第二章
須依は斎藤との会話中で掴んだ、“何か”を調べて見ようと決めた。これまでの記者としての“カン”が、そうしろと命じていたからだ。
これはあながち侮れない。新聞社に在籍していた時も、この“カン”が働いたことでいくつも大きなスクープをものにしてきた。若手ではめったに貰えない社長賞も、何度か獲得してきたのだ。
しかし入社して六年が過ぎた頃、病院で精密検査を受けた診断により、いずれは失明の恐れがある病気に罹っていると初めて知った。その結果を受け、新聞社を退職する決断したのだ。
しかし須依の能力を高く買ってくれた会社から強く慰留され、せめて契約社員として残らないかと申し出を受けた。その為今では基本フリーの記者だが、特別な契約を結ぶことで仕事の依頼を受けることになり、現在に至っている。
会社としても、ただ須依の能力を惜しんだだけではない。大企業だと法律により、雇用者の二%は障害者を雇わなければならないという縛りがある。その為、須依を利用したいとの思惑があったことも事実だ。
障害者雇用促進法によって、民間企業だけでなく国、地方公共団体は、その「常時雇用している労働者数」の一定の割合(法定雇用率)に相当する人数以上の身体障害者、知的障害者、精神障害者を雇用することが義務づけられている。
常時雇用している労働者とは、期間の定めのある労働者も、事実上一年を超えて雇用されている、あるいは雇用されることが見込まれるものも含まれる。二十時間以上三十時間未満の労働時間のパートタイマーも短時間労働者として算定基礎に含まれていた。
法定雇用率は基本的に五年ごとに見直されるが、 原則として週三十時間以上、一年を越えて雇用が見込まれる常用労働者が算定の対象で、重度身体障害者、重度知的障害者については、一名を二名として計算できるダブルカウント制を採用している。
短時間労働者の重度身体障害者、重度知的障害者については要件を満たす場合は、一名として計算。要件を満たさない場合は、一名を0.5名と計算される。
短時間労働者とは、週二十時間以上三十時間未満で、かつ一年を越えて雇用が見込まれる者を指す。ちなみに須依の場合、基本はここのケースに当たる。
法定雇用率未達成の企業に対しては、雇用計画の提出や未達成分に相当する納付金を徴収される罰則があった。また正当な理由なく計画を達成せず、実施勧告にも応じない場合は「社名の公開」という社会的制裁も下されるのだ。
この件についても官僚達が不正を行っていたことで、新たな問題となって浮上していた。民間の企業では一定の条件をクリアしなければ罰則規定がある為、障害者の雇用に気を使ってきた。それでも会社の規模や仕事の性質上、障害者を雇うコストよりは安く済むからと、未達成分の人数×納付金をやむを得ず支払っている企業もある。
しかし同じ条件を満たすが為に、民間を監督する立場であるはずの省庁や自治体では、障害者手帳を持たない軽い症状のものまでカウントするなどの水増しをしていることが明らかになったのだ。模範となるべき国や自治体の機関が、規則を守らず悪質極まりない小細工をしていたのである。
しかも彼らの機関では罰則規定は無く、雇用率が0%台という省庁が複数あったという。全くこの国はどうなってしまったのかと思うほど、近年の官僚や公務員を始め、政治家達の不祥事が絶えないことに怒りを覚える。
ただ話を戻すと須依が会社を辞めると決めたのは、視力を失ったことだけが理由ではない。ある事件で特大のネタを掴んだが、会社の上層部により自分の意図とは違う形で記事にされた事があった。その時の怒りと遺恨がまだ心の奥底で燻っていたからこそ、退職する決意をしたのだ。
独身で気ままな身分だったこともある。また社内外でも須依に同情的な上司や応援してくれる同僚、記者仲間達が少なからずいた。そのおかげで例え視力を失ったとしても、引き続きフリーの記者としてやっていける、否、やってやるという決心がついたのだ。
幸いこれまでの成果を買われ、前の会社からだけでなく他の会社からも仕事の依頼があった。売り込みもできる体制が整い、周囲の期待に応える仕事をしてきたため、これまでは何とかやっていけている。
しかし現在依頼されている案件のように、実入りは悪くないが時間ばかりかかる待ちの取材は面白味がない。そういう仕事ばかりやっていると、損得なしに身が震えるほど没頭できる事件を欲するようになる。
今回がまさしくそうだ。須依の血が騒いでいた。今サイバー対策課、または生活安全部が関わっている事件で、何かが起こっているようだ。須依の“カン”がそう訴えていた。そこで早速調査することにしたのである。
