10.

生まれる前よりも、ずっとずっと長い永い時間。私は眠った。

そうして少しずつ、彼のことを忘れていった。





これは夢だ。

つかの間の物語を、私は断片的に思い出す。


「ねえ。君はなんて名前なの」

「知らない」

「は?」

「覚えていないんだ」


名前らしいものがあったことは、覚えている。

でも何千何万と生きているうちに、それが何なのか忘れてしまった。


「そんなあ……」


「あほ」はあからさまに肩を落とす。

自分だって、私に「あほ」としか呼ばれていないのに、おかしい。


「なんでも好きなように呼んでくれ」

そう言うと、彼は私の顔を間近でじっと見つめた。


「姫」


は?


「って呼んでいい?」


なんの冗談かと、一蹴しようと思ったが、奴があまりに真剣な表情なので、何も言えなくなってしまった。

以来、「あほ」は私を姫と呼ぶ。

いつの日だか、照れ笑いを浮かべながら教えてくれた。

人の姿をしたとき、目を離せなくなるほど美しかったのだと。





染みついたものを溶かすように、深く深く眠った。

それでも合間合間に、あなたのことを思い出した。


目を開けても暗闇だと知っていて、だから醒めたくはなかった。

夢うつつの中で、恐ろしいことを考えまいと必死だった。


それは、血の底に沈む夢。

私は沈む。

忘れ去られる。

長く、永い時間が過ぎる。


「ほら寂しいだろ、姫も。一緒にいようよ」

「夜で暗いんだから、闇の中でも一緒だよ」


いつかどこかのその記憶。

夢か現かもわからないほど、程遠い。





深い深い、眠り。

その合間に夢を見た。

分からないけど、最後の夢だと、そう思った。


もう何度目かの、生まれ返りで、

私は彼の子どもになった。


彼は私の手を引き、家族のいる家に帰るところだった。


森の中。幼い私は疲れ果て、もう歩けないと地べたに座りこんでぐずる。

彼はしょうがないなあと、私を抱き上げて背中に背負い上げる。


広い背中。大切なすべてを守れる背中。

その体温が心地よくて、私はうつらうつらする。


まだ小さくて、この気持ちをなんて言えばいいのか分からない。

言葉はわかるのに、もどかしくてたまらない。


だから体を伸ばして、彼の首筋のあたりに、ちゅうと口づける。


「   」





浅い眠りから、夢から醒めた。

頭は冴えて、すぐに全てが思い出された。


ああ。


ずっと眠っていたかった。


闇を見上げる。

何も無い。当たり前だ。闇なのだから。


あんなに何ともないと思っていたのに。

今、光が、こんなにも遠く果てしない。



その時、ぴしりと音がした。

聞いたことのある音だった。

心が割れる音だったのだと、今はじめて気がついた。



そして知る。生まれるような強い熱。燃えるような赤い痛みの正体を。

いや違う。初めから分かっていたんだ。本当は。

あまりにどうしようもない矛盾で、仕舞っておくしかなかったんだ。


(でも、もう、良いだろう?)


鼻先がつんとして、その痛みが涙に変わり、頬を伝った。

幾筋も。幾筋も。止まることはなかった。

拭うこともしなかった。


獣のように咆哮した。

長い間抑えつづけていたそれは、とどまるところを知らなかった。


もう、声に出したって良いだろう?

だって今さら、困らせることもない。


全て闇に溶けていくから。


「好きだ」


その言葉は、泡になって消えていった。

昏い水底で呟いたように。

何度何度言っても。

もう、

もう、

もう、

届かない。


「……おねがいだから」


言うのを赦して。せめて聞こえないようにするから。



「わ た し を わ す れ な い で」

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