二章 出会いの春
第7話 受け止めきれる器
始業式から十日が経過し、日に日に増す気温に暖かさを感じていた。
校庭湧きに植えられた桜の花びらは舞い落ち、それらに成り代わって枝から顔を見せる新緑の葉。
その様子を背後から照らす夕陽が茜色に染め上げ、とても美しい風流な景色を作りだしていた。
時刻は午後五時。
少しずつ長くなる日の入り時刻の通りに沈む太陽を横目で流し見ながら、僕は部室の傍に置かれたベンチに座って小説を読んでいた。
少し前から読んでいる”砕けた流れ星”というこの小説の残りは二十頁程。三十分もあれば読み終えることができる量ではあるが、僕はエピローグに入る前で本を閉じた。と、同時に、隣から声が聞こえた。
「読み切らないの?」
「うわ!」
思わず驚きの声を上げ、声のした方向へと顔を向ける。
そこには、女の子向けのリュックサックを背負った少女──星巻優菜が僕の手元を覗き込むように立っていた。
小首を傾げた彼女は僕を見下ろし、きょとんとした表情で見つめて来る。
「……早いね」
「教室にいても、友達もいないし。家に帰っても、親は共働きだから」
「そういう寂しいことを笑顔で言わない」
悲観的なことをいい笑顔を浮かべて言う優菜に、僕は立ち上がってリュックサックを担ぎながら言う。
一人ぼっちはいいことではない。いや、それは人の考え方によるのかもしれないが、複数人、友達や家族と一緒にいる方がいい。
家族がいない僕にとっては、友人のありがたみというのが身に染みてわかる。
「で、その本読み切らないの?あと少しで終わりそうだけど」
「ん?あぁ……読まないよ」
栞を挟んだ本を手にし、部室の扉を開けて中に入る。
担いだばかりのリュックサックをすぐにソファの上に置き、序にその上に小説も置いた。
「なんていうか……読み切るのって好きじゃないんだ。図鑑とか、論文とかならまだしも、こういう物語に関しては特にね」
「本って、読み切るものなんじゃ?」
確かにその通り。
最後の一ページまで作者が頭を捻り、考え抜いて書かれているものなのだから、最期まで読まないと著者に失礼だ。
それに、物語のラストを読まないと読了したことにはならず、ラストシーンが一番感動するなんて話もあるわけで。優菜からすれば、最後まで読み切らずに本を閉じる行為が意味不明なのだろう。
僕はポットの中にミネラルウォーターを入れ、スイッチを押してから答える。
「なんていうか、本を読み切った後って寂しさが残るんだよね。これで終わりか―っていう、楽しさが消えちゃった感じ。それが苦手で、最後まで読み切らずに終わっている本が何冊も家に溜まってたりするんだ」
楽しみに見ていたアニメやドラマが最終回を迎えてしまった時と同じ感覚。終わった直後の寂しさというか、物悲しさというか、思わずはぁっと溜息を吐いてしまうあの感覚が、僕は苦手なのだ。
その悲しさを体感したくないから、本を最後まで読まずに閉じてしまう。勿体ないことだとわかってはいるのだけど、ついついやってしまうのだ。
優菜は僕の言い訳を聞いて、くすっと笑った。
「本を読む意味、半減じゃないかな?」
「そうかもしれない。だけど、本を読む楽しさは一緒だと思ってる」
「ラストがない分それも減衰しているとは思うけど……そういう本、何冊くらいあるの?」
「十五冊」
「溜めすぎだと思う。読んであげなよ」
「薄っすらとしか内容を覚えてないから、また読み直さないとなぁ……」
話が一区切りついたところで、僕は優菜に言った。
「僕と話すのも、大分慣れてきたね」
「え?」
「会ってから一日、二日は若干緊張していたように思えたけど、今はそれも解れて、自然体で話しているように思える」
「あぁ、まぁ」
当然といえば当然、と優菜は机に置かれていたデジタル時計の日付を見る。
「もう一週間以上経ったし、慣れるよ」
「それはなにより。これから長い付き合いになるんだから、仲良くしないといけないから助かるよ」
「声をかけたのは貴方でしょ」
そこで、カチッという音と共にお湯が沸いたことが伝えられる。
