第一章

 須依すえ南海みなみは警視庁内の記者クラブ席に座り、与えられたブースの壁に白杖を立てかけ待機していた。

 以前の職場でもある東朝とうちょう新聞社から事件取材の応援依頼を受けた為だが、肝心の情報は全く入ってくる気配がない。朝早くから来て耳を澄ませ動きを探っているが、正直なところ少し退屈になり始めていた。

 しかし周囲にいる記者達の多くは、他にネタがないかと探しているのかしきりに出入りして忙しない様子だ。かつての職場の先輩であり、今回の仕事を回してくれた烏森からすもり哲司てつじも今は席を外している。

 現時点で何も情報が入ってこないのは、警視庁が隠しているのではなく、事件自体に進展がないからだろう。こういう膠着状態に一度入ってしまうと解決するまで長引く可能性が高いため、気は滅入ってくる。担当している警察関係者達も同様のはずだ。

 一応フリー記者の肩書を持つ須依だが、半分契約社員のような扱いでもあり今回は取材の仕事を頂いている身である。よって記者クラブに出入りできることを利用し、勝手な行動をして他のネタ探しをしていれば、他の記者から目を付けられてしまう。それはなるべく避けたい。

 しかし現実は暇を持て余していた。そこで気分転換の為に思い切って警視庁内をうろつくことにしたのだ。といってどこでも入っていい訳ではない。下手な部署に足を踏み入れれば、厳しく注意を受ける。ひどい場合だと、出入り禁止処分を受けることもあった。そうなれば事件記者としては死活問題だ。

 ただでさえ警視庁の記者クラブには、大手新聞社に属する記者やテレビ局関係者でないと入れない。須依のようなフリー記者は、東朝から委託されて特別許可証を貰っているからこそここにいられるのだ。

 もし問題を起こして追い出されれば、仕事を任せてくれた東朝や烏森にも迷惑をかけてしまう。そうなれば今後仕事の依頼が無くなることもあり得る。そこで須依は今回の殺人事件を扱っている刑事部とは離れた、生活安全部へと足を運ぶことにした。あそこなら比較的親しくしてくれる人や知人がいるからだ。

 しかも今は別のビルに移ってしまったけれども、大学時代の同級生が生安部の課長の中にいた。何かあっても彼の威光が届く範囲ならば、なんとかフォローをしてくれるはずだ。そんな打算が働いての行動だった。

 それに今あちらでは特に大きな事件の動きがないと聞く。それに万が一注意を受けたとしても須依は視覚障害者のため、重要書類などを盗み見ることは出来ない。加えて友人を訪ねて来たが迷ったと言えば、多少のお目こぼしは受けられるだろう。少なくとも一発退場させられることはないはずだ。

 須依は杖を掴んで廊下に出てみた。そして覚えている道順をゆっくり歩き、他の人達にぶつからない様左端に寄り、目的地へと向かう。

 しばらく進んでいると、いつものことだが好奇な視線を何度も感じた。警視庁内でも見慣れない人達にとっては、記者用の入館証を首にぶら下げた女性の視覚障害者が珍しいからかもしれない。また中には“須依南海”という珍しい名に興味を持った人もいるだろう。  

 須依の名前はプロ野球の南海ホークスの大ファンだった父親が付けた。“みなみ”という響きは好きだったが、幼い頃から南海と書くことに抵抗があって、余り気に入ってはいない。

 しかもいい大人となってからは、キラキラネームのようで嫌いになったくらいだ。上も下も名前のようで、名字のようでもある。そのため人には、主に須依と呼んで貰うようにしていた。

 生まれは大阪に近い和歌山県の北部だが、転勤族だった父の影響で昔から転校を繰り返し、その度に名前でよくからかわれたものだ。しかも南海ホークスが身売りして球団名がダイエーに代わってからは、特にひどかったことを覚えている。

 ちなみに二つ上の兄の名は克也だ。言わずと知れた南海ホークスで活躍し、監督兼選手にもなったあの野村克也から取ったらしい。兄もまたその名前でよく苛められたという。特に男だったからか、野球で遊ぶ時は必ずキャッチャーをさせられていたそうだ。

