龍之介はこの前と同じように俺を居間に通してくれた。

 しかし、この間と少しばかり空気が違っていたのは、母親がいたことだ。

 二~三日前に退院したばかりで、まだ体調は万全でないというのに、白い割烹着(エプロンでないのが如何にもこの家らしい)に紺色の着物を着ていた。

 名前を春代といい、歳は40代後半で色の白い、なかなかの美人だった。

 彼女は『お茶だけで申し訳ございません』とすまなそうに頭を下げ、茶を出してから、今度は救急箱を持ってきて、擦り傷だらけの龍之介の手当てを始めた。

『母さん、もういいですから、寝室あっちで休んでいてください。』

 龍之介は素っ気ない口調ながら、母親に対する気遣いを忘れない口調でそう言った。

『ではごゆっくり』と、何度も頭を下げて母親が出ていくと、俺は茶を一杯啜り、それから奈津美の家の事情について、かいつまんで説明をした。

『そうですか・・・・』彼を腕を組み、目をつぶって考え込んだ。

『こういう時、僕が何とかして上げられればいいんですが、いかんせん高校生ですからね。』

 ポーズではない、本当に悩んでいる。そんな表情が見て取れる。

 その時、俺は『いいかい』と断って、懐からシガレットケースを取り出そうとしたが、一緒にねじ込んでいた、あの社長室から持ってきた『Sファイト』のチラシが畳の上に落ちた。

『これは?』龍之介が俺に訊ねる。

 俺は件の社長が、その大会のスポンサーであること、優勝者には賞金が出ることなどを彼に伝えた。

 龍之介はしばらくそのチラシを見ていたが、

『賞金は幾ら位出るんでしょう?』真顔で訊いてきた。

『さあ、詳しくは知らない。ただ、かなりの高額であることは間違いないようだな』

 俺の答えに、彼はまた腕を組み、考え込む。

『その大会、高校生でも出られるでしょうか?』

『チラシを見てみろ。”十七歳以上で、格闘技経験のあるものなら、プロ・アマを問わない。但し未成年者は保護者の許可を得る事”とあるな』

 俺は彼が何を考えているか、大体の事は理解出来た。

『僕、その大会に・・・・』

『出場したいと思います。だろ?』

『いけませんか?』

『いけないとは言わんさ。ただ、君のご両親、特に父上と鉄之介先生が何と言われるかだ』

 彼は丸い目を大きく見開き、俺を見つめ、

『分かっています。それでもし最悪の事態になったとしても、どうしても出場したいんです』

 彼の覚悟のほどは、はっきりと理解出来た。半端な気持ちではないだろう。

(そういや、姿三四郎にもこんな場面があったな)

 どこまでもクラシックに出来ている奴だ。だが、俺はこういう人間をどういうものか嫌いにはなれん。

 いざという時に”馬鹿”になれるくらいが丁度いいのだ。


 その晩のことだ。

 鍬形家の居間には、鉄之介先生、それから父の虎之介氏、更には母親の春代さん、それから末席には俺と龍之介君が並んで座っていた。

え?

”あんたの仕事には関係ないだろ。何とも付き合いのいいことだな。探偵さん”

 いいじゃないか。

 こういう場面なんて、滅多に見られるもんじゃない。一見の価値はあると思うぜ。

 床の間を背に座った鉄之介先生は懐に手を入れたまま、目を閉じて考え込んでいる。

 虎之介氏と春代さん夫婦も、何も言わない。

 10分ほど時が流れただろうか?


