第22話 蝦蟇

「げこっ」

 頬を膨らませ乍ら玄関口のタイルに涼む蛙は、近所の田んぼから避暑に来たのかもしれない。

那月の声はガラスを通して、店を閉めていた占に届いた。占は急いで真音を呼び、自身も走って葉太朗の家まで行った。

神社と隣り合わせの狭い庭は何の変哲もない。成程那月の言うとおり、示し合わせたような蛙の合唱はうるさいが。鳥居の前で立ち往生する占の背中を、後から追いついた真音がとん、と押し、自分も鳥居内に入った。


 すると世界はまるで変わる。

 心もとない外灯のちろちろした薄明かりから、視界は一気に開ける。祠まで大人の脚で5、6歩ほどの広さは今、何の仕掛けか気味が悪いほど遠い。妙に生き生きとした朱が鮮やかだ。夜の緑もくっきりと見える。

「葉太朗は?!」

 彼を呼ぶ声に石灯篭から籠った声が応える。

 ――あのこは居るよ。ここに、いるよ」

 二人を阻む青紅葉を潜る。

「那月の声も聞こえない」


 真音が落ち葉を踏んだ音が妙に響く。急に低気圧によるめまいに似たゆらぎ、伸び縮みする空間が息をするように二人の感覚を狂わせた。

「真音、手を」このままではこんなに狭い空間でもはぐれてしまう。二人は手をつなぐ。祠に続くみちは、彼らを押しつぶすほど狭くなっている。それでもそこへは行かなければならない、そんな気がする。濡れた石畳、風に上る葉。水は下から上に登って行く。

 言葉を交わすまでもなく占と真音は祠に進む。苔を伝う水滴、地面に刺さるのは朽ち、苔むした大小さまざまの赤い小さな扉。真音が占の手を引っ張ってとめると、

「ここから声がする。たぶん葉太朗と思う」

 占は迷いながらも傷んだ扉に手をかけた。

隙間からは蛍光が漏れる。

「こんな扉じゃ手しか入らないよ」

 うーん、と真音は考えて呟くと、辺りを見回した。翳りのある葉の下にしゃがむと、手を器のようにして占のもとへ戻る。持っていたのは小さな雨蛙だ。占に持たせていた荷を開けさせ、小さな瓶に入った、神田の実家の神社から貰ったお神酒を杯に注ぎ、蛙に話しかけた。

「ね、お願いよ。ちょっと、中をのぞいて来てくださいな」蛙はお神酒を舐めると、読み取れぬ表情で喉を膨らませ、目をぱちくりさせたあと扉の中に入って行く。

「行こう。案内してくれるみたい」

「真音、蛙とも話せるの?」

「なんとなく。それにあれは、形は蛙だけど、蛙じゃないの」

「まって! ……ていうか入れないよね、大きさ的に」そう言いかけた占の手を少し力強く引っ張ると、半ばその奥へ倒れこむように扉の中に入った。真音が着ている大島の浴衣の裾が揺らめいた。からんとなったのは二人の下駄の音。


 気が付くと占は手に紐を握っている。

 通り抜けたと思った赤い扉は背後にはもう無い。金色の糸で刺しゅうされた那月の緑色の紐は、苔むした石の間を掻い潜ってどこまでものびている。

 真音が言った。

「……それ、那月のリボンだわ」その縮尺の狂い方に戸惑いつつ二人は紐の先を探し始めた。音を吸収する苔の緑と木々。何処からか水が流れている。那月のリボンは、絡まってはどこかへと繋がっている。『見つけて』と言わんばかりだ。――静か、緑色の紐は続く。

足元や互いの顔が見えるほどには明るいが、太陽や星月の絶対的明るさが無い。紐の先に居たのは、葉太朗だった。すやすやと眠っており、握った小さなこぶしに巻き付いた紐がここへ占と真音を導いたのだった。


「那月は……?」

真音と占は何度も那月の名前を呼んだが返事はない。不安そうな顔の真音を占は久しぶりに見た。小さいころ、よくこんな顔をして占の後を付いてきた顔だ。占が、葉太朗を抱きかかえると、その下から押しつぶされた白いクマが出て来た。

「那月!」

 その声に反応はない。

 その変わり少しして、控えめな声で、

 ――占、あの子を探して」クマは真音が知っているの声とは違った声で、そう言った。答えを探すように黙りクマを見つめる真音。

 占は葉太朗の握っていた紐の先を自身の手に結び、言った。

「真音は葉太朗を連れて先に帰っていて。……ほら、葉太朗、起きて、真音の手を放しちゃだめだよ。――僕は那月を探してくる」

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