 まだ視力を失う前で運動好きだった須依が、当時はそれほど盛んで無かったサッカーを始めたのも、父の野球好きに反抗していたからだったと思う。加えてからかってくる野球男子から遠ざかるには、格好のスポーツだった。何故なら周りは野球を余り知らない、サッカー好きの男子ばかりいたからである。

 転勤族だったこともあり、小さい頃から須依はなるべく苛められない様に気を使う子供だった。そのせいもあって人の機嫌の良さや悪さ、機微に鋭かったと思う。人に嫌われないように行動する癖がつき、ある時笑った顔が嘘くさいと言われてショックを受けたこともある。それから毎日のように鏡を見ては、笑顔を作る練習をした時期があったほどだ。

 転校という煩わしい事を繰り返し、学校という小さな檻での生活を守る手立てから始めたサッカーだったが、須依は次第にのめり込んだ。すると小学校高学年頃からめきめきと上達していったのである。

 そして中学の時に父の都合でサッカーの盛んな静岡へと転校した折、地元のクラブチームに所属することになった。そこから有望な選手として周囲の目に留まり始め、チームの推薦を受け日本代表のユースから声がかかったのだ。

 そこから京都への転校も経験したが、高校二年まではずっと日本代表のユースに参加していた。当時は後に国民栄誉賞を受け、バロンドール賞に輝いたさわ穂希ほまれ選手が同い年でいて、彼女は十五歳の時にユースを飛び越え日本のA代表にまで選抜され話題となった頃だ。

 そのことも影響したのか今とは状況は大きく異なるものの、一部のメディアは彼女を取り上げることが多くなった。そして女子サッカーが注目された際、当時ユースだった須依も澤に続く逸材の美少女選手として、ほんの少しだけ騒がれたことがあったのだ。

 今でもそうだが女子のスポーツ選手の場合、少しばかり見栄えが良ければ実力は二の次でも騒がれる傾向にある。近年はそれなりに実力が伴わないと騒がれ難くはなったものの、当時は今と比べれば女子サッカー人口もずっと少なかった。

 今ではマイナースポーツを盛り上げるためにも必要なことだったのだろうと理解もできるが、あの頃はそう思えなかったものだ。

 須依の身長は、当時の年齢の女子にしてはやや高い百六十五センチあった。それでもすらりとして平らな胸の上半身に比べ、下半身はどっしりして太ももやふくらはぎが太かったと思う。それでも周囲の選手達と比べれば目鼻立ちが整っている分、目立っていたのだろう。

 しかし当時はとても嫌だった。周りが騒ぐ分、男性だけでなく女性のファンも稀にいたがそれ以上に敵も増えた。特にサッカーとはあまり関わりが無い人達には、妬みや苛めの対象となったのだ。

 できるだけそんな目に遭いたくないと身を守るために始めたサッカーで受けた心の傷により、須依の心は折れた。そこで高校二年の終わりに、大学受験を口実としてサッカーからすっぱりと足を洗ったのだ。

 慰留してくれた友人達を振り切った手前、絶対落ちる訳にはいかないとその分必死に勉強をした。その結果念願の早稲田大学の文学部に入学することが出来たのだ。体育以外では本が好きだったことから、国語や英語が好きだったことも幸いしたらしい。

 特に小説は、サッカーをしていた頃からミステリーから時代小説、純愛小説からホラーまで幅広く読み漁っていたほどだ。

 そして大学卒業後、大手新聞社に入社した須依は政治部の記者となって懸命に働き、サッカー部時代のように男子にも負けない馬力と負けん気を武器に、数々のスクープをものにしてきた。

 社会人になってからも当時ファンだったという人物がいて驚いたことはあるものの、それはごく稀なことだった。おかげで収入も良く、元々父親が大きな会社に入っていて両親が購入した赤羽の家から通勤していたこともあり、生活には何不自由することなど無かった。

