第23話 那月

「僕は僕自身について知らないことがある」


 自分で自分にそう言い聞かせたのは、そうしなければ自分が消えて仕舞うような気がしたからだ。

葉の擦れる音だと思っていたら、それらは小さな声で、色々と聞いてくる。

――何処へ行くのか、何をしているのか、君は誰なのか。――それは難しすぎる問いだった。


 全身ずぶぬれでドブネズミみたいだ。

 情けない水滴が尾を引いて僕の佇む緑の絨毯へ道を作るので、さっきから声は騒がしくなる。ここではあまり好ましくない事象らしい。

「痛くは無いんだ」あまりに影がうるさいので、そう言って宥めた。

「別に悲しくもない」木霊に答えた。

 さっきからガラスの壁が鬱陶しく映してくるこの紫の首の痕は、――なんだろう? 僕の緑の紐もどこかへ行ってしまった。うまく隠していたはずなのに。――それでも傷だと分かる。それくらいの知識はあるのだ。


 僕は壊れているのだと思う。僕と、世界が壊れるのは時間の問題だったから。


 でも壊れたのなら針と糸で、減った分の中身は綿を詰めればいい。僕らはそういう風になっている。――大好きな人に治してもらうんだ。そうしたらとても体の芯が温かくなる。それは大好きな人の体温が残っているだけではないんだ。

「否定をするな。僕は、僕だ」

 声が出た。自分でもどんな意味で言ったのかわからない。

「今」について考えて思い出そうとすればするほど、それに呼応するように景色は姿を変える。緑の光を帯びた世界は苔の湿気が心地よかったが、次第に見知った、固いコンクリートの地面と、四角い積み木のような無機質でモノクロの、建物の群れへ運んだ。紫色の大気は音を運ばない。 

 いずれ歩いていれば何か見つかるだろうと思ったが、何も見つからない。そもそも何も探していないのだ。寒くも熱くも湿気も風もなくなった。朝も昼も夜もここでは意味を成さないらしい。

(こういうのを快適というのかな。町が僕を見る目はまるで宇宙人を歓迎している様だ)

 

――引き返せなくなるよ」

 踏切は赤い信号をチカチカ見せながら言った。

「そんなことより、この夕日を除けてくれよ。僕、夕方が嫌いなんだ」

 自分でも知らなかったことが口から出て来た。(知らなかったな、僕は夕方が嫌いなんだ)口の中で反芻する。

 ――どうして嫌いなの?」

 唐突に表れた錆びたブランコはきぃこきこ、置き去りにされたような寂しい音を立て、陰をわざとらしい夕日に動かす。

「おいて行かれる気がするからさ」

 お昼寝から覚めたら、世界に僕一人だけ。遠くでカラスの鳴く声が残酷に響く。橙の西日が顔を照らすとき、いつもは台所から聞こえる、夕ご飯の支度の音で僕は一人じゃなかった、ああ、お母さんが居た、って安心するのに。

 

 色んな声が聞こえる。

 

 時期遅れの紫陽花が、

――君はこの季節の住人じゃないんだよ」そういったけれど、薄紅色は枯れている。

「それは君もじゃないか」そんな嫌みを吐いた。


『ドライフラワーみたいで素敵』。いつかの梅雨が過ぎ去って、紫陽花が枯れたことを残念がった僕に、優しいお母さんが言った。


「あの日はただが違っていただけなんだ」

 僕がもっとお母さんに迷惑をかけなかったら、〇〇〇は、〇〇で〇〇だったかもしれないのに。

 お母さんは○○で、僕が、〇〇〇で。

 もうそんな言葉ならべても、あったことは変わらない。僕だって知っているさ。そんなこと。


 ――なら僕は、どうしてここにいるの?

 お母さんは疲れていた、そうでしょう? 僕はお母さんが大好きで、お母さんは僕が大好きだった。

 

 それが変わった。それだけだ。


「それは変わるの?」

 変わったんだろう。


 ――わかったんだ。

「どうして」


 それが変わるの?

 変わるさ。


 ……水が、冷たい。


『人ってなにかに縋ってないと存在を保てないからね』そう言ったのは僕だ。

 軽蔑と語りかける桜。


『名前は?』

 止まったままの時計――16時10分は「19時の合図」。

『……忘れちゃった』


 月影の揺曳。――ここは僕の世界じゃない。

 僕は誰からも愛される、白いテディベアになればよかったんだ。

 鏡よ鏡、君が映す醜い濡れた男の子はだれ?

 紫色、大好きな人の指の痕。



「――夢を見せられていたんだよ、那月」

よほど走ったのか、弾んだ息と、温かい手に肩を掴まれた。緑のリボンを持っている。

「――きたの」咄嗟について出た言葉は、その手を待っていた様だ。

「――来たよ」

 ほっとしたような、優しい笑みで、息を切らせてやって来たこの弱そうな青年を知っている。

「帰ろうか、那月。君は木の夢に迷ってしまったんだよ」

「――たぶん人違いだよ、……。僕を探している人は居ないんだから」

 自分の中の現実を司る神経がそう言わせる。

「僕が探しているのは君だよ、那月」

 彼の腰ほどの背丈にある頭に温かい手のひらを置く。

「それ、僕の名前じゃ、ない」

 声が、上ずった。誰か、助けて。口から出てしまいそうな言葉を押し込んだ、それを求めてはいけない気がする。

「君の名前だよ。僕にとっての那月は君だ。誰がなんと言おうと君は那月だよ」

 そう言うと手を引いた。

「――そうだ、これは……どうして、僕は、一体……」

 彼は手を放さずにその反対の手で小さな手を覆い包んだ。筋張った細い手がじんわりと、温かくて、きついくらいの力強さで此処に那月を留めていた。握っていた緑のリボンで彼の首を優しく蝶々結びで縛ると、傷は消えていく。


「――見なくて、良いんだよ。向き合わなくたって、良いんだ。――僕を見て。そう、ちゃんと手を握っててね。帰ろう。君の帰る場所へ」

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