。

 例えばたくさんの全盲の障害者達と知り合い、またその人達をサポートする健常者のボランティア達と交流を深めることができた。

 障害者スポーツは健常者達の助けなしでは成り立たない。試合ともなればゴールの設置もしなければならず、コートのサイドラインには高さ一メートルほどのフェンスを立てる必要もあったからだ。

 審判はもちろんチームに声をかけて指示を送る監督や、ゴール裏にはガイドまたはコーラーと呼ばれる健常者が必要だった。さらにはゴールの位置や角度、距離を伝える役目の人達がいなければ成立しない。

 公式戦では他にも選手をコートに誘導する係の人間や、選手交代の際にもピッチの外に連れ出す役目の人、中に誘導する人が必ずいた。こうして健常者の力を借りなければできないことを受け入れつつ、障害者だからこそできるプレーを見せることができたのだ。

 ブラサカでは真っ暗闇の中、ボールから聞こえるわずかな鈴の音を聞き取らなければならない。かつ相手選手達がボール奪取に来る際に言う、ボイ! という掛け声を聞き、その前に近づいてくる敵や周りを走る味方の気配を感じ取る。

 またはチームの監督やガイド、味方の選手達の声、さらには相手チームの監督の声なども聞き分けて状況判断をする。互いが見えない中でのプレーなので接触することも度々だ。 

 わざと激しくぶつかってくる男子選手も中にはいる。その為にわざと手を長く伸ばし相手と触れるようにして衝突を避け、相手が次に右へ動くのか左へ動くのかなどを察する必要に迫られた。こうして知らぬ間に触覚も研ぎ澄まされたのである。

 そんな中で健常者のゴールキーパーを相手に、ゴールを決めた時の爽快感は格別だ。観戦中は声を出してはいけない観客達も、得点した時だけは味方のスタッフ達と同様に歓喜の声を出して大騒ぎする。静寂の中から爆発するように会場を沸かせた瞬間などは、通常だと得られない鳥肌が立つような感動と喜びを味わうことが出来るのだ。

 視覚を失った須依だがブランドサッカーを始めたことにより、他にもかけがえのないものを手に入れることができた。例えば同じ障害者達との交流の中で点字を読んだり、作ったりすることもそうだ。

 さらには様々な人達と接することで聴覚が鍛えられ、相手の言葉のトーンを聞き分け、また長い会話を暗記することもできるようになった。その上人の歩き方や走り方の音などで様々なことを察知することも身に付けられたのである。

 観察眼ならぬ観察耳と鋭い聴覚や触角と記憶力により、有効な情報を得る場合など仕事上でも大変役に立っている。

 これは健常者だった頃に培った性格も影響していた。転校を重ねて普段でも人の顔色を見たり、空気を読んだりする癖が身についていたと思われる。それが今は、人の話す声のトーンなどで相手の機嫌などが分かるようになった。

 元々嫌われることが怖く、いつも明るく笑うことで敵をなるだけ少なくしたいと思っているほど臆病なタイプだ。それをなんとかポジティブな思考に変換することで乗り越えてきた。

 そんな須依が周囲の協力を得ないと生きていけない状況に置かれ、そして多くの仲間達と出会ったことで人に頼ることを覚えたのだ。そうした有難みを知ったことでその分人に恩返しをしようと、心の底から思えるようになることが出来たのである。

 他人の役に立ちたい、視力を失った自分でも存在意義があることを知らしめたいという意識が強いことも、そうした環境から生まれたのだろう。

 視力と同時に多くの事を失った須依だが、現状を受け入れた上で新たに得られるものがある、と信じて行動してきた。それが間違っていなかったと、今では多くの場面で痛感している。

 ただ今回の“カン”は外れかと諦め、烏森には無駄な取材に付き合わせたことを詫びた。そして一斉検挙のスクープで得た収入で彼に飲み食いさせたのだが、それから間もなく大きな事件が飛び込んできたのである。

 国会で問題となっているキーマンの一人である山戸やまと純次じゅんじという官僚が、突然行方不明になったというのだ。世間は大きく騒ぎ、マスコミ各社も一斉に取り上げた。

 当初は政府与党に守られ、野党による証人喚問の要求にも応じていなかった人物の為、後を追っていた記者達は一時的に雲隠れしたと思っていたらしい。居なくなった当日も国会答弁が行われる予定だった。そこで大きな力が働き、マスコミから逃げているのだろうと高を括っていたようだ。

