第24話 anonym

ラベンダーティーの香りが店に充満している。

台所から漂うクッキーを焼くバターの香りは、「食事」を必要としない物たちにもおいしい御馳走だ。それらは持ち主の幸せと安心の手伝いをするから。

「――あなたの事、なんて呼べばいいのかしら。占と那月が帰ってくる前に、貴方の話を聞かせてもらえる?」

「――帰ってくるかな」

「帰ってくるわ」

「どうして分かるの」

「占は私のお兄ちゃんだから」

 彼女を取り巻く者たちも、占は探し物が得意なことをよく知っている。

「――僕の懺悔を聞いてくれる?」


 ラベンダーの香りがそうさせたのか、誰からも愛される容姿を持った彼からそんな言葉が出て来たことに真音は少し驚いた。

物と人間の寿命が違うことなんて、今に始まったことじゃない。ただ、このテディベアが沢山名前を持っていたように、あまりにも長い命と記憶のせいで考えさせられる時間が残酷に多くありすぎた。



 初めての持ち主は、ロンドンの郊外に住む幸せな家族だった。お父さんと、お母さん、幼い男の子がの持ち主だった。彼にはまだ大きいときから傍に居た。今でもまだ、数あるテディベアから自分を見つけて、感触を確かめ、子供の喜ぶ顔を思い浮かべて嬉しそうに持ち帰るお父さんの温度が残る。

 だからあの子を失った、蹲る、縋りつく、――縋るものもなく、血の気を失ったあの冷たさも同時に忘れられない。あんなに小さかったのに、突然に。僕はどうしてあの子が死んでしまったか、よく知らない。僕は車に轢かれたくらいでは死ねないもの。


 どうして、あんなに人間はすぐ壊れてしまうんだろう。

 僕達を作ることも修理することもできるのに。自分では修理、できないのかなぁ。あの子はまだ小さかったので僕くらいしか彼とお母さんをつなぐものは無かったんだね。お母さんが大事に持っていてくれたけれど、彼女は病気で早くに命を終えた。僕は傷みが少なかったので、それになかなか人好みする容姿だったみたいなので、貰ってくれる子がいた。親戚の家にね。あの子と同じくらいの小さな女の子。綺麗なプラチナブロンドの髪。その子は生まれつき病弱だった。おままごとや夜のおとぎ話に付き合うのは楽しかったなあ。久しぶりにまともに話をしてくれる相手ができた。大人は僕達に話しかけたりはしないから。耳が遠くなるんだね、きっと。――たくさんたくさんお話したのに、もっと、大きくなるはずだった、僕なんか忘れてしまうくらいに。――薬があまり効かなくてね……9歳になる前に死んじゃった。


 古物商に渡って、駐在していた日本人の男の人が僕に目を付けた。お嬢さんへのお土産として僕を貰ってくれた。もうすぐ戦争が始まるからと、急いで荷造りをしていたところだったみたい。初めて見る日本は面白かった。目も鼻も小さくて、真っ黒い髪。こちらのお人形もそんな恰好。恥ずかしがり屋でお友達はあまりいなかったその子も、僕を大事に、毎晩一緒に眠った。

 夜空の星が時々大きくなるんだ。大きな音をたててね。眩いくらい光って触れそうなくらいさ。あんまり明るすぎるものだから、みんなで穴に隠れたよ。不思議な時代だったなあ。

 でもあんまり大きいお星さまはおっかない。ある赤い晩――僕は止めたんだよ。そっちに行っちゃいけない気がしたから。ガラスが振動を受けて、電線柱が異常を知らせている。せめて僕を連れて行って。身代わりになれるかもしれないから。お父さんは、守ろうとしたんだね。守ろうとしたのに娘さんの手を引いて、行ってしまった。


 僕だけが、焼け残った。不気味なほどきれいに。


 こうも僕だけ生き残ると嫌にもなる。僕を持つときっと不幸になるんだ。

 それからはしばらく眠っていたので、あまり覚えていない。たぶん、何度目かの古物商の店で、空気の入った窓ガラスがゆがんだ光で僕を起こした。偶然か、ガラスのそと、生気のない眼と眼があった。虚ろで、消えて仕舞いそうで、身体をなくして名前も分からない、と言って泣いてしまったから、ハル、エリー、那月……それから僕が眠っていた間に付けられていた愛称たち、僕は名前がいっぱいあるんだ。全部覚えているよ。どれがいいか考えて、まあ、日本人だから、この漢字の名前が良いかなと思って、名前をあげたんだ。この世に留めるのにはそれが良いって、ガラスが言ったから。身体がないなら、僕を使えばいいけれど、また僕の所為で不幸にしたくないって思ったんだ。でもこの子はもう死んでいる。困っている。それなら、もしかしたら役に立てるのかもしれない。


 なんてごめんね。……そんなの言い訳だ。

 『お願いだ、僕を必要として』

 そっちが本音。僕はあの子をつなぎとめてしまった。おかげであの子は本来行くべきところに行けなかった。

 


 そう言うと、テディベアは口をつぐんだ。真音はしばらくその沈黙を見つめたあと、

「私には、幽霊が見えないから、人は死んだらどうなるのか、何処へ行くのか、分からない」

 想いを遠くに馳せた。どんな言葉をかけたってこの愛らしいテディベアが育ててきた傷は簡単には癒えないだろう。ならせめてただその血を受け止めるように。

「……だけど、必要としてほしいと思うことがそんなに悪いこととは思わないわ。あなたは在るだけでこんなに可愛くて素敵なテディベアなんだから、誰だって、今まで死んでしまった子たちも、貴方に会えて幸せだったと思う。もちろん、私たちもね。……占と那月が帰ってきたらいっぱい話そう。思ってきたこと、溜めてきたこと全部」



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