とはいいつつ、その前に斎藤達が良かれと思って流してくれた情報をものにしなければならない。彼らの話を読み取れば、今出入りしている板橋署管轄に拠点を持つ詐欺集団の一斉検挙が早々に行われるはずだ。
しかし視覚障害者の須依が一人で調べ、逮捕の瞬間を写真に収めて記事を書くなど到底できるはずがない。加えて先程感じた件の調査についても人手がいる。そこで詐欺集団逮捕のネタを呼び水として、いつも通り助っ人を呼んだのだ。
記者クラブに戻った須依に、目的の男が独特の足音をさせて近づき声をかけて来た。
「おい、須依、どこに行っていた。あんまり一人でうろついていると、間違って変な所へ迷い込んじまうぞ。そんなことを続けていると、いつか出入り禁止になっちまうから止めろと何度も注意したじゃないか」
「烏森さん、丁度良かった。今良いネタを仕入れたところです」
後半は他の記者に気付かれない様、簡単な手話で伝える。視力を失ってからは誰かに聞かれても困らないよう、隠語の代わりにジェスチャーする方法を身に着けた。
これはほんの一握りの仕事関係者の間でしか通じない。その一人である彼は気づいたようだ。声のトーンを落とし、近くまで寄ってきて小声で話しだした。
「なんだ? 今回の件か? それとも」
「別件です。あっちの動きはまだありませんよね?」
「ああ、全くと言っていいほど情報が入ってこない」
「だったらちょっと席を外しませんか」
記者クラブのブースを出た須依は彼の右肩に左手を乗せ、ひょこひょこと歩く誘導に従って移動した。彼は須依が視力を失う少し前に、事故で左足の膝から下を切除している。
義足を付けていれば仕事も日常生活にもあまり支障が無いため、常時雇用されている障害者の正社員として引き続き記者を続けていた。つまり障害者としても須依の先輩にあたるのだ。ただ会社員としては、所謂ラインから外れていた。
他の記者達から遠ざかり、話を聞かれる心配のない場所に着いたようだ。立ち止まった彼は、須依の手を自分の肩から放して振り向き正対した。
「ここでいいだろう。なんだ、良いネタというのは? どこで仕入れた?」
斎藤の事を考えて入手先は濁したが、今出入りしている板橋署管轄内で別件の事件が動いている話を耳にした、と説明する。話を聞いて彼は唸った。
「それが本当なら拠点に警察が踏み込んで逮捕する瞬間を撮れば、スクープになるな。俺達の立場からすれば、記事にすることが最優先だ。しかし今回の場合、映像の方がインパクトは強い。逮捕のタイミングにもよるが、速報を流せるテレビ局に情報を売ることを考えたほうがいいな。もちろんうちの系列局へ、だぞ」
東朝を含めた大手の新聞社には、系列のテレビ局と深い繋がりがある。しかし彼はフリーの肩書を持つ須依が持ってきた情報をより活かし、かつ自分が所属する新聞社と系列局の顔も立てる方法を提案してきた。
「それで良いと思います。私だけでは写真や映像を撮れないので、そちらを烏森さんにお願いしていいですか。それに表向きは御社から委託された仕事で板橋署管轄を動くことになりますから、情報提供先もそちらを優先するのは当然です」
「御社なんて他人行儀な事を言うなよ。須依はうちの特別契約社員でもある。といって基本はフリー記者を名乗っている手前、そんなことでお前の考えや行動を縛るつもりはない」
須依の退職した本当の背景を知る彼らしく、そう気遣ってくれた。
「はい。分かっています。でも今回は烏森さんの手を借りないと、どうにもなりません。記事は書かせてもらいますが、映像その他の提供に関してはお任せします」
といっても写真は新聞でも使えるが、映像に関しては系列局とはいえ他社に回したとしても、新聞社所属の記者個人が報酬を得ることは出来ない。だが須依ならそれが出来る。要は彼の紹介により、須依の名でテレビ局へ映像を高く買い取ってもらうのだ。
彼は報酬を直接得ることが出来ない分、局に対しては他局に先駆けたスクープを提供することで恩を売れる。また今後の為のパイプを太く出来るメリットもあった。
さらに新聞記者としてもスクープを撮ったことに関わっていれば、社内での表彰や評価対象に値する。
彼は足に障害を負ってから、第一線の記者ではなく遊軍記者の地位へと押しやられた。須依も似た立場であり他の記者の鼻を明かす為に組んだ彼との共同戦線は、WIN―WINの関係にある。
ちなみに彼は七歳の息子と五歳の娘を持つ妻帯者だ。その為異性として見たことはない。あくまで仕事上のパートナーだ。しかし彼が独身だった頃、正直少し憧れていた時期はあった。
「分かった。俺は須依のサポート役をする代わりに、美味しく頂戴できる所は遠慮なく貰う。それでいいな」
