第20話 青紅葉、 ため息

まだ残る夕日の色がいつもと違うのも気にせずに、治療器具が邪魔する、歩行を支える杖を投げ捨てるようにして、葉太朗はクヌギの傍へ寄る。神田の、違和感に呼び止める声も聞かない。

 風もないのに青紅葉あおもみじは頷く。

 葉太朗にとってはそこにあるものが事実であって、その前の過去や、理解できないことに対する疑問をもつ必要は無かった。

「――ここってもしかして、所謂、あっちの世界……?」

 引きつった笑みの神田がいった。


「ちょっと違うわね。ここは、木の夢の中よ」

 その時、彼らの後ろで青灰色の目、優しい灰色の耳に空五倍子色の猫が言った。

「ユノ!」

 少女さくらに依頼され、先日探した猫だ。

「久しぶり、真音ちゃん、占君」

「うわあ、猫がしゃべってる」

 所見にしてはあまり驚く様子のない神田(まあ、幽霊もいるのなら、こんなこともあるだろう、と事態を呑み込めてしまったようだ)に挨拶をした後、おしゃべりユノは続ける。

「ちょうど、散歩にでかけていたところなの。日課なものでね。どうやら帰り道のお役に立てそうね」

「助かる、ユノ。木の夢は迷いやすいから……」

「迷いやすいの?」

 占の問いに真音はばつが悪そうに視線を逸らした。

「真音ちゃん、一昨年だったかしら、桜の夢に迷いかけたことあるものね」

 はしゃぐ葉太朗の周りには、モンシロチョウにカブトムシ、蝉も遊びに来た。

 

――全く。――」


 場にため息交じりの声が響く。

 しわがれた、太い、老人の声だ。小さい神社にふさわしい、それほど大きくはない日陰を作る木だが、その声は人間よりも長く生きてきたことを思わせる。

 ――木だって夢をみる、と愚痴も言いたくなる」

 ため息交じりにそう言った。

「ふふ。この方、ちょっと愚痴っぽいの」

 ユノは少し呆れたように言った。この木とは馴染み深いらしい。

 ――私が、何年この神社を守って来たと思っている。……一人二人の人生分じゃおつりが来る」


「あなたは、切られてしまったんです、よね」占は尋ねた。

 ――きみらが問題沙汰にするのが大好きな話題さ。何かというと老朽化、劣化、と。確かに雷に当たって少し傷んでいた。去年は葉を落としすぎたかもしれない。近所の住民から苦情が来たんだと。――だがそれがなんだ。私は人間とは違う。朽ちても新しい芽を出すし、傷んでもどうってことないさ。――つまり、人間にとって不必要だった。……これだけの事さ」

 ――ほう、愚痴っぽい木は珍しいですな」

 万年筆せんせいが言った。

「ぼく、さみしいよ。君が虫を呼んでくれていたから僕は寂しくなかったのに」

 葉太朗は話す木がさほど珍しいという様子でもない。その紅葉のようなぷっくりとした手のひらで木に触れる。

 ――せめて坊やの病気が治るまで傍に居られたら良かったのになあ」

 哀愁を帯びた声は、何処ともなく土地全体に響く。

「葉太朗君は木と話せるの?」自然に木と話すので、占は不思議に感じた。

 ――子供にとっては、言葉は手段じゃないからね」

 猫はさも当たり前のように言った。

 彼らの世界に戻れば、あの虚しく残った切株に、自分は何をしてあげられるだろう。葉太朗よりも少しだけ大人の3人は、考えていた。

  

 鳥居の横に並ぶ彼岸桜が花を ぽトン、と落とした。

 

 ――夢が覚めるわ」皆あまり離れないように、というのが猫の助言だった。

 占は急いで木の根元に居る葉太朗を抱きかかえてユノの近くに戻る。葉太朗は親から離された赤子の様に宙の手を木へ伸ばす。あたりはしつこい暑さを残した沈みかけの夕暮れ時に戻った。足を歪なおもちゃのように引きずると、切株のもとへ少年は行こうとする。

『ただの夢だよ』と言わんばかりに、現実の風が戻ってきて、残酷に幻をさらっていった。

 ――空虚に人は弱いの」

 心配そうにユノが言った。ずっと付いていてあげたいけれど、自分にはさくらがいる。しかし子供が一人、また木の残した夢に迷ったら、出て来られないかもしれない。

「分かった……。俺できるだけ傍に居るようにするよ」

 此岸と違う空気にやられたのか、ずいぶんと疲弊した神田は言った。

「おもちゃもテレビもスマホもある。子供なんて、すぐに忘れるさ」

 そんなことを言った神田本人も、自分が子供のときは本当にそうだったかな、と考えていた。


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