第9話 卯月の夜桜

そろそろ帰ろうか。

そう言って部室を後にした僕らは、部室に施錠を施し屋上を後にした。

部室に来るようになってから思っていることだけれど、やはり夜の校舎というのは不気味だ。階段を下りていると、何故か学校の七不思議を思い出してしまうくらいの奇妙な雰囲気がある。

真っ暗で先が見えない廊下。微風に揺れ、カタカタと音を鳴らす古びた窓枠。

職員室に残っている先生のものと思われる微かに聞こえる話し声が、少々怖く聞こえる。


僕と優菜は二人並んで階段を下り、一つだけ施錠されていない昇降口から外へと出た。時刻は七時三十分を回っていたけれど、まだグラウンドでは部活動に勤しんでいる生徒たちがいた。ユニフォームを土で汚し、汗を流してボールに向かって走っている姿は、どこか眩しく感じる。


「青春だね。あれは、今の内にしか体験できないことだ」

「私は汚れるから、あんまりやりたくないかな」

「それはあるかも。でも、あぁやって汚れても頑張れる姿は、綺麗だと思うんだ」

「……なんか辛気臭いよ」

「そうかもしれない。でも、眩しいのは眩しいんだ」


残りの時間を考えれば、それも当然かもしれない。

命の期限を考えることなく熱中できる姿は、どんなに汚れていても美しく見える。僕には、死を意識してしまったからこそ変わった心境があるのだ。


正門を抜けて歩道を歩いていくと、すぐに学校近くを流れる河川と、それに沿って続く遊歩道がある。通学路とは外れるけれど、寄り道感覚で僕は毎日そこを歩いて帰る。

川沿いに植えられた桜並木はほとんどが緑に変わってしまっているが、まだ散っていない桜の花が咲いている部分もある。新葉の七分咲き、というところか。

その木々が纏う葉や花が幾つも設置された外套の光を浴びている光景は、知る人ぞ知る桜のスポットとなっている由縁。春休みには多くの恋人たちがこの夜桜を見に散歩に来る。

誰もいない見頃を終えた桜を見ることが目的でもあるけれど、これはついでに過ぎない。本当の目的は──。


「ごめんね。いつも送ってもらって」


優菜が申し訳なさそうに言う。

そう。僕がこの遊歩道から帰っているのは、彼女を家の近くまで送り届けるため。

この辺りは治安が良くて不審者の目撃情報もないけれど、女の子を夜に一人で歩かせるのは何かと不安だから。


「正直僕が着いていても安心できないと思うけど、一人よりはマシだろうからね」

「申し訳ないよ」

「いいよ。別に。帰っても、誰もいないし、だったら少しでも人と一緒に居た方が、気分的に楽なんだ」

「反応しずらいんだけど……」


重いネタはあまり使うのはよくない。

このように、なんて言葉を返せばいいのかわからなくなる人がほとんどだから。しかも僕の場合は、家族が家を空けているのではなく既に故人となっている。余計に返答に困るのだ。

ごめんごめんと平謝りをし、川に架けられた小さな橋の真ん中で立ち止まった。


新月故に、月は見えない。

けれど、川の水面に反射した外套の光はまるで光のようで、それに照らされた葉桜も一緒になって反射し水面で揺らめいている。


「葉桜を見るのは、残り数回だ」

「え……ぁ」


優菜は思い当たり、気が付いた。


「そ、っか。春斗の死期って、確か……」

「三月二十九日。その頃は多分、満開の桜が咲いている頃だと思う」


つまり、この先数週間が、葉桜を見ることができる最後の機会ということになるのだ。そう考えると、見頃を終えたと形容するのも何だか変に思えて来る。寧ろ、この光景は今が見頃なのだから。