「お願いします」
そこから彼の社有車を停めている駐車場へと移動して乗り込んだ。車中でその後の取材をどう進めるかの打ち合わせをする。須依より一つ年上の彼とは、入社してから十七年もの長い付き合いだ。その為話は進めやすく、そして早かった。
まだ健常者だった頃から随分と世話になり、色々な指導を受けてきた。視覚障害者となってからも、彼は数少ない理解者の一人である。本来なら年齢とキャリアからして、そろそろデスクとして第一線から退いても良い時期だ。
しかし障害者というハンデを背負った為にラインから外れ、今でも一兵卒の記者として現場を走り回っている。それでも現場好きの彼はその方が有難い、と思っている変わり種でもあった。
さらに視力を失いつつあった頃の須依の周辺で、以前と変わらない態度で接してくれた数少ない人物でもある。中途で視覚障害者となった須依自身も戸惑いは大きかった。どうやって今まで通り、健常者と会話をスムーズにできるかを試行錯誤して苦心していたように思う。それでも記者の仕事が好きだったため、出来る限りは続けたいと考えていた。
しかし現実はなかなか厳しかった。視覚障害者として、日常生活を円滑に過ごすことも簡単ではない。障害者のためのリハビリテーション施設へと通い、様々なトレーニングを受ける必要もあった。
しかしそうしたほとんどの施設は、入居しない限り土日、祝日は休みのところばかりだ。さらに通うとしても、朝九時から夕方四時までなど限られた時間しかやっていなかったりする。
そうなると不規則な勤務時間である記者として、または会社員として縛られた生活の中、施設に通う時間を確保することはとても困難だった。会社を辞めた理由としては、そういった事情が重なったことも事実だ。
退職してしばらくは集中してリハビリ施設へと通った。白杖を使って道を歩くことや、家の中などをスムーズに移動するといった基本的な事から学び始めた。また点字やパソコンなどにソフトを導入することで、文字を読み取る機能の習得も行った。
さらには記者として仕事を続けるために、まさしくブラインドタッチでパソコンを使い記事を書く練習もした。その上ソフトで読み込むことにより、間違いがないかを確認するなどの特殊な訓練もしたのだ。
そうしたリハビリ兼職種訓練を続けた結果、フリー記者としてやっていける自信が付くまでになった。すると烏森を中心とした以前の職場から声がかかり、特別契約社員としての契約を結び、仕事をいただけるようにもなったのである。
そこに至るまでの道のりは、今考えても大変険しいものだった。須依自身のたゆまぬ努力はさることながら、周囲の多大なる協力があったからこそ辿り着けたのだと今でも感謝している。
烏森との間で交わした手話などもそうだ。視覚障害者が手話を使うこと自体奇妙な話である。しかし記者という仕事柄、他人に聞かれてはいけない会話が多数あった。隠語なども含め、色々な工夫が必要だったからこそ生まれた独自の方法が手話だったのだ。
それだけではない。取材相手がどう感じているか、又は嘘をついているか否かなどを知ることは、記者にとって必要不可欠な要素だ。視力を失ったために、取材相手の表情から読み取ることは出来ない。よってその能力をどう補うかを懸命に考えた。
そこで辿り着いたのが相手の声のトーンやイントネーションの変化、そして気配などから感じとる術を身に付けることだった。これも長きに渡って協力してくれる人達がいたからこそできたのだ。
さらには聴覚だけでなく、触覚も磨いた。軽く相手の手や腕などに触り、動揺しているのか緊張しているのかなどの心理状態を知ることができるようにもなった。
これは健常者の時ではできなかったことだ。女性である須依がべたべたと男性相手の手や腕を触ったりすれば、勘違いを生むことがある。また今や世間でも話題になっている、逆セクハラ問題へと発展するかもしれない。
だが視覚障害者であれば、相手に道などを誘導してもらう際に手などを触ることは自然な事だ。相手の腕や肘、肩を掴むことは必要な行為でもある。そのことを利用し、これまで眠っていた新たな能力を引き出すことが出来たのだ。
烏森との打ち合わせを済ませた二人は、まずは車で板橋署へと向かった。彼の障害は左足のみのため、運転には全くと言っていいほど支障はない。それどころか昔陸上の選手だった彼は、社会人になってから完全に辞めていた中距離走を、障害を負ってから再び始めた程だ。
僅かなプライベートの時間には、カーボンなどの特殊素材を使った障害者が使う陸上用の義足に履き替え、トラックを走ったりして体を鍛えているらしい。
