10.
生まれる前よりも、ずっとずっと長い永い時間。私は眠った。
そうして少しずつ、彼のことを忘れていった。
◆
これは夢だ。
つかの間の物語を、私は断片的に思い出す。
「ねえ。君はなんて名前なの」
「知らない」
「は?」
「覚えていないんだ」
名前らしいものがあったことは、覚えている。
でも何千何万と生きているうちに、それが何なのか忘れてしまった。
「そんなあ……」
「あほ」はあからさまに肩を落とす。
自分だって、私に「あほ」としか呼ばれていないのに、おかしい。
「なんでも好きなように呼んでくれ」
そう言うと、彼は私の顔を間近でじっと見つめた。
「姫」
は?
「って呼んでいい?」
なんの冗談かと、一蹴しようと思ったが、奴があまりに真剣な表情なので、何も言えなくなってしまった。
以来、「あほ」は私を姫と呼ぶ。
いつの日だか、照れ笑いを浮かべながら教えてくれた。
人の姿をしたとき、目を離せなくなるほど美しかったのだと。
◆
染みついたものを溶かすように、深く深く眠った。
それでも合間合間に、あなたのことを思い出した。
目を開けても暗闇だと知っていて、だから醒めたくはなかった。
夢うつつの中で、恐ろしいことを考えまいと必死だった。
それは、血の底に沈む夢。
私は沈む。
忘れ去られる。
長く、永い時間が過ぎる。
「ほら寂しいだろ、姫も。一緒にいようよ」
「夜で暗いんだから、闇の中でも一緒だよ」
いつかどこかのその記憶。
夢か現かもわからないほど、程遠い。
◆
深い深い、眠り。
その合間に夢を見た。
分からないけど、最後の夢だと、そう思った。
もう何度目かの、生まれ返りで、
私は彼の子どもになった。
彼は私の手を引き、家族のいる家に帰るところだった。
森の中。幼い私は疲れ果て、もう歩けないと地べたに座りこんでぐずる。
彼はしょうがないなあと、私を抱き上げて背中に背負い上げる。
広い背中。大切なすべてを守れる背中。
その体温が心地よくて、私はうつらうつらする。
まだ小さくて、この気持ちをなんて言えばいいのか分からない。
言葉はわかるのに、もどかしくてたまらない。
だから体を伸ばして、彼の首筋のあたりに、ちゅうと口づける。
「 」
◆
浅い眠りから、夢から醒めた。
頭は冴えて、すぐに全てが思い出された。
ああ。
ずっと眠っていたかった。
闇を見上げる。
何も無い。当たり前だ。闇なのだから。
あんなに何ともないと思っていたのに。
今、光が、こんなにも遠く果てしない。
その時、ぴしりと音がした。
聞いたことのある音だった。
心が割れる音だったのだと、今はじめて気がついた。
そして知る。生まれるような強い熱。燃えるような赤い痛みの正体を。
いや違う。初めから分かっていたんだ。本当は。
あまりにどうしようもない矛盾で、仕舞っておくしかなかったんだ。
(でも、もう、良いだろう?)
鼻先がつんとして、その痛みが涙に変わり、頬を伝った。
幾筋も。幾筋も。止まることはなかった。
拭うこともしなかった。
獣のように咆哮した。
長い間抑えつづけていたそれは、とどまるところを知らなかった。
もう、声に出したって良いだろう?
だって今さら、困らせることもない。
全て闇に溶けていくから。
「好きだ」
その言葉は、泡になって消えていった。
昏い水底で呟いたように。
何度何度言っても。
もう、
もう、
もう、
届かない。
「……おねがいだから」
言うのを赦して。せめて聞こえないようにするから。
「わ た し を わ す れ な い で」
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