 男性ともそれなりに付き合っていたこともあり、比較的充実した生活を送っていた方だと思う。しかし人生には多くの試練が待っている。その中の一つが視力を失ったことだ。

 実のところ中学生の頃から視力は徐々に低下していた。最初はメガネやコンタクトなどで矯正していたが、時々突然視野が狭くなったりすることもあった。高校でサッカーを諦めて勉強に励むようになったのも、それが理由の一つでもあったのだ。

 それでもなんとか大学に合格して新聞社に入社することができ、しばらくの間は仕事にも支障はなかった。

 しかし当時付き合っていた彼とのデートの最中、急激な視力低下に襲われたのである。そして病院へと駆け込んだところ、目の病に罹っていて将来は失明する恐れがある、と言われたのだ。

 須依は大学から付き合っていたその彼と、結婚するつもりでいた。しかしその病状を聞いた彼は、怖気づいたらしい。その気持ちも分からないではなかった。将来視力を失い、障害者になる可能性が高いと思われる女性と暮らすことになるのだ。そんな勇気があるかと問われれば、多くの人は躊躇するだろう。

 結局彼は須依から離れていった。それからだ。頭では理解していても心が付いていかなくなった。恋愛が怖くなりその後一切異性と付き合うことも、そのような気になった事すらなくなったのである。

 ただその時は女性として、将来子供も産まないとまで決心することができなかった。その為経済的にまだ余裕があったこともあり、須依は卵子の冷凍保存をしたのだ。このことは両親も含めて誰も知らない須依だけの秘密である。

 失ったのは視力と彼だけではない。健常者だった頃のかつての友人達の多くは、須依が視覚障害者になったと知って段々と離れていった。おそらくどう接していいか分からなくなったか、気を遣うことに疲れたのかもしれない。親しかった人達でさえそうなのだ。障害者が身近にいない他人にとっては尚更である。

 だからといって偏見を持った目で見る人達ばかりではない。興味がないのか目に入らないのか、足早に通り過ぎていく人もいる。中には須依のことを見知っているらしい方の、温かい眼差しに気付くこともあった。

 そうした万人に対して通用するように、須依は普段から出来るだけ笑顔でいるようにしている。今もそう心がけながら歩いていた。

 すると前方から聞き覚えのある足音と声が聞こえた。須依は完全に失明していないけれど、視野が極端に狭くて文字は読めない。ただぼんやりとした光は見える為、人らしき姿が影となって認識できる程度だった。

 目当てにしていた内の一人がこちらに気付いたらしく、声を掛けられた。トイレにでも行こうとしていたのか、気分転換に飲み物でも買おうと部署から出てきたのかもしれない。

 こちらも挨拶に答えた。

「こんにちは。お久しぶりです」

 彼は生活安全部総務課に所属している本木もとき幸太郎こうたろうという。生活安全対策係第一係で、主に防犯団体連絡、精神障害者・浮浪者及び行路病者保護または非行少年など、罪を犯しそうな虞犯者ぐはんしゃと呼ぶ者や、特殊地域防犯対策を担当している部署の刑事だ。

 歳は確か須依より五つ下の三十五歳だったと思う。まだ独身らしく、これまで話をしてきた声のトーンから、須依を憎からず想ってくれているようだ。

 しかしもう四十になり相手の姿形が見えなくなった自分にとって、今更色恋など興味は無い。それに現実問題、刑事である彼が須依のような障害者を妻にしようとすれば、周囲は絶対に反対するはずだ。その為彼の気持ちに、わざと気づかない振りをしてきた。

「どうしたんです? こんなところで」

 近づきながら彼の問いに答える。

「板橋で起こった殺人事件の取材よ。東朝から応援依頼があって記者クラブで待機していたけど、動きがないからちょっと気晴らしにね」

 もうすぐ互いに手が届くだろう距離で立ち止まった彼は、事件の事を知っていたらしく納得したようだ。

「あれですか。詳しくは知りませんけど、厄介で長引きそうな案件だと聞きましたが」

「そうなの。といって特別大きな事件じゃないから、私のような下請け記者に仕事が回ってきたって訳。あっ、殺人事件なのに大きくないって言うのも失礼か。ごめんなさい」

 同じく立ち止まった須依の自虐的な物言いに、彼は苦笑しながら慰めるような口ぶりで言った。

「いいえ、ここだけの話なら構いません。それに仕事があるだけいいじゃないですか。フリーでは何かと大変ですよね。大きな事件なら自由に動ける分、スクープも取りやすくていいかもしれませんが、そんな案件はそうそう捕まえられないでしょうし」