お昼近くだったため、途中でコンビニに寄ってサンドイッチとおにぎりと飲み物を購入する。須依は移動中の助手席でこぼさないよう食べていると、バカ舌をからかわれた。
「何故ツナおにぎりにツナのサンドイッチなんだ。どうせなら別の味にすればいいだろう」
彼は署の駐車場に停車させ、運転席に座ったままおにぎり二個を三分で食べ終え、そして外に出た。
まずは進展しない殺人事件の捜査本部が立っている、会議室周辺にいた刑事達の様子を軽く伺う。他の記者や警察関係者に、別件の取材をしているとは気づかれない為のアリバイ作りだ。その後に詐欺事件を担当している刑事課の部屋へと足を向けた。
まだ秘密裏に動いているからか、検挙直前だからなのか周辺は緊張感がピリピリと伝わってくる。烏森も出入りしている捜査官達の表情から、それが分かるという。そんな状況で記者が下手に近づけば、簡単に追い払われかねない。
そこで警戒されにくい須依の出番となる。白杖を使い、迷ったふりをしながら部屋へと近づくのだ。いくつもの視線を感じたが、東朝新聞の腕章を嵌めていた為、障害者の記者だと分かったのだろう。しばらくは無視してくれていたようだ。
中には親切心で、どこへ行こうとしているのかを訪ねてくる警察官もいる。そういう人は須依が女性だからか、同性が多い。すると予想通り声をかけられた。
「あの、記者さんですよね。どちらへ御用ですか?」
「す、すみません。おトイレをお借りしようとして、迷ったようです。この近くにございますか?」
「ああ、トイレならこちらにもありますよ。案内しましょう」
「ありがとうございます。助かりました」
親切な女性警察官らしき人物の右肘を借りて掴まり、目的地へと誘導された。その途中で彼女は言った。
「今この辺りには余り近づかないでくださいね。あなた達が取材している、捜査本部のある会議室は反対側ですから」
須依はそこでチャンスを掴んだ。しかし悟られない様に謝る。
「そうでしたか。申し訳ございません。用が済みましたら、すぐ離れます」
「そうしてください」
「はい。ところでこちらでも、これから捜査本部が立つのですか?」
何気なくそう尋ねた瞬間、それまでリラックスしていた肘から一瞬緊張感が走る。しかし彼女はすぐに否定した。
「いいえ。ただ他にも色々事件が起こっているので、バタバタはしています。ただでさえ本部が立つと忙しいですし、捜査員の方達は皆気が立っていますから」
「そうですよね。お忙しい所すみません。決して邪魔にならないようにしますから」
トイレの入り口に着き、彼女にお礼を言った須依は個室へと入った。ちなみに彼女が着ていた服の感触や会話の内容から、恐らく事務をやっている総務課あたりの職員だと睨んでいた。
所轄に捜査本部が立った場合、拠点となる会議室などに机や椅子、パソコンなどの機器を運ぶ必要がある。それらのセッティングをする仕事は主に総務課が行う。彼女の歩く音から、本部の立っていない別の会議室から出て来た後、こちらへ近づいてきたことは分かっていた。
そんな彼女が今忙しいからここには近づかないように、と注意したのだ。さらに別の捜査本部が立つのかと鎌をかけた時、明らかな動揺が感じられた。おそらく隠密裏に何かが動いていることは間違いなさそうだ。
斎藤から得た情報通り、詐欺集団を捕まえるため裏では別の捜査本部が設置されているのだろう。彼女はその準備のため、部屋を出入りしていたに違いない。
しばらく便座に腰かけ、耳をそばだてる。そうして何かしらの会話が聞こえてこないかを探った。トイレという場所は人の警戒感が緩む場所だ。特に女性の場合、洗面台の周辺で化粧直しをしながら雑談していることが多い。
ここは先程の彼女が言ったように、詐欺事件の捜査拠点らしき会議室に近いと思われる。出入りする人達が使用しやすい場所にあるため、上手くいけば隣の男子トイレからも会話が聞こえてくるかもしれない。
また捜査員の中には女性刑事もいるだろう。複数人で入って来たなら、事件の事をうっかり口にすることもあるはずだ。
その予想が当たった。最初は男子トイレから須依だからこそうっすらと聞こえただろう会話によれば、先日から罠にかかった振りをしてマークしている件があるらしい。そこでいよいよ今日の午後、受け子が金を取りに来る予定だと言う。
銀行と連携を取り、出金を済ませた人物に張り付いている刑事が受け子を確保すると同時に、指示しているだろうアジトへ突入する準備を整えていることが判明した。あとは場所だ。管轄内といっても範囲は広い。
最悪でも彼らが動き出してから追いかけることは可能だ。しかしそれだと他社にも気づかれる公算が高い。
