第2話


 山間は険しないの一言に尽きた。秋初めだというのに鬱蒼と茂る木々、獣道はあるが人通りが少ないためか整備されておらず道捃は何度も足をとられて転びかけた。


 これなら武官を派遣すればよかったと後悔する。晶王からの詔勅しょうちょく起草きそうする中書令ちゅうしょれいを任された道捃は生粋の文官だ。惨めな身体にならないようにある程度は鍛えているが、このような山奥を歩くためではない。長時間、書類とにらめっこをしてもいいようにだ。

 酷使したことのない体の節々が悲鳴をあげる。気を抜けば、無様にへたり込んでしまいそうになるのを矜持きょうじだけで耐え忍ぶ。今日で何度目か分からない大息をつくと終わりの見えない獣道の先を見据えた。


「本当にこんなところに桐はいるのだろうか?」


 部下はこの山の麓に村があると言い、確かに地図にもそう示されているが疑わしい気持ちが湧いてくる。先祖代々の土地だとしても流通もなく、あるのは自然のみなこの不便極まりない山に村を築く物好きがいるなんて思えない。

 無駄足、という言葉が道捃の脳内を支配し始めた頃、前方から甲高い笑い声が聞こえた。


「……子供?」


 まるでお菓子を目の前にしたかのような嬉々とした声だ。桐は四十手前と聞いているので違うと分かっているが、人の気配がすることに道捃は安堵のため息をこぼす。

 早足でその声の方向に向かうとこじんまりとした小屋が目に入った。その小屋の前には痩せ細った女と楽しそうに笑う男児の姿があった。

 女の姿を視界に入れた道捃は喜びから拳を握りしめた。染めているのか年齢の割には黒ぐろとした髪を簡易に結い上げ、化粧っ気もない面は日に焼けているが整っている。麻で織られたさんくんは薄汚れており、飾りも刺繍もない質素なものだ。それなのに女の清廉された雰囲気に飲み込まれ、天女の羽衣のような錯覚を覚えた。


 ——あまりの美しさに魂を掴まれたと錯覚する。


 脳内を皓月の言葉が過ぎ去った。桐の特徴を聞くと彼が一番に口にしたのは「瞳」だった。黄金色に輝き、全てを見透すその瞳は彼女がであることを意味していると言っていた。

 特別ですか? と聞き返すと皓月は「会えば分かる」と意味深に笑った。


 ——正直、半信半疑だった。胡人の血を引くから薄いのだとばかり思っていたが……。


 猫のように丸い双眸そうぼうは瞳孔も全て黄金でできていた。宝玉が光を浴びて爛々らんらんと輝いているようだ。まつ毛を伏せているのにその輝きは曇りもなく、離れた場所にいる道捃まで届いた。

 無意識に道捃は一歩を踏み出した。小枝を踏みつけてしまったらしく、パキッと乾いた音が足元から聞こえる。

 男児と女が会話を止めて、道捃の方を振り返った。


「……君は」


 女は黄金の双眸に道捃を映す。嫌な予感がしたのだろう。子供の背を押して、帰宅を促し、居なくなるのを確認してから道捃の元へ近付いた。


「私に何か用かい?」

 

 女は腰に手を当てると上背のある道捃を見上げる。本人にとってはただ視線を向けただけなのだろうが、吊り上がったまなじりのせいで睨みつけられている気分だ。痩せ細った容姿とは真逆で偉そうだ、と道捃は思った。

 そして、同時に彼女が皓月が探し求めていた桐であると確信した。道捃の服装は学が乏しい誰が見ても高位であり、そして晶王の使徒の証であることを意味する外套がいとうを羽織っている。そんな相手にこのような態度をとる女など、「相手が誰であれ屈しない、逆に食ってかかる」と噂される桐しかありえない。


