第8話 人間は弱い

二時間程が経過し、透明な天井から覗く空はすっかり暗くなっていた。

一番星だけが輝いていた空ではなく、様々な星が煌めく暗い空。

月末の新月は他の星々の灯りを妨げることなく眠り、その代わりに、普段輝けない星たちが空を踊っているように見える。


部室内に置かれた二つのソファにそれぞれ寝転がり、ガラスの天井を眺めていた僕と優菜は、終始会話を交えながら星空観賞に勤しんでいた。

天文学部のメイン活動は、ただ寝転がって星を眺めるだけ。

身体を動かすこともないので実に楽で、それ故に体育会系からは毛嫌いされる活動内容だ。


「春の夜空には、一等星が三つあるんだ。俗に言う春の大三角を創り上げている星で、うしかい座のアークトゥルスとしし座のデネボラ、そして乙女座のスピカ。特に、北斗七星の七つ目の星である破軍星とアークトゥルス、スピカを繋ぐ線は、春の大曲線と言われているんだ」

「へぇ……全然頭に入ってこなかった」


僕が細かく、そして熱弁するように春の星について説明するも、優菜には全く響いていない様子。どうもこの分野に限らず、どんなことも興味関心があるものにしか素晴らしさというものがわからないらしい。

現に超が付くほど星が好きな僕と優菜では、同じ星空観賞でも全く感じているものが違うだろう。


「優菜はこうして星を眺めて、どんなことを思う?」

「……綺麗だなぁって。あと、ちょっと眠くなるね」

「うん、天文学部的にはあるまじき台詞だ」


僕が素早くつっこみをいれる。

実は先週から、優菜はこの天文学部に入部することになったのだ。

放課後一人にすると何をしでかすかわからないし、僕と一緒にいる方が精神的に安定すると思ったから。精神が不安定な状態、しかも放課後という緊張の糸が切れた時には、人は想像以上のことをやる可能性がある。だから、誰かといる方が気が紛れることもある。僕なら、多少は慣れているし、敵意がないってわかっているからなおさらだ。


ほとんど部活を放置している顧問の元に一緒に行って確認したところ、二つ返事で了承してもらえた。それどころか、それくらい自分で判断して決めろと言わんばかりの面倒くさそうな雰囲気だったのも印象的。悪く言えば、感じが悪かった。


「まぁ、天体観測なんてそんなものだよ。眠れないときは星を見るのがいいとかよく言うし、実際優菜の感想は間違ってない」

「でも、春斗は星を眺めて色んなことを思うわけだよね?」

「そうだね。それぞれの星の明るさに象っている星座の神話。そんなことが、自然と頭に浮かんだ来る。もちろん、何も考えずにぼーっと眺めていることもあるけど」

「覚えるの、大変じゃなかった?」

「そうでもないよ。夢中になれることって、なぜか人間覚えるの早いし」

「へぇ……夢中になれるものを見つけたことがないから、よくわかんない」


趣味というのは生活を豊かにするというけれど、実際それは趣味を持っている人にしか理解できないことだ。他人から見れば、その趣味は時間の無駄とさえ言いきってしまう人もいるだろう。


「これから、見つけていけばいいんだよ。優菜は僕と違って、まだまだ長い未来があるんだから」

「……さっきの話だけど」


優菜はそう言い、ごろりと身体をこちらへ向けた。

ソファが軋む音に反応して、僕も優菜の方向へと首だけを向けた。


「さっき?」

「人間はみんな弱いからって」

「あぁ、あれ。そのままの意味だよ」


てっきり優菜を励ますための言葉だと思っていたようだけど、そういうわけではない。

ただ、僕は本当のことを言っただけだ。


「悲しいことがあっても悲しまないなんてのは、人間じゃない。悲しい時には悲しむし、心が折れることだってある。僕だって人間。人間は弱いもの。だから僕は弱い。そんな中でも問題に正面から向き合っている優菜を、僕は強いと表現したんだ」