 しかし政府与党や官僚達の慌てふためきようから、これは尋常ではないと気付いたらしい。そこで失踪は本当だと分かり、マスコミ各社が大きく取り上げたのだ。重要人物だったため、週刊誌の中では口封じされたのではとの憶測記事も飛びだしていた。

 さらには政府に楯突く野党、またはそれに準じる人物が、口を割らせるために拉致したのだろう、とまで騒ぎ出す始末となる。

 そんな与太話がまことしやかに囁かれるほど、与野党を含め国会や霞が関は大混乱に陥っていた。全く予想していなかった事件が大きく動いたため、須依が受けていた膠着状態の殺人事件は、一旦脇に置かれることになった。

 代わりと言っては何だが、詐欺事件のスクープをものにしたことも手伝ってか、烏森経由でこの件について取材応援の依頼を得ることが出来たのである。

 山戸の妻が正式に失踪届を出したことに加え、国会における重要な案件に関わる人物が行方不明になったのだ。世間も大きく注目したことから、警察も本格的な大々的な捜査を始めたという。

 しばらくすると山戸がマスコミ対策として、自宅ではない別のマンションの部屋を借りていたことが明らかになった。さらにはそのマンションまでタクシーで帰宅した後、姿を消したと警察発表された。

 そこは政府関係者が特別に用意していた部屋らしく、防犯対策もかなり厳重にとられた建物だという。そして最後に彼の姿を見ただろうタクシーの運転手により、マンションに着いた日時も特定された。

 しかし奇妙な事に設置されていた防犯カメラの映像では、タクシーで帰宅する山戸の姿と彼が部屋に入ったところまで確認できたが、その後出入りした形跡はないという。それが本当だとすれば、彼は部屋に入ったまま姿を消したことになる。

「そんなこと、ある訳ないでしょう」

 須依は折を見て、前回話した時と同様に斎藤が部署から出てくるところを捕まえ尋ねた。

 山戸失踪事件についての捜査本部は、新しくできた副総監を本部長とする警視庁人身安全関連事案総合対策本部が、指揮、担当することとなった。

 この部署は二〇一七年一〇月に発覚した神奈川県座間市で九人の遺体が見つかった事件をきっかけにし、行方不明者や虐待、ストーカー被害などを専門に担当するため立ち上げられたところだ。

 しかし新設されたばかりのため、今回はこれまで行方不明者などの相談、対応をしていた生活安全部総務課と合同で対応しているらしい。もちろん同じ部のサイバー対策課も、防犯カメラの解析などで捜査協力をしている。

 しかも明らかに辻褄の合わない分析結果をマスコミに対して発表したのは、彼のいる部署だった。それなら当の責任部署の長に直接問い質す必要があると考え、須依はいつ本庁に戻ってくるか分からない彼を長時間待って、ようやく質問をぶつけることができたのだ。

「そんなことはお前に言われなくても十分理解しているさ。実際に調べた下の奴らがそんな分析結果報告を上に挙げてきて、はいそうですかと俺が言うとでも思っているのか」

 不本意な結果しか出せなかったからか、彼自身も苛ついていた。言われてみればそうだ。

「じゃあ、本当にそんな結果しか出なかったというの?」

 須依が再度確認すると、彼は眉間に皺を寄せながら頷いた。

「もちろん、人を変えて何度も調べ直させたさ。だが結果が同じだったから、こちらも止む無くそう本部に報告した。その時どれだけ俺達が罵倒されたと思っている」

 彼の言うことはもっともだ。対策本部が派遣した捜索隊は、山戸が隠れ住んでいた部屋を徹底的に調べたようだが、ドアや窓には全て鍵がかかっていたという。

 そんな状態の部屋に入ってから、その後外出した形跡もないまま姿を消すなんてあり得ない。推理小説でも必ずトリックはあるものだ。

「鍵が内側からかかっている窓を開け、防犯カメラに映らないよう外に出ることは建物の構造上からまず不可能だった。そうでしょ?」

「ああ。捜査員達からはそう聞いているし、設置されているカメラの位置から考えても無理だ。もちろんうちの部署が預かった映像データにも、それらしき怪しいものは写っていなかった」

「後は玄関から出た場合だけど、これもカメラに映らないよう外に出ることはできない。それに不審な人物が建物内を出入りしている様子もない、ってこと?」

「そうだ。普通に建物から出たなら、必ずいくつかのカメラが捉えているはずだ。しかしどの映像でも確認できてない」

「建物内はどうなの? 同じマンションの別の部屋にいるってことはないの?」

「それも捜査員が調べたらしい。しかしそれらしき人物など発見できなかったと聞いている。確かに建物内なら防犯カメラの死角があったようだ。しかし万が一カメラに写らないよう部屋を移動したとしても、全く映らないで他の部屋に隠れたとしたら数は限られる。それに該当する全ての部屋から許可を得て、内部の捜索もしたらしい」