「そうね。今は凶悪事件よりも政界や官僚がらみのドタバタの方が大きいから、そっち案件だと遣り甲斐もあるけど、私のような記者にそんな案件の応援依頼なんて来ないから」

「でも東朝に所属していた頃は、政治絡みで大きなスクープを連発していたんですよね?」

「だからよ。フリーになった余所者の私にネタを取られたくないから回ってこないの。だからって、目が見えていた時のように自力で取材するには限界があるから」

 手に持った白杖を持ち上げて答えると、彼は気まずく感じたのか小さく謝った。

「すみません。何も分かっていないのに、勝手な事を言いました」

 須依は慌てて首を横に振った。

「違う、違う。こちらこそごめんなさい。今抱えている案件が余りにも動かなさ過ぎて退屈していたから、ちょっと愚痴っぽくなっただけ。気にしないで。それより本木さんはこれからどこへ行く予定だったの? トイレだったらお邪魔ですよね」

「いえいえ、僕も少し気分転換しようと、そこの自販機でコーヒーでも買って飲もうとしていただけです」

「そうなの。じゃあ、私もご一緒していい?」

「もちろん。喜んで。ああ、ぼくが奢りますよ」

「ありがとう。ではお言葉に甘えて」

 彼は慣れた手つきで須依の左腕の肘を掴んだ。そして自分の右肘に手をかけるよう誘導し、ゆっくりと左斜め前を歩いてくれた。彼は仕事上でも障害者と接する機会があるせいか、無駄のないスムーズな動作が板についている。

 二人で同じ温かいブラックの缶コーヒーを選択した。自販機近くには小さな丸テーブルがある。立ち飲みできる休憩スペースだ。そこに移動し、再び話を続けた。

「今は忙しくないの? 生安だと色々な案件が日々起こっているでしょう」

「そうですね。大きな事件よりは誰それがいなくなったとか、徘徊しているだとかの相談が頻繁にあります」

「あなたの担当部署じゃないでしょうけど、今だったらストーカー案件も多いのかな?」

 彼はため息をつきながら頷いたようだ。

「そうですね。ストーカー対策係の担当ですが、なかなか減らないようです。凶悪事件は年々減少傾向にありますが、そっちの案件は増えていてしかも悪質化していますからね」

 そう話す彼の背後で、また聞き覚えのある足音がした。須依とは正対する形だが、姿はぼんやりとした影にしか見えない。それでも声を掛けられる前に誰だか分かったので、わざとにっこり笑って頭を下げた。

 本木がそうした行動を見たからだろう。後ろを振り返る気配がした。その瞬間だった。

「おい、こんな所で油を売りながら、マスコミに捜査情報を教えてなんかいないだろうな」

「さ、斎藤課長! い、いえ、決してそんな事はありません!」

 慌てる彼に代わり、須依が笑ってフォローした。

「そんな話なんかしてないわよ。私が暇をしていたから、ちょっと相手をして貰っていただけ。斎藤君もそんな意地悪を言わないの」

 大学時代の同級生でキャリア官僚の斉藤さいとうあきらは、今や警視庁生活安全部サイバー対策課の課長で階級は警視だ。対して本木はノンキャリアの巡査部長である。三階級も上の管理職など、彼にとって雲の上の存在に近いらしい。