「桐様とお見受けいたします。私は晶王様の命により、あなたをお迎えに参りました」

「なるほど。皓月から」


 敬称もなく、真名を呼び捨てにするなど不敬極まりない。道捃は驚きを隠すように頷き、晶王に命じられ、桐を探していることを彼女に打ち明けた。


「いまさらか」


 彼女は侮蔑の眼差しで道捃を見下すと、まるで野良犬を追い払うようにしっしっと手を払う。


「私は、会う気はないよ。帰ってくれ」

「しかし、晶王様はあなたに会いたいと切に願っております」

「うるさいな。私は会うつもりはないって言っているだろう? その歳で耄碌もうろくしたのかい?」

「これは王命です。それに背くと言うことはどういう意味かご存知のはず」

「しつこい男は嫌われるよ。ほら、帰った帰った」

「そうはいきません」


 ぎろり、と鋭い眼光で睨まれても道捃は引き下がらない。皓月の命令で、わざわざ休暇を取ってこんな山奥まで来たのだ。会わないと言われて、はいそうですかと引き下がれるわけがない。

 桐は舌打ちすると胸の前で腕を組んだ。


「皓月もずいぶんと偉そうになったな。あの泣き虫が晶王になるだなんて、しかも自分ではなく、他人に私を迎えに越させるだなんて」


 嘲笑う彼女に苛立ちを隠せない。道捃は眉を吊り上げた。


「主人への侮辱は許しません。罪人であるあなたが自由を許されているのは、晶王様のご厚意があるからです」


 桐は眉間に皺をつくる。不愉快だといいたげに。


「私が罪人だと皓月がそう言ったのか?」

「……いいえ」


 失言に冷や汗をかきながら道捃は首を横に振る。桐が罪人というのは、彼女の過去を探った際に知ったことだ。皓月は一言だって言わなかった。


 ——聞かれたくないということか?


 皓月が若き頃、一人の女に熱をあげたことは宮中に長く勤めている者なら誰だって耳にしている。特に皓月の乳母兄弟に当たる男はその女——桐をよく覚えていた。

 その男が言うには桐が罪人として国を追放されたのは、一族が主君に歯向かったためらしい。命まで獲られず、ただ追放されただけならばそこまでの罪ではないはずだ。

 なのに桐は冷たい目で道捃の言葉の先を待った。回答次第で桐は道捃との会話を無理やり切り上げるつもりなのだろう。

 一度、口から飛び出た言葉は撤回できない。それも相手を侮辱するような言葉は、どう言い繕おうが相手の神経を逆撫でするだけだ。どうにか桐の機嫌を良くできるか道捃は視線を彷徨わせ、考える。


「私はただ……」

「君は私を脅すのか? 罪をバラされたくなければ、皓月に会えと」

「……晶王様は、もう余命が残りわずかなんです」


 道君は言葉を絞り出した。皓月が病床に臥していることは緘口令かんこうれいが敷かれているが、桐という女を連れて来るには話したほうが早いと判断する。それに、会えば皓月の容態がどれほど悪いのか医官でなくても理解するはず。今知るか後で知るか、どのみち変わらない。


