第3話


 皓月が目を覚ましたのは空が白み始めた明け方のことだった。重たい瞼を無理にこじ開けると側に控えているであろう老女の姿を探す。うとうとと舟をこいでいたが老女は皓月の視線を感じたのかはっと顔を上げた。「水を」と口にすれば、それだけで皓月の意図を理解した老女はやんわりと顎を引く。枕元の水差しから湯飲みへ水を注ぐと、皓月の軽くなった身体を起こしてくれた。


「何かよい夢でも見ていらしたのですか? 嬉しそうですわね」

「ああ、桐と会った」


 まあ、と老女は目元をゆるませた。乳母として皓月に仕えた老女は、唯一桐との関係を祝福してくれた。桐が出ていった時は一緒に涙を流してくれた。

 皓月にとって、老女は血の繋がった親より大切な存在だ。だいぶ昔にひまを渡されたのに皓月が一目会いたいと願ったら老骨に鞭打ってまで登城し、つきっきりで看病してくれた。


「それは良いことです。きっと吉夢というのでしょうか。それで、桐様はなんて?」

「〝会うわけがない〟とそっぽを向かれた。夢だと理解しているが、妙に現実的だったぞ」


 ふふっ、と老女は笑うので釣られて皓月も笑った。


「桐様はお変わりないのですね」

「変わるものか。変わっていれば天と地がひっくり返る」

「あら、ひどい言い方。そんなところがお好きなのでしょう」


 皓月は苦笑をこぼして、水を受け取った。喉が潤うとほんの少し生き返った心地がする。老女はそんな皓月に目を細めたあと、その老いた両手をそっと握った。



「本当にお変わりありませんね。皓月様は」

「……なんだ、急に」

「いいえ、ただ嬉しゅうございますの。桐様のこととなるととても幸せそうで、ほら、今もこうしてご自分でお水も飲めたではありませんか」


 老女の言葉に皓月は手元に視線を落とした。なみなみと注がれていた器は空になっていた。一口でも飲めたら満足していたのに、と自分で驚く。


「言われて見れば……。不思議だな。桐を思うと力がみなぎってくるんだ。気のせいか腹も空いている」

「それはそうでしょう。皓月様はここ数日何も召し上がっておりませんもの。口にできそうなら何か持って来ましょうか」

「……なるほど。通りで腹が減るわけだ」

「さ、皓月様。起きたついでに夜着を変えましょうか。いつ桐様が戻ってくるかわかりませんもの」

「〝臭い〟と言われそうだな」


 否、絶対に言われる。皓月が病気に苛まれ、やつれても桐は心配より先に身だしなみのことを指摘するはずだ。祖国では王族の側仕えを多く輩出した名門一族の出自である桐は、育ちがとてもいい。皓月が王族らしからぬ言動をすれば、すぐ諌めてきた。


「桐様はいうでしょうねぇ」

「すまないが、着替えを手伝ってもらえないか? 一人では腕も上手く上がらない」

「ええ、もちろん。そのつもりですわ。それが終わったら朝食を召し上がってくださいな。おかゆでも用意させましょうか」


 老女は廊下へ出ると待機していた宦官へ、早口に命じる。皓月の食欲があるうちに食べさせたいらしい。


「食べられるだけでいいのです。少しでも食べて、桐様と会う際の体力をつけないと。桐様はいつも剛健なお方でしたもの。今の皓月様では、気圧されてしまいますわ」


 老女は楽しそうに喋りながら皓月の身体に手を伸ばす。汗で張りついた夜着を脱がすと、目も背けたくなるほどに痩せ細った身体があらわになる。

 老女は何も言わず手巾で丁寧に拭った。胸や背中、腕、全て拭うと皓月の腕をとり、新しい夜着にそっと袖を通させる。襟をただし、帯を締める。

 その間、皓月はされるがままだった。軽口は叩けても、体力気力はほぼ限界に近い。自分の親同様の年齢である乳母にこうして世話をやかれるのは矜持が傷つくものがある。

 だが、桐に会うためと言われたら嫌がることはできない。少しでも綺麗な姿で、少しでもはきはきと長く会話をしたい。四十路よそじまじかだが少女のような自分に心の中で苦笑する。


「悪いな。お前の手を煩わせて」


 老女はにっこり微笑むと否定の意を込めて首を左右に振った。


「皓月様はまだお若いのですから、このばあやより先に逝ってはいけませんよ」

「逝くものか。お前より先になど。それに桐に会わずして、私は死ぬわけにはいかない」

「ふふっ、そうですわね。でも、ご無理はなさらず。あら、お粥が届きましたね」


 老女は扉の向こうに視線を向けた。


「さあ、皓月様、朝食をどうぞ」


 老女が宮女から受け取り、運んできたのは湯気が立つ粥だった。口をつけるとほんのりとした塩味で味付けされていて食べやすい。腹が減っていたこともあり、ゆっくりとだが半分は食べることができた。


「もう、いい。腹がいっぱいだ」

「半分も食べたのですから、お腹は膨れるのは当たり前ですわ」

「美味かったよ。ありがとうな」

「どういたしまして」


 老女はにっこり微笑むと皓月の背に手を添えて、しとねに横たえてくれた。


「私はここにいますから、何かあればお声がけくださいな」

「ああ」


 皓月は一息つくと、天井を見つめた。


 ——桐は手紙を受け取ってくれただろうか。


 短気な女だ。破り捨てているかもしれない。あるいは捨てずに読んでくれているか。それとも読んですぐに破り捨てているだろうか。


 ——桐のことだ、私の死を知った途端に癇癪を起こすに違いない。


 ククッと笑い声をもらすと、だんだん目蓋が重くなってきたので布団にもぐりこんだ。冷たい布団は皓月の身体を冷やすだけで決して温めてはくれなかったが、それでもないよりはマシだ。何より横になっているだけでも体力回復に繋がるだろうと思い、目を閉じた。

 老女が言う通り、桐は剛健な女だ。体力気力が落ちた自分が、かつてのように彼女と会話をするには少しでも体力を戻さなければならない。そうしないと桐はすぐに会話を切り上げてしまう。


 ——桐に会ったら、まず何を話そうか。いや、まず、会いに来てくれるのだろうか。


 意識が途絶えるまで、皓月は悶々もんもんと考えに没頭した。

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