周囲に他人がいないことを確認した僕は、そっと左手の手袋を外し、半透明の手を露出させる。その表面には、外套の光りや葉桜が霞んで反射していた。


「身体に景色が反射するって、変な感じだ。自分が人形にでもなってしまったんじゃないかって、そう錯覚する時がある」


半透明の手をぐっと握る。

体温の消えたその手は、触れれば冷たく右手の体温を奪っていく。


「呑気なことを言うようだけど、死期が近づいたらこの身体はペットボトルのように透明になるらしいんだ。もし、その時に満点の星空の下にいたとしたら、きっと僕の身体は夜空の写しのようになるんだろうね。小さなプラネタリウムみたいに」

「……本当に、全身に及ぶの?」


ちくんと胸が痛むのを感じながら、優菜は僕の左手を見つめた。


「前に見せてもらった時から一週間以上経過するけど、前とそんなに変わらないように見える。もしかしたら、発症したのは左手の部分だけで、そこから先には進行しないっていうことはないの?」

「ないと思うよ。僕の主治医の先生も言っていたし」

「でも、発症例は少ないんでしょう?その可能性がないとも言いきれないじゃない」


その可能性はなくはない。

発症例が少ないということは、まだわかっていないことが多いということ。たまたま前例が全身のプラスチック化が進んだだけであって、僕自身は左手だけしか症状が現れない、ということは十分に考えられるだろう。

だけど、それはないと、僕自身は確信した口調で言った。


「今までの前例者は、全員が全身にプラスチック化が進んで砕け散った。例外はないよ。だからきっと、僕もいずれそうなってしまう」

「でも、可能性は──」

「優菜」


名前を呼んで、僕は彼女の言葉を遮った。


「運命からは逃れられない。僕はほぼ確実に、一年後にはこの世にはいない。変に期待を持つよりも、最初から全てを受け入れていた方がその時の気持ち的に楽なんだ。だから、あまり期待を持たせるのは、やめてほしいな」

「──ッ」


下唇を噛んだ優菜は「ごめんなさい」と謝り、スカートの裾をぎゅっと握った。

悪気はないのだ。ただ、こうして自分に手を差し伸べた人が死ぬというのが、その事実が、受け入れ難かっただけ。僕だって、湊や花蓮が僕のような状況になってしまったらそう思うし、変な可能性に期待を寄せてしまうだろう。

でも、そうはならない。運命とは、神様が決めたことなのだから。


「死ぬってことは、神様に連れて行かれるってことだろ?神様は自分の手元に置いておきたいって思った人は、早くに呼ぶと思う。神様に気に入られたんだって思えば、それはそれで悪くないと思うよ?」

「……本当に、ポジティブだね」

「それはないかな。精一杯の虚勢だよ。僕はその時まで、ずっとそれを張り続ける。じゃないと、毎日が怖くて仕方なくなっちゃうからね」


この群像劇は、いずれ終わりを迎える。

エンドロールの後に僕はいない。残るのは、透明な破片となった身体と──。


「……悲しい顔をしないでよ」


僕の視界に映る優菜は、何故か悲痛そうだった。

彼女の背後で揺れ、葉の掠れる音を響かせる木々も、流れる川のせせらぎも、彼女の感情をより一層に引き立てる。

出会ってからまだ一ヵ月も経過していないけれど、無表情か悲しい顔をしていることがほとんどだ。


「困ったな」


やがて、ガリガリと右手で頭を引っ掻いた僕は、肩を竦めた。


「帰ろう。今日は少し、気分が重くなっちゃった」

「誰のせいだろうね」

「はいはい。僕のせいですごめんなさい」


手袋を嵌めなおし、遊歩道を抜けて住宅街へ。

すぐ前のT字路を曲がれば、すぐに優菜の家がある。この曲がり角で分かれるのがいつも通り。


「じゃあ、また明日」

「うん。じゃあね」


手を振って優菜の後ろ姿を見届けた僕は、すぐに自宅の方面に向かって踵を返す。


「僕はあの子に、笑顔を取り戻させることができるのかな」


僕にしては珍しい、弱音のように自信なさげな言葉。

その時不意に視界に入った黒い野良猫が、僕の台詞に同調するように一鳴きしたように、思えた。

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