「部屋の中を? よくそんなことが出来たわね」

「数が少なかったし、住民が皆協力的だったからできたようだ。それでも人が隠れている形跡は見つからなかった。第一、住民がそんな怪しげな動きをしたとすれば、それらしき映像も残っているはずだ。しかしそれすらない」

「それなら映像のデータ自体がおかしい、ってことはない?」

「その可能性もあるから、今はそれも調べさせているよ」

「じゃあ、その結果はまだ出ていないのね」

「ああ。あくまでこっちは本部に指示された通り、捜査員によって持ち込まれたマンション側が保存していた映像データを見て、山戸が写っているかどうかを調べただけだ。最初からそのデータ自体がおかしいなんて疑うことはない。ただ今回のような辻褄が合わないケースが出た場合、ハッキングされていないかまたはデータが意図的に消去または差し替えられていないかを調べる。滅多にないケースだが、今回ならあり得るかもしれない」

 コーヒーを飲み干した彼はそう言い残して、小走りで生安部へと戻っていった。そしてその後まもなく警察から発表されたのが、マンションの防犯カメラにネットからハッキングされた形跡が見つかった、という情報だった。

 説明によると、最後に山戸が出入りした時間帯の防犯カメラに映ったデータの何か所かから、ハッキングによって別日に撮影されたであろう映像と差し替えられた形跡が見つかったと言うのだ。

 さらに捜査本部では住民や近隣の聞き込みにより、失踪したとされる日に怪しげな車がマンションの地下駐車場に入っていくのを見たという証言も得ていたらしい。

 そこから恐らく山戸は何者かに拘束された可能性が高いと睨み、近隣にある防犯カメラを片端から調べたようだ。そこで一台の不審な車が浮かび上がってきたという。

 その車を調査したとところ、カーシェアリングで使用されている一種のレンタカーであることが判明した。それを利用したと思われる二十代前半の若い無職の男性を、警察は参考人として任意同行しようとしたらしい。

 しかしその男は最近家族から失踪届が出されていて、行方が分からなくなっているという。もし山戸を誘拐、拉致したとすれば、その人物が犯人である可能性は高い。だが山戸本人の意思による失踪だとすれば、共犯者または協力者とも考えられるだろう。

 誘拐だとすれば、無職の若い男性一人による犯行とは思えない。その為警察では他にも協力者がいるだろうと見て、過激派などによる犯行も視野に入れ慎重に捜査をしているそうだ。

 また同時に山戸の自発的な失踪である可能性も捨てきれないとし、その両面で行方を追っているという。マスコミ各社も、政府与党に抗議している過激派の仕業ではないかという見方と、国会への証人喚問を避けるため政府与党などの指示による自発的な失踪ではないかという見解の二つに大きく分かれ、論戦がしばらく続いた。

「大変だったね。もしかして上からお叱りを受けたんじゃない?」

 須依は席について飲み物を注文した後、斎藤を労った。今回は警視庁内ではなく、その近くの警察関係者や記者達がよく出入りする、定番の場所に彼を誘ったのだ。彼としては余りにも短期間で頻繁に、記者とこそこそ話している姿を見られたくないだろう。

 そう思って会っていても不自然ではない場所を敢えて選んだ。ここでは他の記者達も、情報収集の為刑事達に近寄り話しかけたりしている。警察関係者もそのことを分かって、ここにきている人達ばかりだ。ただし基本的には極秘の情報ではなく、この程度なら流してもいいと思われる程度の話しかされないのが通常である。

 まだ目が見えていた頃、須依は畑違いの政治部の記者だったけれどここに来たことがあった。こういう場所がある事を知るのも勉強のためだと、先輩に連れて来られたのだ。

 その為、目が見えなくなった今でも店の中の様子は良く覚えている。コの字型のカウンター席があり、その後ろには立ち飲み用の丸テーブルが五つ程あった。

 ゆったりと飲みたい人やじっくりと話をしたい人はカウンターに、そうでない人は丸テーブルで、というこぢんまりとしたバーである。当然周りの目を気にして長居をしたくない彼は後者の場所を選んだ。