「あいつは昔から体が弱かったからな……」


 桐は長いまつ毛を伏せる。


「今さら、どの面さげて会えというんだ」


 桐は呆れ果てたようにため息をついた。


「相変わらずだな、皓月も。弱いくせに強引だ。死期が近いと言えば、私が戻ってくると考えたんだろう」


 その言葉に道君は目を輝かせるが、続く言葉に肩を落とした。


「けど、無理だ」

「なぜですか?」

「君に言う道理はない」

「それで納得できません。私は晶王様の勅命の元、あなたを連れて帰るという使命があるのですから」

「……頑固だな。嫌になるぐらい」


 桐は舌打ちすると胸に手を当てた。


「私も長くはない。それが理由だよ」

「ご病気、ですか?」


 道捃は失礼も承知で桐の身体を見渡した。確かに痩せているが意識も発言もしっかりしており、病気には見えない。


「いいや。私は病とは無縁だ」


 道捃は彼女の返答に安堵する。それならば、皓月の元へ連れて行くことができる。道捃は口角を上げたが、ふと彼女が先程、一瞬だけ笑ったのを思い出した。


「では何故?」

「……言わないと駄目か?」

「もちろんです」


 頑なに口を開こうとしない彼女にしびれを切らしそうになる。けれど相手は皓月の友。あまり手荒な真似はしたくない。


「私が犯した罪の見返りとでもいうのだろう」


 見返り? と道捃は聞き返す。

 桐は微笑を浮かべると道捃の後ろを指さした。帰れと言いたいのだろう。


「皓月には私が死んでいたと伝えてくれ。そう言えば、あの頑固者も諦めるはずさ」


 くるりときびすを返して、小屋に入ろうとする桐の手を掴んで止める。細い腕だと思っていたが想像よりも細く、体温がないことに道捃は驚いた。


「晶王様は、あなたを待っています」


 道捃は懐から手紙を取り出した。


「これを」


 桐は手紙をしぶかしむ。受け取ろうとする様子はないため、道捃はその手に無理やり手紙を押し付けた。


「晶王様からあなたに。これを読んでからでいいので、一度考えてください。私はあなたからの返事がくるまで待ちます」


 そう伝えると桐の手を離す。

 桐は手紙を見つめたまま、唇を固く結び、一言も話すことなく小屋の中へと入っていった。




 ***




 後ろ手に扉を閉めると桐は壁に背を預けた。脱力したように足に力が入らず、ずるずるとその場に座り込む。

 気付けば、目からは次々と涙が溢れ返り、頬を伝っていた。目をつむり、涙を止めようとするが勢いは止まらず、顎先から滴り落ちた涙は裙の色を濃くする。


「……皓月、君ももういなくなるのか」


 桐の脳裏に浮かぶのは皓月と過ごした日々だ。

 主君を裏切ったことで一族郎党ごと追放された桐は、故郷とよく似た晶国へ辿り着いた。皓月の父である先代晶王は、桐の境遇を憐れんだが罪人を受け入れることに難色を示した。

 そんな桐を皓月だけは受け入れてくれた。

 当時、皇子だった皓月は周囲の反対を押し通して、城から近い位置に屋敷を建てると時間がある度に会いに来てくれた。晴れの日には遠乗りに出かけたり、天気が悪ければ刺繍や舞を楽しむ。皓月の体調がよく無ければ使用人に手紙を渡して会話だけを楽しむこともあった。

 思い返せば、幸せな記憶ばかりだ。皓月の側にいて、桐が悲しんだのは十八年前の別れの間際だけ。


「会いたい、か……。私は、君になにも報いてやれなかったのに会えるわけがないだろう」


 ただ傍にいること。それが皓月の望みだった。何もいらない。あの屋敷で桐が自分を出迎えてくれる、それだけでいいと言ってくれたのに桐は拒絶した。

 恐ろしかった。この世に永遠はないと理解しているから。こんな自分を皓月はずっと受けていれてくれるだろうか? また、見放されたらどうすればいい? 主君の期待を裏切った時のように——。


 はあ、と息を吐く。皓月の余命は残り少ないと道捃と名乗る男は言っていた。

 そういえば、と桐は手渡された手紙へ視線を落とす。この手紙の差出人は皓月だとも言っていた。あの時のように他愛もない会話かもしれない。もしかしたら罵倒の言葉かもしれない。それを確認すべく桐は震える手で手紙を開いた。

 そこには、ただ一言、謝罪の言葉だけ書かれていた。


「皓月……」


 最初に裏切ったのは自分なのに、それでも受け入れて許してくれる皓月に桐はまた涙を流す。

 しばらくしてから桐は覚悟を決めた。涙を強引に袖で拭い、立ち上がる。道捃は明日の朝、もう一度、ここを訪ねてくると言っていた。

 桐は机に向かうと手持ちの中で一番丈夫で質のよい紙を選ぶ。筆先を墨壺に浸らして、どの言葉を綴ろうかを考えた。手紙は謝罪ではなく感謝を伝えたい。

 しかし、なんと言えば皓月に伝わるのか桐にはわからなかった。

 筆先を墨に浸らせながら、桐は何度もため息を漏らした。

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