第5話 皮肉な出会い

陽が沈んだ校舎は暗く静まり返り、恐らく生徒の姿は誰もいない。

グラウンドに響いていた喧騒は小さくなり、今は野球部がライトを照らして練習に励んでいる姿が見えるだけ。微かに体育館でボールが弾む音も聞こえるけれど、気にもならない程度にしか届かない。


変わった静かな学校から意識を離した僕は、暗く染まった夜空に浮かぶ一つの丸い玉兎に向けられた望遠鏡を覗いた。


「満月より少し欠けている、か」


月は正確には丸ではなく、少しだけ欠けた上弦の月となっていた。それでもその美しさや輝かしさは満月のそれと変わらず、闇に沈んだ街を照らす姿は惚れ惚れとする程。本来ならば月の何百倍もの大きさや輝きを誇る星々も、この地球上では色あせて見えてしまうのは皮肉だろうか。

美しい月をしばらく望遠鏡で観測した後、僕はレンズから離れて室内を見回した。


半円状に広がった室内の壁には、所狭しと星座の早見表や年間を通しての天文イベントが起こる日付、天文学に関する資料などが張り付けられていた。

中央に置かれたソファと机の上にも、当然のように星の図鑑や雑誌が積み上げられており、それらの横には幾つかのお菓子が散乱している。

およそ学校の中とは思えない程自由な空間を生み出しているこの場所は、校舎の屋上に作られている天文学部の部室だ。


学校の創立当初はこの天文学部は活発的に活動していたらしいけど、近年はその勢いは完全に消えてしまい、今となっては部員は僕一人。

廃部になることも検討されたらしいけれど、学校の伝統だからということで残されたらしい。部費もほとんどかからないから、別にあって迷惑というわけでもないし。


ちなみにここの天井は天文学部らしく、透明な窓ガラスでできている。理由は当然、星を観察することができるように。丁度昨年の冬に張り替えられたばかりなので、とても綺麗に夜空を映しだしている。

ここにいれば、冬の綺麗に澄んだ空気に瞬く星空を、暖かい空間で鑑賞することができるというわけだ。泊まるには、先生の許可がいるけれど、大抵は言えば簡単に許してもらえる。


僕は窓際に置かれていた望遠鏡から離れ、部室の中央に置かれたソファの上に寝転がった。雑誌や図鑑は簡易的な枕の代用品になる。


視界の中に移る星々の中には、北斗七星が綺麗に光り輝いている。今日は晴天で、天体観測の天敵である雲は全くと言っていいほどない。まさに絶好の天体観測日和というわけだ。

カップの中から立ち込める煙も、何処か良い雰囲気を醸し出している。音楽プレイヤーを持ち込み、レトロな音楽を奏でながらの天体観測も中々におつなものかもしれない。


「春は目立った天体ショーがないから、ちょっとつまんないな」


月が微かにあった雲に隠れた。

独り言を呟きながら僕はソファの上から起き上がり、甘い紅茶の入ったペットボトルを持って部室の扉を開けて外へ出た。

春先の冷たい空気が肌に触れ、若干の寒さを感じて身震いした。普段着でもある男物のカーディガンを羽織っているため、震えが止まらない程の寒さ、というわけではないが、やはり寒いものは寒い。この日の最低気温は十二度、とかだった気がする。雲がないから放射冷却で朝方にそれくらいの気温になるのかもしれない。


十分に冷えているといえる気温の中、半袖半ズボンでグラウンドを走り回っている運動部は流石と言える。子供は風の子とは言ったものか。

同じ年齢のはずなのに、随分と彼らは若々しく、活き活きとしているように見える。文化部と運動部の活力の違いなのか、はたまた人間的に元気の源が僕にないからなのかは、わからないけれど。

走る彼らを羨ましげに見つめながら、僕は部室の隣に置かれたベンチに座ってペットボトルの蓋を回す──と、同時に、屋上の錆びかけた扉がギィっと音を立てて開く音が聞こえた。


「こんな時間に?」


校舎の中にはもう生徒は残っていなかったはず。

既に時刻は七時を回っているので、文化部は既に最終下校時刻の時点で下校しているのだ。こんな時間まで、誰かが残っていた?