車で後を追うにしても何か不測の事態が起こり、見失うこともあり得る。その為もっと安全で効率的なのは、事前に場所を特定して近くで張っていることだ。
そんな時、トイレに二人の女性が入ってきた。須依が潜んでいる場所ではない個室へと入っていく。しばらくすると彼女達は用を済ませた後、洗面所で話をし始めた。それでも声を潜めていたため、しっかり神経を集中しないと聞こえないほどの音量だ。
「あなたが合流するのはいつ?」
「私は一時半からです。三十分後にはここを出ます」
「そう。あそこは閑静な住宅地だから気を付けないと」
「はい。大通りから二本奥に入っただけで、周りは一戸建てかマンションしかありませんから。向かいのマンションに着いても、部屋に入るまではとても気を使います」
二人が出て行ったことを確認してから、少し時間を置いて須依はトイレを後にした。警察の張り込み場所は、マンションの一室らしい。場所は大通りに近い住宅地だと分かった。
今出て行った女性の後を追えば、詳しい場所や犯人達の拠点も明らかになるだろう。しかし問題は須依が女性の声を覚えていても、姿形は分からないことだ。この後三十分以内に署を出て行く女性刑事を発見し、尾行するにはどうしても烏森の協力が必要となる。
といって彼も先程の女性がどのような容姿をしているか知らない。手掛かりは時間と、張り込みの交代要員になりそうな刑事らしき女性と言う二点だけだ。
もし彼女が声を出したり足音が聞こえる場所にいたりすれば、須依には判別できるだろう。しかしその後尾行することを考えれば、新聞記者である自分達の姿を見られる訳にはいかない。駐車場に停めてある車の中で待機しておくのが無難な手だ。そうなると声や足音が聞こえるかは微妙になる。
須依は慎重に歩きながら、烏森の元に戻った。彼はすでに捜査本部から離れ、他の記者達と距離を置くために自分の車の近くで待っているはずだ。
すると須依の姿を見つけたらしく、素早く近づいて声をかけて来た。
「どうだった?」
「車内で話しましょう」
「よし」
それなりの情報が得られたことを彼も理解したようだ。駐車場まで誘導してくれ、助手席のドアを開けて須依を座らせる。彼は運転席へと回り込み、ドアを閉めた途端に尋ねてきた。
「アジトがどこか判ったか?」
「はっきりとした場所まで特定できませんでしたが、」
そう前置きした後、仕入れた情報を彼に伝える。
「一時半に合流するのか。で、三十分後に出ると言ったということは、」
「そう聞いてから、すでに十五分ほど過ぎています」
須依は女性刑事が話していた時、自分の持っている時計で時間を確認していた。視覚障害者用の、音で時間を知らせてくれるものだ。
しかも耳元に充ててボタンを押すと、うっすらとしか聞こえない程度に音量は下げている。トイレのような静かな場所でも、周りにいる普通の人には聞こえなかったはずだ。
「つまり一時十五分頃にはここを出るのか。十五分前でいいということは、それほど遠くないな。最低でも五分前には着かないといけないだろうから、遠くても車で十分程度の場所ってことになる」
「大通りから少し入ったところに閑静な住宅街のある場所と言えば、どの辺りになるか分かりますか?」
須依にはこの周辺の土地勘がない。知った場所なら、見えなくてもある程度は把握できる。歩行にも支障をきたすことはほとんどない。
しかし見知らぬ場所となると、全くのお手上げ状態だ。もどかしいけれども、健常者である彼の力を借りなければならなかった。
「ちょっと待て。今調べるから」
彼は後部座席に置いたバッグの中から、ノートパソコンを取り出して立ち上げたようだ。今は便利なもので、ある地点から歩いてこの辺りまでだと何分、車だと何分と教えてくれるマップがある。
恐らくそのサイトを開いて、車でここから十分前後かかる場所を特定しているのだろう。そうすればここを起点とした円を描くことが出来る。その範囲から、大通りと閑静な住宅地という条件に当てはまる点を探せば良い。
そういうソフトがあるとは知っているが、地図上から絞り込む作業となればさすがに須依には無理だ。目が見える彼でさえ、少し時間がかかっている。唸りながら、拠点はどこかを探していた。
当然と言えば当然だ。大通りという条件までは絞れても、そこから相当の土地勘がない限り、地図上だけで閑静な住宅地かどうかなどすぐには分かりようもない。ヒントは二本ほど中に入った場所で、一戸建てやマンションばかりが立ち並んでいるという点だけだ。
よって地図上で商店街などや飲食店などがある場所を除いていき、一戸建てやマンションの密集している個所を目で探すしかない。しかも車で片道およそ五分前後の誤差を考慮するとなれば、相当な広範囲に及ぶはずだ。