『いいじゃろう。まあ、欲得や金もうけの為ではないようだし、それに龍之介は別に部活に入っておるわけでもないからな。どこにも迷惑はかからん』

 鉄之介先生が口を開いた。

『構わんな。虎之介』

『異存はありません。むしろ面白いですよ』

 父である虎之介氏は、先生の目を見て大きく頷いた。

『母さん、構わんね?』虎之介氏が妻に声を掛ける。

 彼女は少しばかり困ったような顔を見せたが、すぐににっこりと笑って、

『お義父とう様や貴方がお決めになったことですからね。どうせ私が反対したってお聞きにならないでしょう?もっとも、男の子って、どこまでも馬鹿な方が私は好きですけどね』と答えた。

 それから龍之介君の方に向き直り、

『龍之介、聞いてのとおりです。思い切りおやりなさい。その代わり、絶対に勝つのですよ』

『はい!有難うございます!』

 それから鉄之介先生が俺の方を見て、こう言った。

『このような事態になった・・・・巻き込むようになって誠に申し訳ないが、乾君、当分の間、龍之介の面倒を見てやってくれんか?君は探偵なんだから、勿論手間賃は払うが』

『いいでしょう。お引き受けします』

 俺は答えた。ここまで来たら乗りかかった船という奴だ。

 最後まで見届けないと、俺だって寝覚めが悪い。


 翌日の放課後、俺は龍之介に付き添って、件の格闘技イベント、

『Sファイト』の事務局に出向き、出場したい旨を申し込んだ。

 どうせあの杉野とかいう社長がスポンサーにいるんだ。

 鍬形龍之介の名前を聞いただけで、難癖をつけてくると予想していたが、向こうは何ということもなく、いともあっさりと受理してくれたので、却ってこっちが拍子抜けしたくらいである。

 

『大丈夫でしょうか?』

 珍しく龍之介が弱気な声を出す。

『悩んでいる暇なんかないぜ。試合は一か月後だ。兎に角もう決まったんだ。後は練習あるのみだ』


 俺は俺で、一応予定に入っていた依頼を全部キャンセルした。

 顧客からは嫌味を言われたり、怒鳴られたりしたが、知ったことじゃない。

(もっとも、まるきり探偵業の方を開店休業にしていたわけじゃない。その理由は後で話そう)

 俺にとってはそんなものよりこっちの時間の方が貴重なんだ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 龍之介が学校から帰ってくると、俺は校門の前で待ち構え、二人でつるんで彼の家まで帰り、その後は道場に籠り切りで、みっちりトレーニング・・・・もとい、稽古漬けになった。

Sファイトは、いわゆるフリーファイト、つまりは総合格闘技であり、武器を使わないこと、相手が寝ている状態への打撃技を加えないこと。眼球、股間、耳と鼻の穴への攻撃を行わないことが反則になっているくらいで、後は殆ど自由。

1ラウンド五分で3ラウンドまで行い、それでも決着がつかない場合は、十分1ラウンドの完全決着ルールだそうだ。


 俺は、

『打撃もあるんだから、総合の練習もしておいたらどうだ』と彼に何度も勧めたが、

『試合までは一か月しかありません。付け焼刃で打撃技を覚えたって意味がないでしょう。それより僕は得意の種目を磨いた方がましです』と、そこだけは頑固なくらい譲らなかった。


 俺達は結局何度も話し合ったが、結局俺の方が折れる事になった。

 さて、そうなればもう柔道しかない。


 準備運動、柔軟、打ち込み、捨て稽古、寝技と立ち技の乱取り。

 単純なメニューだが、それらを毎日のように、徹底的に反復した。

 時には鉄之介先生、そして虎之介氏の二人も加わって、四人で稽古することもあった。

 

 しかし、この男の柔道に対する情熱は並のモノではない。

 今の柔道が決して偽物だなんて思わないが、あれはもう完全に『スポーツ』である。

 龍之介のやろうとしているのは、それとはまったく別のものだ。

『武道としての柔道』

『相手を仕留めるための柔道』、

 それ以外の何者でもない。

 もう一つは、

 これは”自分の為に闘うのではない。何か別の、そう、もっと大切な何かを守るために闘う”

 そういう意識が彼の中にあったのだ。

 俺はそんな風に思えた。

 知りうる限りの技を彼に叩き込む。

 いや、彼の熱意に、自然と教えざるを得ない。

 そういう雰囲気が道場の中には満ち満ちていた。

 

 何しろ、稽古が終わって道場から出てきた時なんか、くたくたになって、殆ど這いずらんばかりだったんだからな。

”流した汗はウソはつかん”

 俺はその言葉を、改めて噛みしめた。

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