第6話 生きて
風の吹く中、彼女は僕の差し伸べた手をジッと見つめていた。
困惑しているようで、胸中で僕に対する様々なことを考えている。
彼は一体誰なんだろうか。どうして自分にそんなことを言うのだろうか。そもそもこの時間に学校に残っているのは?
色んなことが頭の中で渦巻いて、何から言えばいいのかわからないようだ。
そりゃそうだ。その反応も当然のもの。
いきなり知らない男子生徒に声をかけられたら誰だって困惑してしまうだろう。
しかも彼女はおそらく、見た目通り内気な性格。人見知りな子が初対面の少年に気さくに返答できるわけもない。
僕は彼女に差し出した手を下ろした。
「いきなりごめん。ちょっと危ない感じがしたから、声をかけたんだ」
「あ……」
自身が今、自殺を図ったところを見られ、尚且つ止められたことに気が付いた彼女はぎゅっと制服のスカートの端を握り、俯いた。
「その……」
言葉が出てこないのか、彼女はボソボソと口を動かすだけ。
そのうち、泣き腫らした瞳からは再び涙が流れ落ちそうになる。
何か、言いづらそうなことがあるのだろう。
身を投じてしまいたくなるほどの、理由が。
生を捨て去りたくなるほどの、辛い何かが。
僕はくるりと踵を返し、部室の方へと足を向ける。
足音に反応した少女が顔を上げたのを確認し、部室の扉を開けて中へと招く。
「中においで。話を聞くことくらい僕にもできるけど、外は寒いからさ。中は暖かいし、ここで話そう」
◇
机の上に置かれたコーヒーカップから沸き立つ湯気が、ガラスの天井に向かって上昇し、やがて掻き消える。
室内は照明をつけているので星は真っ暗な時よりも見えないけれど、一等星は辛うじて見える。煌めく一等星と掻き消えた湯気から正面に視線を戻し、僕は少女に向き直った。
「まずは初めまして、でいいのかな?これで会うのは二回目だけど、多分記憶にないだろうし」
「二回目?」
少女には僕と会った記憶はほとんどない。だけど、微かに見覚えがある?くらいのものは残っている。
俯いていたし、ほんの一瞬ぶつかっただけだから、無理もない。
「今日の朝、階段でぶつかったのを覚えてない?」
「…………あ」
思い出した少女は口元に手を当て、マジマジと僕の顔を凝視した。
「あれ、貴方だったんですか?」
「同じ学年だし、敬語はいらないよ」
僕は自分のブレザーのネクタイにつけられた赤いネクタイピンを指さす。
僕らの学校は学年ごとにネクタイピンの色が分けられており、今の一年生は緑、二年生は赤、三年生は青、となっている。
赤いネクタイピンをしている彼女は、僕と同じ二年生ということになるのだ。
同じ学年、同じ歳なら、敬語で話すほうがおかしな話だ。
少女は一瞬躊躇った後、おずおずと弱弱しく僕に尋ねた。
「あの、どうして、私に声を?」
「目の前で投身自殺しようとしている子がいたら、普通は声をかけると思うけど?目の前で人が死ぬなんて、僕は絶対にごめんだし。あ、僕は雨宮春斗。四組だ」
「……二組の、
思い当たる節があった。
「転校生って、君のことだったんだ」
知らない名前だったわけだ。
僕が確認したのは自分のクラスメイトのものだけだし、他のクラスは全てスルーした。転校生の話も湊から聞いて初めて知ったし、彼女のことを全く知らず、見たこともないことにも納得がいった。
「星巻さん、ね」
「あ、呼びやすいように呼んで貰えれば……」
「じゃあ下の名前で呼ぶよ。僕のことも春斗でいい」
「わかり──わかった」
慌てて敬語を直した優菜に笑い、僕は一度コーヒーカップに口をつけてから言った。
「不快に思ったら謝るけど……君、元気のない表情をしているね」
「……」
俯いた優菜は右下を向き、僕の視線から逃れようとする。
階段でぶつかったときにも見たけれど、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。心に痛みを抱え、思い悩む表情。笑顔なんてものは微塵も見受けられない。
「笑顔を浮かべないのは悩んでいるからか、苦しんでいるからか、あるいは両方か。なんにせよ、自分で解決の糸口を掴むことができない状況にあるのは確かみたいだね」
「……」
「一人で思い悩み抱え込むより、誰かに話すことで気が楽になることもあるよ」
誰かに吐露することで、心が軽くなるということは実際にある話だ。
でも、ここで無理に話させるのはよくない。当人が自発的に話してくれないと、逆効果になってしまう。
優菜は僕が差し出したコーヒーを一度飲んで心を落ち着かせ、やがてブレザーの腕を捲くった。
そこには、何かで殴られた後のような、内出血が。
「それは……」
「前の学校で、少しね」
その痣をぎゅっと握った優菜は、乾いた、取り繕った笑みを口元に浮かべた。
「私が転校してきた理由も、それが原因なんだ。何が理由でいじめられていたのかは自分でもよくわからないんだけど、殴られたり、物を捨てられたり、壊されたり……いよいよ耐えられなくなって親に相談して、ここに転校してきたんだ」
いじめに耐えられなくなり転校。
心底同情する。いじめは学校の中で一括りに扱われているが、視点を変えれば立派な犯罪だ。人に暴力を振るうことも、相手の物を身勝手に壊したりすることも全て、法律で禁止されている行為なのだから。