見張り場所に合流する女性刑事を発見し、尾行が上手くいけば場所の特定はできるだろう。しかしそれが失敗したり見失ったりした場合に備え、先に目星をつけておいた方がその後の対処はしやすくなる。
しかも先程彼女が言っていた時間が突発的に変更になることもあり得た。さらに交代要員が、急遽他の男性と変わる可能性だってある。
その為にも、犯人達が潜む拠点を絞り込む作業が必要だ。突入はおそらく今日だ。早くて彼女が合流して間もなく、遅くても銀行の窓口が開いている三時頃までだろう。よって一刻も早く場所を特定し、事前に張り込む必要があった。
烏森もそれらの事は理解している。パソコン画面ばかり見るのではなく、時折顔を上げて署から車で出ようとする人物がいるか、注意を払っていたようだ。
その気配が分かる為、須依もまた車の窓を少し開けて外の音や声を聞きながら、神経を集中した。トイレで話していた女性が近くを通るかもしれないからだ。また他にも話し声などで、新たな情報が得られるかもしれない。
そうして意識が外に向かっていた時、横に座っている彼が声を発した。
「この辺りが怪しいな」
急に話しかけられたため内心では慌てたが、平静を保った振りをして質問する。
「いくつぐらいありましたか?」
「三か所までは絞れたよ。署からそれなりの距離があり、大通りから中に入った場所で閑静な住宅地かつ他にはマンションしかないというと、思っていたより限定できた」
「方向はばらばらですか?」
「二か所はだいたい同じ方向だが、一か所だけ逆方向にある」
「あとは先ほどの刑事がいつ出てくるか、ですね」
「ああ、それらしき人間は今の所いなかったと思うが」
「はい。私も耳を澄ましていましたが、署から出て行った車は、記者関係か一般の人達ばかりだったと思います」
警察署には免許の住所変更などや、各種届出のために訪れる人達も少なくない。捜査本部が立っているため、通常時よりマスコミ関係者の出入りが激しいのだろう。しかしそれ以外の捜査関係者達が出入りしている様子はほとんどない。
事件が進展していないため、捜査員達が戻ってくるのは早くて夕方だろう。報告のための会議はだいたい夜の八時頃らしいから、暗くならないと戻らない刑事の方が多い。営業成績の上がらない社員のように、何か掴んで来るまで帰ってくるなという圧力がかかっているはずだ。
先程から何度も耳に当てていた時計が一時十分を過ぎたと知らせた時、動きがあった。かすかに聞き覚えのある女性の声が聞こえたのだ。他にも複数の男性の声がする。
「今、署から出てきて車に乗ろうとする、女性刑事らしき人はいますか?」
耳をそばだてながら、小声で烏森に尋ねた。
「あ、あれか。それらしいのがいるな。横に男が数人いる」
「合流する応援要員なのかもしれませんね」
見張り場所に黒白のパトカーで乗りつける馬鹿はいない。覆面パトらしき車が停車している場所は、事前に把握していた。その中の一つに彼らが乗り込めば、目的の人物である公算が高い。しかも聞こえて来た人数からすれば、一台でなく複数台、またはバンに乗り込むこともあり得る。
女性がもう少し声を出してくれれば確実なのだが、と焦れた思いでいるとかすかに会話が聞こえてきた。
「お前は後ろに乗れ」
「私が運転しますよ」
「いいから乗れ」
一人の男性刑事の言葉に、女性は従ったようだ。しかし私が、といった声は間違いなくトイレの中で耳にしたものと同じだった。
「間違いありません。あの人達です」
「分かった。どうやらバン一台で出発するようだ。気付かれない様、慎重に尾行する」
「相手はプロですから無理しないでください。途中で巻かれたとしても、できるだけ先程絞った場所の近くまでは行きたいですね」
「努力するよ」
須依はすでに腕章を外して顔を伏せていた。おそらく彼は屈みながら目を付けた二人の乗った車のナンバーを確認し、署の駐車場を出て行く姿を見届けているだろう。
しばらくの沈黙があった後、エンジン音が聞こえた。
「さあ、いくぞ」
彼の声を合図に顔を上げた須依は、シートを倒して寝ているような振りをした。どうせ見えないのだから、ここから先は彼に任せるしかない。自分に出来ることは、記者だと怪しまれないように振舞うだけだ。
署を出て十五分ほど走っただろうか。大通りを走っていた車が左に曲がった。脇道に入ったのだろう。周辺の音が変わる。走行スピードも落ちた。
しばらくして何度か角を曲がった車は、ゆっくりと止まる。運転していた彼が焦っている空気を感じた。どうもまずい事が起こったらしい。
すると彼が申しわけ無さそうな声を出しながら、車を素早く降りた。
「すまん。見失った。ちょっと待っていてくれ」
