第32話 星空の下に咲いた一輪の心臓

そこで終わった映像から目を離し、──星巻優菜はパソコンをそっと閉じてイヤホンを外す。

次いで、先ほどからボロボロと机の上に零れ落ちていた涙を拭いた。


「……あぁ、涙が」


まだ涙は止まっておらず、じんわりと滲んでくる。

やっぱり、見るんじゃなかったかな。見たら絶対泣くって、わかってたのに。

春斗が逝ってから、もう何回も見たのに、絶対に泣くんだよね。


今までの映像は、全て春斗がかけていた眼鏡のカメラに収められてた動画。彼がプラスチック症候群という病気を患ってから、亡くなるまでの一年間を記録した、思い出そのもの。

そしてこのパソコンは、記録した映像を電波で送り、直接保存していたもの──つまり、春斗のパソコンだ。

だから常に春斗の視点から物事を見ていたし、映像だから、彼の心境などはわからない。ただ、この時はこんな風に思っていたんだろうなという私の推測でしかない。

実際にその時彼が思っていたこと、感じていたことは、もう誰にもわからないのだ。


外を見ると、既に陽は沈みかけていた。

茜色に染まった夕陽の光が窓から差し込み、白いカーテンを同色に染め上げている。こんな毎日見る夕陽でも、映像を見た後では春斗と見た時のことを思い出してしまう。今日は空に浮かぶ星を見れば、あの時──春斗が砕け散った日のことを思い出してしまうと思う。


時折、私はこうして春斗が託してくれた映像を振り返り、彼と過ごした日々を思い返す。その度に、こうしておけばよかった、ああしておけばよかった。と、後悔することが多い。今もそう。もっと沢山話を聞いてあげればよかった。大丈夫なはずないのに平気そうに振る舞う彼を気遣ってあげればよかった。

そんなことが脳裏を霞める。後悔したところで、あの時に戻れるわけではないのだけど。


ノートパソコンをケースにしまい、本棚の一段目にそっと安置する。

流石にもう段ボールにしまうにはいかないから。春斗が遺してくれたものを、もうそんな扱いをするわけにはいかない。今まで放置していたことでさえ、悪かったと思っているくらいだからね。

大事に、大事に扱わないと。


「って、そうだ。出すのはパソコンだけじゃなかった」


私は思い出し、慌てて部屋の隅に置いてあった段ボールに駆け寄る。

春斗が遺してくれたものは、実はパソコンだけじゃない。

コートスタンドに掛けられている男物のカーディガンは、ロープウェイに行ったときにさり気なく春斗が私にくれたもの。

けど、あれは春斗が生きている時に私に直接くれたものだ。


春斗が逝った後、私の手に渡った……託してくれたものは、実はもう一つある。


「相変わらず、綺麗だね」


段ボールからを取り出した私は胸に抱いて語り掛けるようにポツリと呟き、当時のこと──春斗が逝った直後のことを、思い出した。



春斗が座っていた車椅子の上には、もう彼の姿はない。

残っているのは、先ほどまで身に纏っていた病院服と、かけていた眼鏡。そして、バラバラに砕け散った春斗の身体だったプラスチックだけ。その透明な破片も、サラサラと砂のように細かな粒子となって、風に乗って消えてしまう。