 しかし恐縮して直立不動になっているだろう彼の前で、君付けで名を呼ばれたのが気に食わなかったのか、斎藤はこちらに矛先を向けた。

「何でお前がここにいる? 会社を辞めてフリーの記者になったんじゃないのか」

 その問いに対し、首にぶら下げた記者クラブへの入館許可書を見せた。そして先程本木に話した事と同じ説明をすると、ようやく納得したようだ。

「ああ、そういうことか。あっちは難航しているようだな。といってこの辺りをぶらぶらされても困るが」

 そこで居心地が悪くなったらしい本木が、残りのコーヒーを一気に飲み干したのだろう。

「課長、お先に失礼します」

 足早に去ろうとしたようだが、呼び止められた。

「おい、本木、まだここにいろ。大学の同級生とはいえ、記者と二人きりでいる所を他の奴らに見られると後々面倒だ」

「わ、分かりました!」

 直ぐに振り返って戻ったようだが、須依から見て先程いた位置より、少し右にずれた所に立った気配がした。左側に空いたスペースへと斎藤が入ったため、三人はテーブルを挟んで正三角形に並んだ状態になる。そこで呟きながら彼が動いた。

「俺も喉が渇いたから、ここに来たんだ」

 自販機へ向かったらしく、小銭を放り込む音がした。選んだのは須依達と同じ缶コーヒーらしい。見えはしないが押したボタンと、取り出し口に落ちてきた際の音で分かる。

 須依は視力を失った分、元々敏感だった聴覚は人一倍研ぎ澄まされたらしい。おかげで言葉のトーンや会話で相手の感情を察したり、話した内容を暗記したりできるようになった。さらに人の歩く音を区別できるなど、特殊な能力を得たのである。

 他にも嗅覚や触覚も鋭くなった。だが残りの五感の一つである味覚に関しては、普通の人と同程度か、もしくはより劣っているかもしれない。

 ただそれは健常者だった頃から、友人に味オンチ、または食べ物の好みが変わっているね、と言われたことがあったからだろう。視覚を失ったこととは関係がないようだ。

 テーブルに戻ってきた斎藤が、本木に話しかけた。

「どうだ、そっちは忙しいか」

「それなりに、ですね。例の業務妨害の件も片付きましたし、課長達が扱っていたストーカー事件も、なんとか送検したようですね」

 二人の話に割って入った。

「へぇ、どんな事件?」

「ストーカーの件は、有名女性芸能人に付きまとっていた件ですよ。知りません? 課長達のサイバー対策課が事前にマークしていた奴の書き込みを見つけて、ストーカー対策係が動いた件です」

「ああ、この間逮捕された、元運転手だったとかいう件ね」

「業務妨害の件は、」

 さらに話を続けようとした彼を斎藤が止めた。

「具体的な話はするな。終わった事件とは言え、記者相手にべらべら喋る必要はない」

「何よ、今捜査中の事件だったらまずいかもしれないけど、もう検察へ身柄を渡し終わった案件だったらいいじゃない」

「そんなものを今更聞いたって、大した記事にはならないだろ」

 彼はそう言いながらも、本木に目配せをしたようだ。それを察して彼は話し出した。

「今は公安のサイバー対策課が目を付けていたクルトワのサーバーを通してSNSで集められた少年達が、振り込み詐欺の受け子として動き出しています。そこで公安や生安部、刑事課が共同で捜査し、ようやく指示している拠点に辿りつけました。いまそこをマークしていますが、そろそろだと思います」

 クルトワとは近年経済発展が目覚ましい共和国で、日本との交流も盛んだ。しかし一党独裁の共産主義国の為に公安が注視している国でもある。他国に国家主導でサイバー攻撃を仕掛けているのではないかとも疑われていた。

「そうか。こちらの掴んだ情報で、一斉検挙ができればいいが」

 どうやら詐欺の拠点の動向を把握し、そこへの検挙が間もなく行われるらしい。彼らは雑談の振りをしながら、記事として価値のある情報を回してくれたようだ。そこで須依は、ポケットに忍ばせてあったICレコーダーの電源をこっそり入れてから質問した。

「その詐欺のアジトがある所轄はどこ?」

「そんなこと言えるか。そういえば、須依が今担当している案件はどこだ」

 話題を変えたことに本木が反応した。

「あっちはなかなか動きがないんでしたね」

「事件が動かないと長引いて面倒だよな。事件は他にも次々と起こるし、待ってくれない。そうだ、本木はそろそろ席に戻ってもいいぞ。俺もすぐ戻るから」

「分かりました。それでは失礼します」

 その後速足で去っていく彼の足音が聞こえた。そして手元の缶コーヒーを飲み干したらしい斎藤が、声をかけて来た。

「じゃあ、俺も戻るからな」

 彼らは何気ない今の会話で、詐欺の拠点が板橋署の管轄だとの情報を与えてくれたようだ。一斉検挙時における逮捕の瞬間を捉え、一早くその情報を大手テレビ局や新聞社に流せば、高く買ってくれるだろう。これは比較的大きなスクープになる。