尾行に気付かれて巻かれたのだろうか。それとも目的地の近くまでは辿り着いたが、その直前で見失ったのか。
しばらくして運転席へと戻って来た彼に尋ねると、どうも後者らしい。出発前に目星を付けていた、同じ方向の二か所に近い場所までは来たという。
しかし刑事達が見張り場所とアジトに近づいたために、用心したのだろう。何度も角を曲がりながら住宅地の間の狭い道を、縫うように走行したらしい。その為接近することもままならずにいたところで見失ったようだ。
「それでもこの周辺なのは確かですよね」
「ああ、間違いないと思う。お前が聞いた条件にも当てはまる場所だ」
こうなれば、後は警察が見張りに使っている場所と、肝心の拠点がどこかを探るだけだ。といってうかつな動きは出来ない。
少し窓を開けて外の音を聞いた。確かに閑静な住宅地のようだ。とても静かで人の声が全く聞こえてこない。それでも鳥のさえずる声がかすかにした。虫の鳴き声もする。少し離れた所に公園でもあるのか、または街路樹や庭先に佇んでいるのかもしれない。
駐車した所はどこかのマンションの脇だろう。日陰になっているからか、須依にはまるで夜のように感じる。無音に近い状態は、住民にとって快適なのかもしれない。しかし須依にとっては何も情報をもたらさない、真っ暗闇に放り出された感覚だった。
「烏森さんがこの周辺を歩き回るのは危険でしょう。私が携帯のインカムを付けて、カメラ付きのサングラスを嵌めて外に出ますから、車の中から指示してください」
「そうしてくれるか。須依なら白杖をついてこの周辺をゆっくり歩いていても、不審がられることはないだろう」
「はい。車を見失ってから、まだそれほど時間は経っていません。もしかしたら交代要員が乗り込むまで、どこかに駐車しているかもしれません」
「ああ、時間が無いな。早速やってくれるか」
彼とは今までにも、何度かこの手を使ったことがあった。手際よく鞄の中から必要な道具を取り出して、パソコンや携帯に繋げる作業をする。そして彼にインカムとサングラスを装着させてもらった須依は、外に出た。
「どうです? 見えますか? 聞こえますか?」
小声で呟きながら、辺りを見渡すように首を横に振る。
「ああ、聞こえるし、カメラの感度も良好だ」
「では少しこの周辺を歩いてみますね」
須依はインカムで彼の指示を受けながら、怪しいと思われるマンションの周辺をゆっくりと歩く。彼に周辺の景色がよく見えるよう、時折首を振った。
なかなか見つからないまま、何本目かの通りを歩いていた時だ。車が発進する音が聞こえたため、そちらへカメラが向くように顔を向ける。すると彼の声が聞こえた。
「あれだ! さっきの刑事達が乗っていた車だ! おそらく今まで見張っていた刑事達が代わりに乗っていったのかもしれない。須依、今あの車が出たマンションへ、もう少し近づいてくれ。前方数メートルの左側だ」
「了解」
短く答え、ゆっくりと彼が言った通りに歩く。そして目的のマンションの駐車場らしき場所に着いた。
「そうだ。そこからあの車が出てきたと言うことは、そこが刑事達の見張り場所だろう。そこから右を見上げるよう振り向いてくれないか」
ここはどこかと確認するかのような演技をしながら、自然な形で言われた通り右回りに振り向く。そしてもう一度前を向き直す時に、再びゆっくりと首を回した。
「よし、分かった。一旦ここを離れよう。須依はそのまま前に進んでくれ。俺は先回りして、その先の交差点でお前と合流する」
「了解」
彼の口ぶりでは、アジトらしき場所の見当もついたようだ。これで一安心できる。須依は焦らずゆっくりと歩き、交差点へと差し掛かった。すると別の道を通って先回りしていた彼の車が停車する音が聞こえ、インカムから指示が出た。
「車を左側に停めたから、ゆっくりと角を曲がって助手席に座ってくれ」
「分かりました」
白状で確かめながら、道を左に折れた所に車のハザードランプらしき光が点滅している様子がぼんやりと見えた。そこで車両のドアを手探りしながら確認をして助手席へと乗り込んだ。
「お疲れ様。場所を変えるから発車するぞ」
「お願いします」
須依がシートベルトを締め終えたことを確認した彼は車を前に進め、一度角を曲がってから停車した。やはり近くに公園があったようだ。そこで彼は一度大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせた後に説明し出した。
「須依が確認してくれた場所から、少し離れたところに向かい合う形でマンションが建っている。そこの三階か二階の部屋が、おそらく犯人達が潜んでいる場所だろう。その反対側の四階の一室で、警察は張り込みをしているようだ」