先ほどまで目の前にいた少年は、もういない。

お節介で、私をすぐにからかって、何よりも星が大好きだった、いい笑顔で笑う少年。彼はもう、この世界にはいない。会うことだって、二度と叶わない。


最後に添えられていた右手は、私が掴む瞬間に粒子となってしまった。

最後に、こちらから手を添えてあげることもできなかった。


「春、斗……」


名前を呼んでも、返事はない。

その虚無の静寂を認識した瞬間、私はその場に頽れる。拭ってもらったばかりの瞳から、再び涙が溢れて零れ、私の手の甲に落ちた。


私は、彼の迷惑になっていなかっただろうか。

私は、もっと彼にしてあげられることがあったんじゃないか。

私は……もっと彼に寄り添ってあげられたんじゃないか。


疑問は次から次へと湧いてきて、一つ一つに答えを導くことはできない。

後悔がないと言えば嘘になる。

それはきっと、春斗も同じはず。


だから、今の私がすることは後悔ではない。そんなこと、後から幾らでもできる。

やるべきことは、一つ。

私に生きることを選ばせてくれた彼に感謝し、その冥福を祈ることだ。


涙を拭き、彼の身体が消えていった方角を見つめる。

既に流星の数はかなり減っており、先ほどまでの雨と表現する程の数ではなくなっていた。

春斗は、一番いいタイミングを見ることができたみたいだ。


「彼らしい、最期だったね」


振り向くと、いつの間にか春斗の主治医である佐伯先生の姿があった。

……すっかりと忘れていたけど、彼は春斗の死を見届けると言っていた気がする。

私は涙を拭い、佐伯先生に頷き返した。


「はい。最後に、私が言ったことをそのまま返されました」

「何て言われたの?」

「”人を頼ることは、悪いことじゃないんだから、ちゃんと頼れ”って」

「……そうか」


私の言葉を聞いた佐伯先生は目元を押さえた。


「歳を取ると、涙脆くなってしまってね……。うん、そうか。君に看取ってもらったなら、彼も満足だろう」

「だと、いいですね」

「きっとそうだよ。だって、これを君に託すくらいだからね」

「?」


佐伯先生は手にしていたリュックサックを私に渡した。

これは、春斗が使っていたものだ。学校に持って来ていたものと同じなので、よく憶えている。

でも、どうしてこれを──。


「春斗君から、自分がいなくなった後に君に渡すように頼まれていたんだ」

「一体何が──ぁ」


ジッパーを開けてリュックサックの中を見た瞬間に、理解した。

同時に、春斗が着ていた病院服の上に落ちた黒縁眼鏡を見る。


「そっか。そういえば、私にあげるって、言ってたね」


中に入っていたのは、一つの小さなノートパソコンだった。

これは以前の夏祭りの時──眼鏡に小さなカメラが仕組まれていることを教えてくれた時に、言っていたものだ。

これは優菜が貰ってくれる?と、言われていたのをすっかり忘れていた。


「なんだ、事前に言われてたのかい?」

「半年以上前に、ですけど。……うん、わかりました。ありがとうございます」

「それと、もう一つある」

「え?」


まだ何かあるの?

事前に渡すって言われていたものは、このパソコンくらいなのだけど。

あぁ、もしかして手紙か何かかな?

さっき言えなかったことを、書き記してあるとか……。


と思っていると、佐伯先生は徐に春斗の病気について話し始めた。


「彼が患った病気の名前が、プラスチック症候群であるということは、知っているね?」

「え?は、はい。全身がプラスチックになる奇病で、発症例が極端に少ないって」

「そう。だけど、それはあくまで日本での呼び方だ。最初に発症が確認された英国では、こんな風に呼ばれている」


佐伯先生は自らの心臓部を指さして、その病名を告げた。


「フラワー・ハート。花の心臓と、そのままの意味で捉えていいよ」

「花の、心臓?どうして、そんな名前に──」

「車椅子の病院服を、少し捲ってみなさい」


疑問を持ちながらも、言われた通りに春斗が着ていた病院服に手をかけ──気が付いた。

思わず「あ」と声を上げてしまう。

そして同時に、理解した。花の心臓なんていう、ちょっとロマンチックな名前が付けられている理由を。


「それが、春斗君が君に託したもう一つの贈り物だよ」



──病院服の中に隠れていた物は、半透明な薔薇だった。



人の拳ほどの大きさという小さなものだけれど、その造りはとても繊細で、まるで本物の薔薇のようにも思えてしまう。

恐る恐るそれを手に取ると、少し弾力のある薄いプラスチックの感触が手に伝わる。


「先生、これ……」


確信を胸に抱きながらも、私は確認を取る。

と、佐伯先生は頷いてくれた。私の推測が正しいと、肯定するように。


「プラスチック症候群を患った患者は、身体がバラバラに砕け散った後も、薔薇を模った心臓だけがいつまでも残り続ける。それが、花の心臓フラワー・ハートと呼ばれる所以。

まるで、大事な人に別れの花を残していくかのように、一輪の心臓の花を咲かせていくんだ。どうしてそんな形状になるのか、どうしてそれだけは砕けずに残り続けるのかは、全くわかっていない」

「晴斗は、これを私に?」

「君が受け取りを拒否したら、病院に寄贈してくれることになっていたけど……どうやら、それはなさそうだね」


当然だ。

だってこれは、春斗が私に残してくれたものなんだから。

最後に彼が……星空の下で咲かせてくれた、一輪の花なんだから。


「……春斗ッ」


その薔薇を見つめていると、再び涙が溢れてきた。

春斗に精一杯の笑顔を見せたのに、みっともないなぁ、私。

だけど、今は、今だけは許してほしい。あなたを失った悲しみは、思っていたよりもずっと、大きなものだったから。


佐伯先生が背中を摩ってくれる中、私は、星空の下に春斗が咲かせた透明な心臓の薔薇を優しく抱きしめながら泣き続けた。

何度も「ありがとう」と、薔薇に向かって呟きながら。

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