 だがこれ以上の詳しい場所や時間などは、自分で調べなければならない。しかし彼らが今のタイミングで情報を流したということは、かなり切迫しているに違いない。余りにも早すぎるとマスコミが不用意に先走って動き、検挙に支障をきたす可能性があるからだ。

 ネタを提供してくれた彼らに感謝しながらも、急がなければならない。しかし須依はあえて彼を呼び止めた。

「もう少し良いじゃない。せっかくこっちへ来たんだからさ。久しぶりじゃない。もう一杯飲む? 私は飲むけど、あなたは何にする?」

 そう言って自販機に辿り着き、手探りで先ほどと同じ缶コーヒーのボタンを見つける。ここにある販売機には点字がついていない。しかし先程本木と彼が購入した時の音で、だいたいの場所は把握していた。ガタガタッと取り出し口に落ちてくる音も全く同じだったため、間違いない。

 ビルの中にある自販機だと、視覚障害者でも判るように音声が付いているものは少なかった。よって初めて使う自販機で飲み物を買う場合は、他の人に教えて貰うしかない。一人であれば何が出てくるか分からずに押し、どんなものが出てくるかを楽しむ位の心構えが必要だ。

 無事欲しい飲み物を手に取った須依は、もう一度彼に尋ねた。

「同じものでいい?」

 だが帰ってきた答えはそっけない。

「俺はいい。公務員がマスコミから奢られたりすると、何を言われるか分からん。それに二杯も要らないよ」

「別にここで飲まなくても、持って帰って後で飲めばいいじゃない。温かいのが多少冷めちゃうけど、室内は暖房が付いているだろうから、それほど冷たくはならないでしょう」

「いや、いい。で、なんだ。俺を呼び止めた理由は」

 相変わらず堅物で真面目な人だと思いながら、少し意地悪して鎌をかけた。

「もしかして缶コーヒー一杯でも奢られると、まずいような案件を抱えているの? 普段は“サイバービル”にいるはずのあなたが、警視庁の本部にいるなんて珍しいじゃない?」

 そこで彼の気配が一瞬変わり、緊張が走ったことを感じ取る。“サイバービル”とは二〇一八年四月に住所などを公表しない、新しく設立された施設の通称名だ。

 そこには彼の所属する課の他に、公安部サイバー攻撃対策センターなど、警視庁の各部署の他、警察庁の出先機関である東京都警察情報通信部を加えた計六部門が入っている。創設目的は急増・多様化しているサイバー犯罪に対応すべく、各部署の連携を強化する為であり、捜査員が約五百人いるらしい。

 近年になって、様々な犯罪にネットが関わっているケースは多くなった。その為警視庁だけでなく、警察庁の中でもサイバー対策に力を入れたチームが、それぞれの部署で立ち上がった。

 しかしそれでは情報の共有化はもちろん、人材の質や技術の差なども各々で異なり、効率が悪いことが問題視されていたのだ。

 そこで二〇二〇年の東京オリンピックを見据え、より横の連携を深める必要性から二〇一六年にサイバーセキュリティ対策本部を設立された。それがさらに進化し、部署を一か所へまとめて入居させた建物が“サイバービル”と呼ばれている。