部室の隅に備えつけられた流し台の食器置き場からティーカップを二つと紅茶のティーバッグを取り出し、二人分のアールグレイティーを淹れる。
御茶菓子にはクッキーを添え、本が数冊積まれてごちゃごちゃしている机の上に置いた。
「ところで、春斗」
「ん?」
座りなおしたタイミングで名前を呼ばれて僕は優菜に顔を向けると、彼女は真顔で僕と視線を合わせて
「具体的に、何をするの?」
「なにって、何が?」
「自分の言ったこと、覚えてないの?」
優菜は不機嫌そうに口を窄め、淹れたばかりの紅茶のティーカップに口をつけた。
「僕が死ぬまでは生きてくれ。君が生きたいと思えるように努力する、って言ってたじゃない。あれ、嘘……じゃないよね?」
「あぁ、それか」
そういえばそんなことを言っていた。と露骨に顔に出しながら言うと、優菜は更にムスッとへそを曲げる。本人としては、この先の未来を託したようなものなのだからもっと真剣になってほしいと思っているのだ。が、僕は正反対に気楽そのもの。
僕らの温度差はとても激しいものだけど、そんなものを気にせず僕は優菜に言った。
「こういうのもあれかもしれないけれど、そう思えるかどうかは君次第なんだよ」
「私次第?」
「そう。生きたいと思えるかどうかは、君にかかってる。僕はあくまで、生きる楽しさだとか、まだ死ぬには早いんじゃないか、ってことを問いかけるしかできないからね」
未来を決めるのは自分自身だ。
例え僕が何をやったとしても、未来を決めるための材料を提供するだけに過ぎない。故に、生きたいと思えるようになるかは優菜の考えにかかっている。
そう言うと、優菜はソファの上で膝を抱えた。
「私次第……か」
悩める姿は、思春期故か、何処か輝かしく見える。
現状、優菜が抱えているのは心の病気とも言えるフラッシュバック現象。
心的なトラウマが何かの拍子に思い出され、本人を苦しませる。彼女の引き金は、恐らく学校とクラスそのもの。
閉鎖的で既に構築されたクラスの人間関係、周りに気を使い、様子を窺いながら、本当の自分を中々出せずに隠しながら生活している状況が、とても居心地悪く、また窮屈に感じているのだ。
少しでも妙なことを起こせば、また以前の学校の時と同じようにいじめの対象になってしまう可能性もある。辛い過去と重ねることで、また繰り返すのではないかと常に怯えている状態。
その心苦しさは、想像に難くない。
「この一年、君の心がどう変化して、どんな未来を選択するのかはわからない。だけど、僕は最後の一年を君と共に過ごそう。そして、君がきっといい選択をできるように、努力するよ」
「……本当に、それでいいの?」
優菜は視線を僕に──僕の手袋が嵌められた左手に移した。
「晴斗の残りの時間を、私なんかに使っていいの?もっと他に、やりたいことがあるんじゃないの?ご家族も、自分のことに時間を使えって言うんじゃ……」
「家族はいない」
優菜は「え?」と顔を上げた。
僕はなんでもないように微笑みを浮かべて、できる限り悲しい雰囲気にしないよう話す。
「小さいころに皆、先に行っちゃってさ。それから僕はお婆ちゃんと暮らしていたんだけど、お婆ちゃんも数年前にね。それからはずっと一人で暮らしているんだよ。だから、家族に気遣う必要はない。それに──」
抱えていた膝を下した優菜が聞き入る中、僕は自身の考えを彼女に語る。
「僕の母さんは”人を助けられる優しい人になりなさい”って言うのが口癖の人でさ。小さい頃からそう言い聞かせられてきたんだ。もういないけれど、その教えは守りたい。ここで君を見捨ててしまったら、母さんの教えを無視してしまうことになるんだよ。きっと母さんなら、死ぬ前に何か人のためになることをしてきなさい、って言う気がする」
「……強いんだね」
優菜は少し笑って言った。
「どうしてそんな風に強く生きられるの?家族を失くして、一人になって、自分の命の期限が明白になって……。私には、どうしてそんな明るく生きていられるのかが理解できない」
ぽつぽつと口にした言葉は止まることを知らず、次から次へと溢れ出る。
気分が暗くなれば少なくなる口数が、何故かこの時ばかりは多くなった。