ここには基本的に教師であっても来ないし、部活の顧問ですら一度も顔を出したことがない。


誰だろうと首を傾げながら扉の方を見つめていると、数瞬空けて、一人の少女が姿を見せた。肩口で揃えられた綺麗な彼女は暗闇でどんな表情をしているのかわからないけれど、何処か寂しそうな印象を受けた。

例えるなら、愛犬を失った直後の飼い主のような、そんな雰囲気を纏っている。ふらふらと覚束ない足取りで屋上のフェンスへと歩み寄り、ガシャンと小さな音を立て、片手でそれに触れた。


「?なにを──」


雲に隠れていた月が顔を出したことにより、月光に照らされた少女の表情が見て取れ──僕は言葉を途中で止めた。

憂いを含んだ月下美人。

そう表現するのが適当であろう横顔。瞳から流れ出る一筋の涙が、月明かりに照らされてきらりと光る。その表情でフェンスを握る姿が何とも様になり、思わずカメラのシャッターを切りたくなってしまうほど。

言葉を忘れて少女に視点を合わせていると、彼女は突然よじ登ろうとしたのか、空いていたもう片方の手でフェンスを掴んだ。


目的は……まぁ、そういうことだろう。


人のいなくなった学校の屋上でフェンスに手をかけ、下を見下ろしている。しかも、涙を流して。

これで他のことを連想するようなら、人間としての想像力に欠けている。


それでも、僕はこの時少女に声をかけることはなかった。

理由はわからない。

だけど、代わりにこんな言葉を呟いた。


「勿体ない」


生きようと思えば生きられる命なのに、たった一つしかないそれを自ら散らそうとしている。


未来があるのに。

自分と違って、先を考えることができるのに。


これは、差だろう。

死にたいというのは、未来がある者が言う、夢。

生きたいというのは、未来のない者が言う、願望。


前者は生と死、どちらの未来も掴むことができる。死への行動を起こしたとして、その直前に考えを変えて生への道を選ぶことができる。それが、眼前の少女。


けれど後者はどんなに生きたいと願ったとしても、死という道しか残されていない。

二つの選択肢と、一つの選択肢。

それぞれが持つ未来の数が、僕にそんな言葉を吐かせた。

即ち、たくさんの未来があるのに、僕と同じたった一つしかない運命に飛び込もうとしている。そのことが、非常に勿体ない。


気づけば、僕は両手でフェンスを掴んでいる少女の方に向かって、持っていたペットボトルを投げていた。

宙で何度も回転したそれはキャップの部分からコンクリートの地面に着地し、静かな屋上に響き渡る音を一度奏でた。


思い返せば、出会いは、こんな皮肉に溢れたものだった。


音に気が付いた少女はハッとした様子でこちらに顔を向け、人がいたことに対しての驚きに目を開いた。

僕はベンチから立ち上がり、今しがた投げ捨てたペットボトルを拾って少女と視線を交差させる。吹いた風が前髪を揺らし、思わず押さえた。


しばらく無言で見つめあう僕らだったけれど、その沈黙を破ったのは彼女の方。

目元を一度拭い、不安そうに声を絞り出していう。


「貴方……」


何処か、見覚えがある。

ほんの数秒だけど、顔を合わせた中だから、記憶に残っているんだろう。それは僕も同じ。あの時──階段付近でぶつかったときに抱いた印象のままだ。

何処か脆そうで、簡単に崩れてしまう霜柱のような繊細さを感じる。


赤くなった目元でこちらを見る彼女に、僕は手袋を嵌めた左手を差し出した。


「こんばんは。よかったら、身を投げる前に話していかないかい?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る