 しかしあくまで彼は冷静だった。

「いいや、そんなものはない。それに俺も所属は生活安全部だ。会議やら報告やらと、本庁に呼ばれる事も多い。中間管理職の悲しい定めだ。今日もそれで来ていただけだ」

 そんなことは知っている。しかし文京区にあると噂されているビルから、千代田区霞が関の本庁へわざわざ足を運んでいるからこそ、何か抱えている公算が高いと睨んだのだ。

 そこでもう少し突いてみた。

「そう。さっき本木さんとも話していたけど、最近は凶悪事件よりも政界や官僚がらみのドタバタがひどいでしょ。そっち案件で斎藤君の課が動くようなことはないの?」

 直接の関わりはないが、警察という同じ官僚組織に属している彼にとって、その話題は不快だったらしい。そんな感情がありありと伝わってくるほど不機嫌な声で喋り出した。

「確かにあの件なら展開によって、大きな事件になるかもしれないな。しかしそう簡単に片が付く案件でもないだろ。去年の国会から野党が騒いでいるが、一向に決定打が打てずにいるじゃないか。俺が言うのもおかしいが、早く白黒付けて欲しいよ、それに動いているのは検察の特捜部だ。俺達警視庁の、しかもサイバー課が出る幕なんてない」

 彼の言う通り、昨年に国有地の売却問題で特定の便宜が図られたのではという疑惑が起こってから、与党大物議員の関与も取沙汰されて国会は紛糾している。その後国有地を取得した企業の補助金不正受給に関して、検察が動いた所までは良かった。

 だが議員の関与について決定的な証拠が出ていないため、汚職事件として立件される目処は立っていない。しかも政府与党が一体となり、野党が疑惑のキーマンになりそうな人物達の証人喚問要求をしても、ことごとく跳ね除けていた。

 頑なに拒むその姿勢に、国民は大物議員達が関与しているのだろうと疑いの目を向け続けている。与党議員が全員関与しているとは思えない為、これだけ国民の批判を浴び続けていれば、内部で自浄作用が働いても良さそうなものだがそれもない。その為疑惑は疑惑のまま放置されていた。

「ああいった事件で大きなスクープが取れればいいけどね。政権自体が揺るぎかねない案件だけに、ジャーナリストとしては時間を割きたいところだけど、私のようなしがないフリーの記者には、壁が厚すぎてなかなか手強いから。それに信念だけでは食べていけないし、どんな小ネタでも拾って記事を書きながら、大ネタを狙うしかないのよね」

「それで俺の所に来たのか? 生憎だがお前が食いつきそうな事件なんかないぞ」

 話が長引くと思ったのか、彼はそう言いながら席を離れようとした。しかしそれを阻むように話を続ける。

「そうじゃないって。今抱えている案件が動かないから、ちょっと気分転換がてら歩いていただけだから。おかげでちょっとしたネタをいただけたのはラッキーだったけど」

「なんのことだ? 俺は何も話してないぞ」

 惚ける彼に、少し角度を変えて質問した。

「あなたは本木さんに忙しいかって聞いていたけど、それ以上にそっちは忙しくないの? 凶悪犯罪は減少していても、ネット犯罪は年々増えるばかりでしょ。手口も巧妙になってきているから厄介だし。海外からのサイバー攻撃も止むことは無いから、情報流出も増えているようじゃない」

 彼はまさしくそういった犯罪を取り締まる部署の課長だ。国内の大手企業はもちろん、官公庁への不正アクセスも後を絶たない。表に出ているだけでもいくつかあるが、出せない事件やまだ発覚していない案件、対処中のものを含めると相当数に上るだろう。   「おいおい、そっち関係のネタを探っているなら、出入り禁止にするぞ」

 彼はそう忠告したが、声のトーンにより本気では無さそうだったため、さらに尋ねた。

「そうじゃなくて。ちょっとした大学の同級生との雑談じゃない。それに海外からのハッキングによる情報流出みたいに大規模なものもそうだけど、さっき言っていた国内での振り込み詐欺やらネット詐欺の方は、数が多くて大変じゃないの?」

「そっちも多いが、もっと細かくて膨大な数があるのは個人の案件だ。おかしな書き込みをする輩やストーカーまがいの呟きなんかまで含めたら、今の人員での監視も限界がある。年々職員も増員して貰っているが、それ以上に問い合わせや被害届の数は増える一方だ」