それをいじめという言葉だけで纏めてしまう世間に、疑問を抱いてしまうくらい。
「でも、この学校に転校してきたのなら、そのいじめはなくなったんじゃ?」
「うん。クラスの子からは、酷いことを言われたりはしてないよ。SNSもやってないから、悪口を文章で見ることもない。でも──」
胸に手を置き、優菜は大きな息を吐いて目を細めた。
「フラッシュバックしちゃうんだ。通学路を歩いているときも、廊下を通る時も、教室にいるときも、常に思い出しちゃうし、不安に思っちゃう。またいじめられるんじゃないのかって。まだ癒えない傷が痛みだす。恐怖心がどうしても消えなくてさ」
「その心労で、死のうと?」
優菜は首を振った。
「本気で死のうとしていたわけじゃないよ?でも、消えない心の傷が消えるなら、身を投げるのもありかなって。苦しみから解放されるなら、死にたいな、って、ちょっと思った」
本人が消えれば、心だって消える。心が消えれば、その傷だってなくなるだろう。
苦しみから逃れるために自殺する人は大勢いる。言ってしまえば、彼女もその一人なのだろう。
彼女の心の痛みは当然、僕にはわからない。
身を投げたくなるほどの心の傷は、共感してあげることができない。
一度透明な天井を仰いだ僕は、照明のリモコンを操作し、明るさを二段階ほど下げた。室内は少し暗くなり、星が先ほどよりもよく見える状態に。
その行動の意図がわからない優菜は周囲を見回し、そこで天井が透明になっており、夜空を見渡すことができるようになっていることに気が付いた。
「天井が……」
「別に、君が身を投げること自体を止めることはしない」
僕がポツリと零した言葉に、優菜はこちらに視線を戻す。
「苦しいなら、もう耐えられないなら、その通りにすればいいと思ってる。周りがどれだけ説得したところで、決めるのは本人なんだから。意思は尊重されるべきだと思ってる。環境が変わって、これからは大丈夫なんじゃないかと思わなくもないけれど、行動するのは今の君だからね」
「……」
「でも、君の話を聞いて僕が個人的に思ったことを言わせてもらうなら……」
笑みを浮かべ、僕は左手の手袋に触れて言った。
「もったいない」
「もったいない?」
復唱した優菜に頷いた。
「環境も変わって、これからその傷を乗り越えて幸せになる可能性があるのに、そのために行動せず、身を投じて人生を終える。それは本当にもったいないことだよ。本当に心から死にたいと思っているわけじゃないんだろう?だったら──生きることができる未来があるのなら、生きるべきだと思う。生きたくても生きられない人が、いるんだから」
「……でも、辛い」
一筋の涙を頬に伝わせた優菜は、心情を吐露する。
痣の刻まれた腕をさらに強く握りしめ、叫びたい衝動を押し殺して抑える。
「生きたい人がいるのはわかる。だけど、私の心が辛いのは変わらない……。もっと酷い境遇の人がいても、辛いものは辛いの。味方をしてくれる人も、守ってくれる人もいなかった。この学校でも一人なんじゃないかって不安で、押しつぶされそうなの……」
不安感は、一度大きくなれば無尽蔵に膨れ上がる。
特に、一人で抱え込んでいるとなれば尚更。優菜は不安という名の重しを、心に背負っている状態だ。
「じゃあ、僕からのお願いだ」
不安を口にする優菜に、僕は一つの提案を口にした。
「君が死ぬことを、僕は止めたりはしない。君が苦しいのはわかるし、トラウマから消えてしまいたいって思ってしまっているのを、僕が今すぐに解消することはできないからね。だから、これから僕がするのはお願いだ」
左手の手袋を外し、天井から差し込む星明りを反射した半透明な手を、優菜に向かって差し出した。
「僕が死ぬまで、生きていてくれないかな」
驚愕に目を見開く彼女は、僕と視線を合わせる。
手袋をしていることを不思議には思っていたけれど、まさかそんな手を持っているとは思ってもみなかったのだ。
半透明な手。
今までに見たことのないそれは、涙を止まらせ、呼吸を忘れるほど驚いてしまうものだった。
「その手は……」
「聞いたことないかな?プラスチック症候群っていう病気で、僕の身体は日が経つごとに半透明なプラスチックに浸食され、死期が近づくと透明になり替わり、最期はバラバラに砕け散って死ぬ。進行も早くて、治療方法もないんだ」
「……その期間は?」
「一年。僕に残された時間は、あと一年だけなんだ」
約束された死を待つだけならば、僕はこの世界に何かを残して死んでいきたい。
そして、そのやりたいことを今、見つけることができた。
「僕が死ぬまでの一年、君が生きたいと思えるように努力するよ。大丈夫。何かあっても、僕だけは君の味方でいてあげるから」
優菜はどうしてそこまで、とは言葉にしなかった。
ただ片手で涙を拭い、一度呼吸を落ち着けた後、僕の体温を感じないであろう左手を優しく握った。
これが僕と優菜の出会いであり、死が訪れるまでの一年間、忘れることのできない一年間の、始まりだった。
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