「……じゃあ、春斗も心が折れた経験があるの?」

「あるよ。家族の葬式の後は、後追いする寸前だった」

「ぇ」


思わずそんな掠れた声を上げてしまうほど、優菜は驚きに起き上がった。

僕のことを強い人間だと、壮絶な人生を送っているのに楽しそうに、悩み何て内容に生きている彼が、そんなにも追い詰められるような思いを経験しているなんて。

僕はジッと見つめる優菜に、その時のことを言う。


「当時はまだ子供でさ。家に帰っても家族の姿がなくて、毎日心を痛めていたんだ。それで、一時期はマンションの屋上とかに上ってさ。丁度、今の優菜と同じような精神状態だった」


つまり、心に亀裂が入った状態。

自分を保っていた主柱が、ボロボロに劣化してしまっているよう。後少し、本当にちょっとの衝撃があれば、自分の中にある大切な何かが崩壊してしまうかのような、そんな精神状態ということだ。

一人で屋上に上って、下を見ても恐怖なんて感じない。

ここから落ちれば、この辛さから解放される。それが真っ先に思い浮かんで、正常な判断ができない。

でも、そんな時、誰かに声をかけてもらえると、はっと我に返る。


「僕の時は、湊と花蓮が屋上に来てくれてさ。ベンチに座っている僕を、下まで連れ出してくれた。公園で話を聞いてくれて、辛いなら我慢するなって言ってくれて、立ち直ることができた。そのおかげで僕はその時期を乗り越えられたんだ。

ほら、こう考えると、今の優菜と似たような状況じゃないかな?」

「それは、そうかもしれないけど……」

「君が自分のことを弱い人間だというのなら、僕だって弱い人間だ。そのことを悲観する必要はない」


よっこらせ、と起き上がり、すでにカップの中に無かった紅茶を注ぎなおす。


「春は精神的に不安定になる時期だ。新しい環境に置かれる人が多くて、気分の起伏が激しくなる。やる気に満ち溢れる人もいれば、憂鬱な気分が抜けない人もいる」

「つまり、私も春だから、こんな心情になっているって言いたいの?」

「季節だから、というよりは、新しい環境だから、って言ったほうがいいね。新しいクラスの環境に、過去のトラウマが合わさって極度に緊張した状態になっているんだよ。まぁ、ゆっくり気持ちの整理をつければいい。心の温度が冷え切っているのは、事実なんだから」

「心の温度か……」


幸福を感じているときは温度は高く、逆に不幸を感じているときは低温になっている。心は複雑そうに見えて単純明快。

温度によって、人生の感じ方も変わってくる。


「お湯と同じだ。温かいものは常温の水よりも冷めやすい。逆に、冷たい水は常温の水よりも温まるのに時間がかかる。冷たい心が温まるのにも、時間がいるんだよ」

「わかりやすいような、わかりにくいような」

「わからなくてもいい。一年後、君の心は温かくなっているのか、冷たいままなのか。わからないけれど、最期の時、答えを聞かせてほしい。僕の一年間の成果なんだからね」


困った顔で苦笑する優菜にティーカップを手渡すと、彼女は受け取りソーサーの上に置いた。

結局、心の温め方は本人次第。

でも、この時点で、既に出会った時のような絶望に凍り付いたような瞳はしていない。少しは、解けてきているような瞳に変わった気がする。

でも、まだ足りない。

今の優菜は、少しだけ前よりマシになっただけに過ぎない。何かしらのきっかけで、すぐにまた元通りに戻ってしまうだろう。

口元だけの笑みではなく、心からの笑みが表情に現れるのは、まだ時間がかかりそうだ。


「天体の話に戻すけど、春は大きな天体ショーが少ない季節だから、つまらないかもね。でも、それ以降は流星群とかが結構あるし、何より来年の春先には、とても大きなイベントがある。きっと優菜も楽しめると思うから、楽しみにしてなよ」

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