 そう言いながら、彼は自販機の方に向かって移動したようだ。奢られては困るからと、自分で飲み物を買って席に戻ろうとしているらしい。早く話を終わらせたいようだ。

 そこで彼のプライドをくすぐった。

「課長ともなると、それら全てに目を光らせている訳だから大変でしょう」

 実際に彼の下にはハイテク犯罪対策、ハイテク犯罪情報、高度情報技術犯罪の三つをそれぞれ担当する次長がいる。彼らが報告してくる案件を取りまとめているのが彼だ。  

 さらにその下には細く班が分かれていて、それぞれにいる担当班長が対応している。だから全ての案件に目を通すことはない。それでもそう労っておくのが礼儀だ。

 キャリア官僚ともなると、それなりにプライドが高い。同じ四十歳ではあるが、須依と違って彼には多くの部下がいる。しかも規律の厳しい警視庁という組織の中にいるのだ。自分のように組織から離脱し、一人気ままに動いている人種とは大きく異なる。

「まあな。それでも俺達がやっている仕事は、一課の刑事達が抱えるようなものとは違う。基本的に何か起こらないと動けないのが警察だ。しかしネット犯罪の場合は、大きな被害になる手前で食い止めることができる。もちろんこちらの対処が間に合わず、不幸な目に遭ってしまう被害者もいることは確かだ。それでも何かが起こる前兆を捕らえ、まだ軽犯罪で済んでいる段階で、それ以上エスカレートしないよう防止するのが俺達の仕事だし、それが出来た時の喜びは大きいよ。大変だが遣り甲斐はある」

 大学の第二外国語で同じドイツ語のクラスを受講していたことから、彼とは親しく話すようになった。その頃から真面目で正義感の強い人であり、国家一種試験を受けて警視庁に入ると、早くから進路を決めていた事を覚えている。それを知った時も須依はたいして驚かず、それどころか彼らしいと感心したものだ。

 彼の家庭は複雑で、幼い頃父親は自殺して母親は失踪したままだという。その上、その後の彼を育ててくれた祖父母が大学一年生の時、無謀な運転をする観光客のレンタカーと衝突して亡くなっている。

 その時彼の受けた大きな衝撃と悲しみの中に、はっきりとした怒りを持っていたことを感じていた。事故原因が完全に相手方の過失が一〇〇%だったため、法を犯した相手を容赦なく責めたそうだ。

 といっても自動車事故の場合は交渉の窓口が、レンタカー会社が加入している保険会社だったり弁護士だったりする。その為直接加害者と話をする機会はほとんどない。

 ただ彼の祖父母が亡くなった一方で、相手は軽傷で済んだ。しかも数年の実刑を受けただけだったらしい。

 彼が警察官を目指したことについて、事故の件がどれだけ影響したかは不明だ。しかし無関係ではないだろうと思う。その件について深く尋ねられるほど彼と親しい関係ではなかったため、詳しく話をしたことはない。

 ただ犯罪者を許さないという、強い意志を持っている事だけは確かだ。そんな彼と雑談をするために、わざわざ呼び止めた訳ではない。持ち上げながらも、ずばり切り込んだ。

「さすが、斎藤君。相変わらず責任感が強いね。そんなあなたが、今一番引っかかっている案件は何なの?」

 ぐっと言葉に詰まったようだが、平然と答えた。

「もちろん海外からのハッキングには、いつも神経を尖らせている。しかし事件としては、ストーカー行為や名誉棄損に当たる書き込みなども多い。どちらも大事で重要だ。案件に大小や順番など付けられない」

「そう。じゃあ最近だとどんな案件があった?」

 彼が動揺したことに気づかない振りをしてさらに尋ねてみると、彼の声が尖った。

「だから、お前に言えるような事件なんかない」

 それ以上話す気はないと言う意思表示のようだ。先程飲み終えた缶を、自販機横にあるゴミ箱に捨てた音がした。彼は踵を返して自分の部署へ戻ろうと、テーブルを離れたようだ。その足音を追って、背中に呼びかける。

「忙しい所悪かったわね。じゃあ、また」

「ああ、またな」

 彼は振り返らずに返事をしたらしい。こもった声が須依から離れていく。ぼんやりとしか見えない、その後ろ姿を眺めながら須依は呟いた。

「何か、あるわね」

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