 しかも今日は彼の直属の部下で、高度情報技術犯罪を束ねる次長、田端たばた真輔しんすけ警視を同席させている。彼の部署における主な任務は、海外からのハッキング等に目を光らせ、国際的なハッカーやテロ組織を常に監視することだ。

 その特殊性から、今回の事件のような捜査本部にはまず関わってこない。だから須依もこれまで一度しか会ったことが無かった。その時は同じくこの店で偶然会った際、紹介されただけだ。

 確かその時彼の生い立ちも斎藤と同じく複雑で、だから少し目をかけていると聞いた覚えがある。だからこそ斎藤は事件を担当していないが比較的親しい彼をこの場へと連れて来たのかもしれない。余計なことは口走らないとの意思表示だったのだろう。

「そうでもないさ。多少の嫌味は言われたがな。防犯カメラの映像で山戸が出入りした形跡がないという発表をする前に、ハッキングがあったことを発見できていればってね」

「だけどおかげで謎が深まり、事件はさらに注目されたじゃない。その分、政治的な裏の陰謀説が若干薄らいだと思うけど」

「それでも結局ハッキングの形跡が見つかったことで、裏で大きな組織が動いているような印象を与えてしまったから同じだ」

「サイバー課としては言われた事を調べただけだから、落ち度はなかった。そうでしょ?」

 これには横で聞いていた田端が、興奮しながら乱暴な口調で話し出した。須依より年下だが彼にとっては上司の同級生でなく、ただの一記者として見ているらしい。

「もちろんだ。課長達も最初におかしな結果が出てきた時から、上には進言されていた。もう少し調べてからマスコミに情報を流した方が良い、とな。決してあれはうちの課のミスじゃない。マスコミや大衆の関心が高かったせいで、僅かな情報でも早く外に出さなければと上層部が焦った結果だ。こちらの責任にされても困る」

 担当外の出来事でも直属の上司が不条理な批判を浴び、それが課全体に及ぶことが許せなかったようだ。それを察した斎藤は彼を宥めた。

「まあ、いいじゃないか。もう過ぎたことだ。今は軌道修正できて真相究明に向かっているから良しとしよう」

 そこで須依は疑問を投げかけた。

「私と話をした時には出ていたけど、その後ハッキングの可能性を調べてその形跡を見つけたってことなの?」

「須依と話しをしていた頃には、もう調査に着手していたよ。いや隠していたつもりはないぞ。まだあの時詳細な結果は、本当に出ていなかったんだ」

「しかしその可能性が高い事は、判っていたんじゃない?」

 この問いに関して、彼は素直に認めて頷いた。

「当然だ。透明人間じゃあるまいし。カメラに映らずに姿を消したなら、それこそ何かに隠れて移動したか映像自体がおかしいかのどちらかしかない。それまでの映像分析や現場の捜査で、前者の可能性が限りなく低いと判った。その時点でハッキングの可能性を疑うのは常識だ」

「しかしハッキングとなると、それなりの技術が必要でしょ。今参考人として挙がっている若い男性は、そういった知識がある人物なの?」

「それは捜査情報だから教えられないな」

 彼が口を濁らせたため、質問を変えてみた。

「たしか警察の発表では、山戸が自発的に失踪した可能性も否定できない、と言っているよね。だけど誘拐だとすると若い男性一人による犯行とは思えないし、他に協力者がいるだろうって見解も出している。つまりその男には高いハッキング能力がなかったから、そう言っているんじゃないの? 能力があれば一人でだって犯行は可能でしょう。その可能性もあるのに最初から複数犯であると疑っているのは、そういうことじゃないの?」

 ここで再び田端が話に割り込んできた。

「おいおい、突っ込みすぎだろ。課長も困っていらっしゃるじゃないか。いくら親しい記者だからと言って、捜査上話せないこともある。これ以上は控えてくれないか」

 彼の横で黙っている斎藤の苦り切った気配は、須依の指摘が当たっていることを物語っていた。それが分かれば、若い男の行方が一番の手がかりになることを意味する。山戸が自発的に隠れたのなら、防犯カメラの映像をすり替えるような手段まで取るとは思えない。

 もしそうだとしたなら、マンションを用意した政府与党などの大きな力が働いたことになる。それならば警察の上層部の一部はそのことを知っているか、または加担しているはずだ。しかし斉藤から入る捜査状況を聞く限り、そのような気配は感じられない。

 もちろん彼自身が上に取り込まれているのなら話は別だが、映像を入れ替えた形跡を見つけたという発表が後手に回った経緯からして、それは考えにくい。もし警察が失踪に関わっていたなら、その情報すら隠蔽されていてもおかしくないからだ。

