第26話 階段
――これは、夏みかんが、朝の靄に包まれて発光しているだけだ。「灯りのなる木」はここには在る筈は無いのだから。
あれ、でももう夏みかんの時期じゃないよなあ。初夏ごろまで実るから夏みかん。おじいちゃんはそう言っていた。
僕たちは真夏に近づいている。
うっすらと蒸し暑い朝だ。
奇妙な夢の中にいるような感覚からはまだ覚めてはいない。
――僕は手を伸ばしてもつかむことができない何かを探していて、声を出してもそれは届かないことを知っているけれど、呼び続ける。地面はぐにゃり、僕の足を進ませようとはしない。――
今朝は夢からまだ冷め切れず、二階の自分の部屋から、そんな光景を占は見ていた。
冷凍されたような、早朝4時。まだ薄暗く時間はなかなか進まない。なにかに誘われるようにパジャマのまま階段を降りる。
店は分厚いカーテンが遮断し夜のままだ。ポンポン舟は、蝋燭に火を点けてやると喜んで、桶に水を張った海上を進み始めた。七つの海を暗礁も恐れずに、果てしない航海へいつでも旅立てると思っている。
デンマークから来たテクノの車たちも、同じようなものだ。大陸中を何処へでも連れて行くと謳っている。昭和の空想科学が作り出した宇宙ステーションは、今日も見えない星々と交信を試みる。
――出てあげなさいな」
突然鳴ったおもちゃの電話に驚いていると、鏡のフラワーが占に促した。
――面白くなってきたな」絵画のなかから褐色の肌の青年セニが歌うように話しかける。
「もしもし……」どんな声が聞こえてくるやら、おっかなびっくりの占。
――おい、で、」
「うわあ!?」頭に響く弱弱しい湿り気のある細い声は、古い掛け軸に描かれているような、女の幽霊を連想させる。
「情けないなあ」那月の呆れる声にもう一度受話器を握りなおす。
「誰!? 何ですか?」
――夜の、階段に、おい、で」
無線のような雑音に交じった声はそう言うと途切れてしまった。
「なんだった? 占」セニは退屈しのぎが増えた期待で一杯だ。
「わかんない。誰かも、何を言ったかも。ただ、階段? へおいで、とだけ。夜に……」
◇◆◇◆
「…………というわけで、さっき言った件を頼みたいんだけどさ」
「……例の件って?」
やっぱり聞いていなかったね、と占の様子を面白がった神田天空の口からため息が漏れた。夏休み前の期待にざわつく教室の隅。
「階段の話」
「階段!?」
占は今朝の出来事と重なっておののいた。
「そう身構えるなよ。その様子だともう知っているみたいだね」
「い、いや知らないよ。――今朝電話が来ただけで」
「電話? 誰から」
神田は好奇心いっぱい、占の顔を覗き込む。その瞳に店で待っている、絵画の中の青年を思いだす。
「階段、……から? おもちゃの電話に」
自分でも変なことを言っていると思う。神田は興味津々な顔で反応する。なんだよ、怖いのが嫌いとか言ってたくせに。震える手で受話器を取った自分を思い出してしまう。
「奇妙な話だけど幽霊と決まったわけじゃないでしょ。俺、立場上よく相談されちゃうんだよねえ。貴船小学校の裏山に上る石段、あるだろ?」
貴船小学校は占も小学2年生まで居た、真音の母校だ。
「階段? ……知らない……」
「あ、そうか。君、すぐ転校しちゃったんだっけ」
――校舎裏に裏山があって生徒たちの遊び場だったんだ」
「……へえ。あ、そういえばそんなのあったような気がしてきた」
言われてみれば裏山で隠れ鬼やケイドロをして遊んだ記憶が遠くにぼんやり。声がのどを通った後に自分にしか聞こえない声相手に話していることに気が付いた。
「……何さ。君誰と話してるの?」神田は含み笑いで占の持ちものに目を凝らす。
「……なんでもないよ」
他の生徒の目が気になる。
――驚かせてごめん、占。言うなって言われたけどどうせばれるし。君が変な電話に出たのを真音が心配して僕を君のペンケースに入れたんだよ」
成程ペンケースの奥に糸切狭の鉄の感触があった。
「そっか。……あ、え、えーと。それで、その裏山の、階段がどうかした?」思いがけない妹の不器用な気遣いに顔が緩む。
「変な噂が最近増えているんだよ。声がする、とか、突き落とされた、とか。ガキどもが怖がって、俺んちまで相談に来てさ。どうしてもお祓いしてほしいって」
「ふうん。……頑張って」
そういう返事じゃなくて! という神田の反応。
「……君たち兄妹俺には冷たいなあ。……西条君、ちょっと見てくれない? その階段」
「え! でも君の家が引き受けた仕事でしょ?」
「君に頼んだ方がいいと思うから」
「なんでさ」
「……なんとなく!」
「勘かよ!」
「最初真音さんに相談しようと思ってたけど、君、同じクラスだし、この前解決してくれたし」
どこまで占たちのことを知っているのか、真音と物たちのことは? 彼の従弟、葉太朗の件はあれから木の夢に迷うこともなく、一件落着ということになった。ことのいきさつは細かく伝えてはいない。むやみに関わりすぎることは憚られる。
「ユーレイか、君たちの言うモノとか木とか、俺が聞こえない声だとしてさ……」
神田は校庭の葉桜を見下ろす。
「なんか、可愛そうじゃん。ここにいちゃダメだから、相手の言い分も聞かず一掃する、みたいなの。俺は嫌なんだよね。お祓いってそういうことだろ? いや、俺神社継ぐつもりないからよく分かんないけどさ。……だってどうせなら、お互い楽しい方が、いいでしょ」
そのどこか自嘲的な笑みに、
「……まあいいよ。もとから少し気になってはいたんだ」
占は続きが聞きたくなった。それに妹とこれ以上距離が開くのは嫌だった。
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