拾弐
龍之介は最上段のロープに手をかけ、二・三度屈伸をした後、身体を中央に戻した。
静かな目である。
カルロス上田は身体を揺らしながら、対角線上にあるこちらをじっと見据えている。
ゴングが鳴った。
二人は中央に進み出る。
レフェリーの、
『ファイッツ!』
という声を合図に、二人は組み手争いを始めた。
オープンフィンガーグローブを嵌めているにも関わらず、打撃戦でけん制することを良しとせず、組んで闘うことを選択した。
カルロスはやはり得意の寝技に盛んに引き込もうとするが、龍之介は立ち技を選択する。
この点は両者の違いがはっきり出ているようだ。
2分を経過したころ・・・・龍之介がカルロスの右襟と右袖を同時に取り換えた。
”行くな”
俺は思った。
次の瞬間、彼は大きく身体を沈め、大きくカルロスの身体を釣り手で持ち上げ、引手を引っ張り、懐深く潜り込み、彼の右足の脛を思い切って払いあげた。
山嵐だ。
カルロスの身体が龍之介の頭越しに大きく跳ね上がり、見事な放物線を描いて目の前のマットに落ちる。
俺は『柔術』というものについては良く知らないが、彼は受け身の技術をあまり心得ていなかったらしく、投げられた時、したたかに頭を打ったようだ。
それでも何とか立ち上がろうとしたが、龍之介はカルロスに覆いかぶさり、袈裟固めに移行する。
何とか抜け出そうと努力するカルロス。
しかし龍之介の右腕が彼の首を持ち上げ、左腕を己の腋に捉えているので、身動きが取れない。
幾ら小柄な龍之介だからといって、ポイントを押さえられていては逃げようがないだろう。
普通の柔道ならここで”抑え込み”の声がかかり、三十秒で一本勝ちになるところだが、完全決着ルールだ。
レフェリーが何度もタップするかどうかをカルロスに確認するが、彼は顔を真っ赤にしつつも、依然として耐えている。
と、龍之介がカルロスの左腕を股の間に挟み込んだ。
このままの姿勢で肘関節を極めようというのである。
カルロスの肘が伸び、関節が極まった。
ここでまたレフェリーが意思を確認するが、カルロスは依然として首を横に振り、タップをしない。
場内が大きく歓声に包まれる。
深く、より深く・・・・彼の腕が締め上げられてゆく。
龍之介はまったく表情を変えず、彼の腕を挟み続けている。
二十秒は経過したろう。
何かが軋みながら折れるような、嫌な音がコーナーにいた俺の耳にもはっきり届いた。
恐らく、いや、間違いなく、カルロスの肘関節が折れたのである。
すると、カルロスのコーナーにいたセコンドが、何事かをレフェリーに向けて叫んだ。
レフェリーはカルロスの表情を確認する。
彼は再び首を振ったが、その顔は明らかに苦痛の為に歪んでいた。
レフェリーが大きく左右に腕を振り、ゴングが打ち鳴らされた。
再び大きな歓声が、ホールを包み、龍之介の名を、会場にいた一杯の観客が叫んでいる。
俺がリングに駆け上がるのと同時に、カルロス側のセコンドも駆け寄って来た。
二人はやっとのことで引き離さねばならぬほど、お互いが絡み合っていた。
カルロスは肘を抑え、唇を噛みしめ、痛みに耐えていた。
”間違いないな”俺は確信した。
眼鏡をかけたリングドクターのチェックが行われたが、やはり見事に彼の肘は折れていたという。
レフェリーが下にいるプロモーターの磯貝氏と、スポンサーの杉野氏の目線を気にしつつも、龍之介の右腕を挙げようとするが、彼はそれより先に、セコンドに支えられてようやく起き上がろうとしたカルロスに歩み寄り、かがみ込んで右腕を差し出した。
カルロスは顔を歪めながらも、その手を握り、握手に応える。
セコンドに肩を抱きかかえられ、リングを降りようとする間際、
”アリガトウ、君ト闘エタ事ヲ誇リ二思ウ”
片言の日本語でそう言った。