「私達が見張っていられる場所は、ありそうですか?」
「難しいな。警察が張り込んでいるマンションで、他に空き部屋があれば一番いいが。恐らく警察もそう考えて、あの場所に部屋まで借りて見張っているはずだ。他は道路に車を長時間停めていれば目立つし、周囲の住民からすぐ苦情が入りそうだから駄目だろう」
「そこまで近くなくても良いと思いますよ。それに逮捕はおそらく今日のようですから部屋を借りている時間はありません。この公園からは、向こうのマンションの動きは見えそうですか?」
「ええっと、向こうの公園の端から望遠を使えば、多少動きがあれば分かるかもしれない」
「ここだと、長い間駐車できそうですか?」
少し間があってから彼は答えた。
「いや、ちょっと難しいかもしれない」
「だったらコインパーキングは近くにありますか? 普通の駐車場でもいいですけど」
「なるほど。駐車場を借りるだけなら時間もかからないだろうし、金額も安くて済む。ちょっと待て。調べるから」
再びノートパソコンを開いて彼が調べている間、須依は白杖を持って外に出た。目立ってはしまうが、須依が記者だと分かるのはごく限られた警察や同業者ぐらいだ。
この周辺の住民達なら、障害者が気分転換かリハビリの為に公園へ遊びに来たと思うだろう。それならば少しくらい車が停まっていても、邪魔だと通報されることもない。そう見越した行動だった。
初めてきた場所だから、“カン”は全く働かない。杖で周りを探りながら、ぶつからないよう注意して前に進む。すると公園の入り口らしき所に辿り着いた。少し中へ入ってみようかと思ったが、その前に声がかかった。
「おい、あったぞ」
目的の場所さえ見つかれば長居は無用だ。須依は頷いて踵を返し、車へと戻った。助手席に座ったところで彼が言った。
「あの二つのマンションの前の通りをまっすぐ東に進んだ所で、大通りとぶつかる角にコインパーキングがある。そこから望遠で動きを見張っていれば、突入するタイミングも分かるだろう。少し距離はあるがすぐに駆け付ければ、逮捕して連行する姿や映像は取れると思う」
「じゃあ、実際そこへ行って確認してみましょうか」
「ああ、そうしよう。望遠も一応用意してきた」
「さすがです。準備がいいですね」
「褒めたって何にも出ないぞ」
車を見失った時とはずいぶん変わった上機嫌な調子で軽口を飛ばした彼は、エンジンをかける。車を移動させると目的地にはすぐ到着した。
「ああ、ここならいいな」
道路に近い絶好の場所が空いていたようだ。早速停車した彼は後部座席から望遠レンズを取り出し、セッティングする音が聞こえてきた。シャッターを何度か切った後、彼は満足げに言う。
「ここならいける。警察の動きさえ分かれば、すぐに車を出して駆け付けたらドンピシャのタイミングで撮れるだろう」
「じゃあここでもうしばらく見張っていれば、絶好のスクープが撮れそうですね」
「ああ。そうだな」
彼の声が緊張しているのが分かった。須依が仕入れた情報では今日、遅くともあと数時間後に、というものだ。交代要員が一度バンに乗って署に戻ったのならば、突入はもう少し先かもしれない。
それともさらなる応援要員を呼び込むために一度署に帰っただけで、追加の応援が到着すればすぐにでも一斉検挙が開始されることもあり得る。
しかし確実にそうなるとは限らない。状況が変わって、明日以降に延期される場合もあるだろう。ただ須依が彼の協力を必要としている本当の理由は、ここにない。
これから起きようとしている逮捕劇の件は、既に須依の頭にはなかった。その為烏森に対して提案した。
「ここで警察の突入場面を撮影し、記事を書いてメールで送付した後になりますけど、別の場所で調べたいことがあるのですが、そっちも手伝って貰えますか?」
「何? これとはまた別件か? まだ隠し玉があったのかよ」
呆れた様子で話す彼に、笑顔で返し答えた。
「もちろんここの件を無事終えてからです。そうしたら一度、記者クラブに戻りますよね」
「分かった。本当はそっちが本命だったな。こっちはその手伝い賃ってことか」
長い付き合いからか、須依の思惑を見抜いたらしい。しかしその方が話は早くて助かる。余計な説明をする必要がなく、妙な駆け引きも最小限で済む相手が彼だった。
「それではお願いします」
改めてカメラをセットし直しファインダーを覗いていただろう彼は、しばらく続いた静寂の間を埋めるかのように尋ねて来た。
「それで、一体何を調べるつもりだ?」
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