 つまり政府陰謀説よりも、行方不明になっている若い男性を含めた複数人によって拉致された可能性が高いことになる。ただその実行犯が政府与党に対する過激派達だと言う説に、須依は疑問を持っていた。

 山戸が今国会で取り沙汰されている問題のキーマンの一人であることは確かだ。しかしその人物を拉致するような真似を、今の日本にいる過激派が起こすだろうか。

 それに拉致した後はどうするつもりだろう。監禁して真実を話させたとしても、その証言が証拠にならないことぐらい、素人でも少し調べれば分かるはずだ。

 刑事訴訟法の三百十九条には、まず第一項で強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白、その他任意にされたものでない疑いのある自白は、これを証拠とすることができない、とある。

 さらに第二項で被告人は公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない、第三項では前二項の自白には起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む、とあった。

 つまり山戸を拉致監禁して問題の真相を追及しても、自分達が罪に問われるだけで意味をなさない場合も有る。本人が何かを話したとしても、それは無理やり嘘を言わされただけだと主張すれば良い。そうなればかえって被害者となった山戸に同情が集まり、世論は政府与党側の主張に味方して真実が闇に葬られる危険さえあるのだ。

 では一体誰が何のために、と考えたところで須依は何か引っかかった。これまで話してきた内容で違和感を覚えたのだ。

「じゃあ、そろそろいいか。余り長くマスコミ関係者と一緒にいるとまずいからな」

 彼らはそう言って先に席を立ち、自分達の分だけ支払いを済ませて店を出ていった。もう少し行方不明になっている参考人の情報が欲しかったが、そのことを察知したらしく逃げられてしまった。

 警察は現在参考人に過ぎないと言うことで、無職の男性の名前や住所などを明らかにしていない。もちろん今の段階で山戸と一緒にいる姿を捉えた訳でもなく、拉致の犯人と決まった訳ではないため、当然と言える。

 だからこそ何か有力な手掛かりを得ておきたかったが、彼もさすがにその辺りの所はわきまえている。その分、口にして問題ない話ならしっかりとこちらへ提供してくれるため有り難い。

 全てを隠されてしまうと何が重要で、何がそうでないかも判断できないからだ。その点彼は重要な情報は直接口にしないが、声や口調でヒントを与えてくれる。

 今回は失踪している若い男性に、ハッキング能力がないと警察が見ていることを教えてくれたのも同然だ。つまり他に共犯者が必ずいることを意味する。もしかすると詐欺集団の受け子のように、車を使った男性はただの手足に過ぎないのかもしれない。

 金さえ払えば何でもやってくれる輩をネットで探すのは、今やそれほど難しくない。振り込み詐欺の受け渡し役を、バイト感覚でやっている中高生もいる時代だから尚更だ。

 それにホンボシなら、身元がすぐ割れるような真似はしないだろう。しかも防犯カメラにハッキングし、映像をすり替えるほどの技術を持つ犯罪者だ。偽造した身分証などを使っていてもおかしくない。その場合参考人の身柄を確保したとしても、主犯格を特定することは難しいだろう。

 そこまで考えた時に須依は思い出した。若い無職の男性というキーワードを、最近調査していた中で耳にした覚えがある。しかもサイバー課が最近扱った事件を探っていた時だ。

 確か有名人のストーカー事件の他に、業務妨害で捕まったが早々に示談が済んで保釈されたという案件だった。その犯人は当初大学生で、以前住んでいたマンションに対する誹謗中傷の書き込みをした人物である。

 逮捕された時点で大学の退学処分を受けたため、途中から無職の男性という形で裁判にかけられたはずだ。警察がすぐに身元を割り出し逮捕したなら、ネットへの書き込みは海外のサーバーを使うなどの複雑な経路を取っていなかったと推測される。

 要するにハッキングできるほどの技術を持っていない若い無職の男性という点で、今回の参考人と条件が一致するのだ。

 もし違っていればまた振出しに戻ればいい。それにあの時何かあると須依が感じた“カン”は、ここに通じていたからかもしれないと思い至った。

 その元大学生の居場所を掴めれば、今回とは別件だとはっきりする。前回の調査の時点でその男性は成人していたため、名前は確認していた。あの事件のその後を調べれば、自ずと答えが出るはずだ。

 須依は早速、元大学生を逮捕した足立区の綾瀬署へと再び出向くことにした。

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