観客の声の中に拍手の音が混じる。
振り返ると鉄之介先生が腕を組んだまま満足そうに頷いている姿と、奈津美が涙を
試合が終わり、表彰式になった。
苦い顔の二人が、いつもこうした格闘技のイベントで良くやるような、特大の小切手型のパネルと、そしてトロフィーと賞状を彼に渡そうとする。
パネルにはしっかりと7桁の0が並び、その前に5の数字が入っているのが見える。
龍之介はいったんその小切手型のパネルを受取ったが、黙ったまま、それを杉野氏に渡し、賞状もトロフィーも受け取らなかった。
彼は小声で杉野氏に何かささやくように告げると、観客席に向かって、四度礼をし、勝利者インタビューも辞退して、そのままリングを降りて行った。
観客は彼の行為に暫く拍手をするのを止めたが、やがてまた大きく拍手が沸き起こった。
”どこまでも姿三四郎だな”
俺は思った。
『何のつもりだ!』
俺達が控室に引き上げてくると、またぞろあの杉野社長と、それからプロモーターの磯貝氏が血相を変えて怒鳴り込んできた。
『優勝をしたんだから、賞金を素直に受け取ればいいものを、拒否しやがって!』
『さっき言った通りです。』
龍之介は脱いだ柔道着を手早く畳み、帯で縛りながら静かに答えた。
『僕は柔道で金もうけをするつもりはありません。それに元々自分の為に出たんじゃありませんからね。貴方に奈津美さんのお家の借金を返すためだったんです』
『ふざけるな。あれだけで足りると・・・・』
『いいえ、十分な筈です。残りの五千万円は父が都合して貴方にお渡しした筈です。ここにちゃんと貴方の会社から父名義で返してもらった借用証書があります。』
きっとした声でそう言ったのは、奈津美だった。
『おい、ガキ!カッコつけるのもいいかげんにしろよ。またしても俺のリングの看板を台無しにしやがって』
プロモーターの磯貝が、目玉をぐりつかせてこちらを睨む。
『おっと・・・・もう、龍之介の仕事は終わりだ。後は俺の出番だな。』
腕を組み、俺は前に進み出る。
『なあ、杉野さん、あんたがやってきた悪事の証拠の数々は、全部調べさせて貰ったぜ。ウラも取ってある。ここに来る前に、
そうなりゃ検察だって、喜んであんたの会社に家宅捜索に入るだろうさ。』
次に俺は磯貝プロモーターに顔を向けた。
『あんただって同罪みたいなもんだぜ。叩けば埃が出るとはこのことだな。ええ?』
二人とも青い顔をして俯いてしまった。
これほど気持ちのいい日は滅多にない。
ええ?
ハッカーに金をやって調べさせたんだろう?
馬鹿を言うなよ。
俺はハッキングしたなんて一言もいってやしないぜ?
『さあ、みんな帰ろうぜ。試合は終わったんだ』
そのまま渋谷まで戻り、鍬形家で大宴会となった。
当り前だが酒を呑んだのは先生と親父さん、そして俺だけだ。
日本酒はさほどいける口ではないが、今日は特別だ。何しろここ一か月ちょっと酒絶ちをしていたんだからな。
(龍之介のお袋さんは、根っからの下戸だという。だが、料理は抜群に上手い)
奈津美は成人だから構わないんだが、どういう訳だか彼女も遠慮をして呑まなかった。
『おめでとうございます・・・・そして有難うございます・・・・』
奈津美は小さな声で言って、ジュースのコップを手渡す。
『あ、有難うございます・・・・』
ぶっきらぼうな口調でそれを受取り、二人で並んで顔を赤くしている。
目の前の皿には幾つかのご馳走と、それから彼女手作りの稲荷ずしが・・・・。
『まるでお内裏様とお雛様みたいね』
春代さんがそういってからかうと、一同が笑いに包まれ、二人はますます顔を赤くした。
たまにはこういう景色も悪くない。
まったくもって姿三四郎の世界だな。
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