僕はそんな優菜の言葉を黙って、物音を立てないように動かず聞く。ジッと、彼女の言葉を妨害しないように、静かに。
「聞けば聞くほど、私の境遇何てちっぽけなものに思えて来るよ。こんなことで死にたくなってる私が、小さくて弱くて、惨めに見える」
「……」
「ねぇ、教えて?どうしたら貴方みたいに強い心を持てるの?どうしたら悲観せず、前だけを見られるの?」
優菜にはどうしても理解できない、僕の生き方。
悲観せずに、前を向き、自分の運命を呪うのではなく受け入れる。これは並大抵の人ではできることではないし、強靭な心を持っていなければ無理だ。
優菜の真剣な表情が、僕を見据える。
僕は少し考えるように透明な天井を見上げた。
そこから見える色は、茜色と夜の暗闇が混じった混色。暗闇の中には一番星が顔を見せ、正反対の位置で輝く太陽が遥か彼方に沈んでいくために、茜色が消えていく。新月に近づいたため、今宵は下弦の月が見られることだろう。
やがて、視線を天井に固定したまま、僕はぽつりと言った。
「別に、君は弱いわけじゃない」
「弱いよ。だって、広く見ればよくあるいじめくらいで、こんなに心をすり減らしてしまって──」
「それが普通なんだ。そうやって自分の心に素直にいられることは、正しいことなんだ。僕はただ、前だけを向いて他のものに目を向けないだけだよ。それは強いことなんじゃなくて、弱いことなんだ」
強い心とは、辛いことがあっても持ちこたえ、踏み留まり、耐えることができる心を言う。僕は耐えるのではなく、その辛いことから目を背けて前を見ているだけ。何か別のものに縋って、気を紛らわせているだけ。心はいつまで経っても、弱いまま。
僕はそう考えていて、間違っても自分を強い人間だなんて言わない。思わない。
「他のものに縋って目を逸らしている僕よりも、心が折れそうでも真剣に向き合って考えている優菜の方が強いと思うよ」
「……私は自分のこと、全然強いなんて思えないけど」
「僕も同じだってことだよ」
他者から見れば強いかもしれないけれど、自分自身ではそんな風に思えない。
自分が見ている自分と他人が見ている自分は、全く違うものなんだ。
「辛いことを受け止めきれる器の大きさを知っているのは、この学校の何パーセントなのか。それを知るには、器いっぱいの辛いことを一度に経験しなくてはならないから、ほとんどが知らないだろうね。今優菜が死にたいって思ってるのは、その器がいっぱいになっている状態だからだよ。これから、器に溜まった辛いことを減らしていけばいい」
「……親とも話したけど、全然心は軽くならなかった。とにかく、自殺はダメって言われるだけで……」
同じ悩みを持っていないからこそ、そんな言葉をかけてしまうのだ。
とにかく自殺はダメだ。それだけはやってはいけない。早まるな。
実の娘が思い悩んでいることを仄めかしたなら、親としては心配で、焦ってそんなことを言ってしまうのはわかる。慌てているだろうし、とにかくなんとか引き止めないと、という気持ちからそんなことを言ってしまうのだろう。
けれど、悩んでいる人が──優菜がその時欲しかった言葉は、それじゃない。器の中身を出すことができるのは、もっと違う言葉だ。
僕はそれを理解していて、言う。
「自殺はダメ、じゃなくて、生きてほしい、って言われたかったんじゃない?」
ハッと顔を上げた優菜は、かけていた最後のピースが嵌ったような感覚に囚われた。
「死にたいって思ってる人は、自殺はダメって言われても心に響かない。でも、誰かに生きていてほしいって言われると、何故か踏み留まることができる。勿論、全員がそういうわけじゃないよ。でも、そういう人もいる」
「なんで……」
「なんでそんなことわかるって?そりゃあ──」
まるで心を見透かされている。
そんな風に考えているのであろう呆然とした表情で僕を見つめる優菜に、僕は彼女が先ほど言ったことを否定するように言った。
「人間はみんな、弱いからだよ」
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