第18話 「こども」

――どうして捨てられてしまったんだろう。

それを知ろうともしないほど、母を攻める気にもならないほど、私は大人になってしまったのだろうか。



「……この声は?」

 枕元の鏡が夜と夜を跨いで世界をつなげたのだった。

 ――あの女の人、石原さんの夢の中だ。僕、夢って好きさ」

兎が跳ねる。

 此処はさらに霞がかったように、彼女の夢を見せる。

小さな手は、有り余るぬいぐるみを左右に掲げる。いつから友達なのか、隣にあるのが当たり前だ。妹が生まれ、早く「お姉さん」になってしまった彼女のまだ幼くいたい、小さな抵抗の手段でもあったのかも。小学校3年生の家庭訪問でも二人を抱えて担任を迎えた。家族旅行にも連れて行った。外でよく一緒に遊んだ。勿論おままごとも。

「ここは、何処だろう」占は言った。

「遊園地みたい。この前潰れたって、新聞に出ていた……」看板を見た真音は占に小さな声で耳打ちした。

 小さな手は、遊園地で子供を引き付ける、くじ引きを指さす。ドームに手を突っ込めば、風で舞うくじを小さな手が掴む。クマのまーちゃんとの出会いだ。キリンのきりちゃんは、妹が飽きて使わなくなったので、まーちゃんのお友達に貰った。 

 

――ずっと一緒だった。……幼稚園から帰って来て、一日の出来事を話して聞かせてくれた。寝室の、ベッドの上が僕らの定位置だ。毎晩一緒に寝るのさ。お互いの夢を行き来して。悪夢を僕らが追い払ってあげる。……そのうち学校に行くようになって、友達が沢山出来たみたい。見たもの、好きなもの、苦手なもの、……嬉しそうに教えてくれたよ。毎日元気に走り回って、泥だらけで帰ってきたこともあった。ある日子猫が家にやってきた。大切に飼っていたけれど、僕たちのことも忘れずに、かわいがってくれたっけ。……中学校に入って塾に行き始めた。部活に勉強に、忙しそうだったなあ。友達と喧嘩して泣いていたこともあったね。……悲しいときは、半べそかきながら、僕たちを抱きしめた。……受験を頑張って、高校生。音楽の勉強を頑張るんだって。ピアノのお稽古、いつも欠かさず、頑張っていたものね。……寂しがりやなのに、親元を離れて大学生になるんだって」


誰かが言った。


 夢は今日あった出来事を消化する。時には届かない羨望を歪んだ鏡のように映し出す。

 蛍光緑色の花が、静かな団地の端を照らす。心地が良いのか、石原は歌い出す。

 心の底の自分が知らない自分を覗かせる、確かな世界。――夢なんて覚えていない方が良い、と物知り顔にいつかセニは真音に言った。どちらが本当の世界か分からなくなってしまうから、と。


 景色が変わる。


「彼女」は、薄っぺらい人型の板を、抱きしめている。まるでそれが本当の人であるかのように、狂ったように目を大きく開けて一生懸命引きずって、どこかへ歩いて行く。

 水の泡のようだった占と真音の目の前の映像は、彼らの店の中に変わった。非現実的世界は、少しリアルを取り戻して、落ち着いた様子の彼女は店内で初めて来たところに視点を動かし、隅っこのクマの前で止まる。


(おとなになりきれていないみたい)

 お姉ちゃんは、泣いたらだめ。そんなことを言う親ではなかった、けど自分で決めた。

(いいとししてはずかしい)

 お姉ちゃんは、妹よりも、何でもできなければだめ。それも、自分で決めた。

 

 どうやらこの女性にとって大人はとても遠い道らしい。

「大人って大変なんだねぇ」那月は小ばかにしたように、毒付くのは、少し嫉妬にも見える。

 昼間、彼女の項垂れた後ろ姿が、弱く、悲しかった。

 

――あの子がもうとっくにを必要としていないことに気が付いてしまったんだ。……

 悲しいなんて、烏滸がましい。『そう思っている』『感情がある』なんて思いたいだけなんだ。あの子も良く悩んでいたなあ。学校の事に、すきな人のこと。……その全部が愛おしかった」

 

 占ら一行は振り返る。思い出と夢の水溶液に、クマと、キリンの後姿がその時そこにあった。


「見つけた」

 真っすぐな黒髪を二つに結んだ少女の手のひらは、クマとキリンの頭部をそうっと包む。整えられ綺麗に飾られた爪が光る手で。似合わないぶかぶかのハイヒールを鳴らして。

「棄てちゃって、……ごめんね」

 会えた喜びと、胸を掻きむしるような湧き上がる寂しさをどう現わしたらいいのかわからない様子で、ゆがんだ笑みを見せる。

 ――そんなことは、どうでもいいんだ。――でももう、君を見つけてあげることができない。……器がないんだ。ごめんね」

 手に入れた当時はふわふわの茶色い毛並みだったろう、時が毛をこわばらせていた、感触はそのままに。クマのマーちゃんが言った。

 ――一緒に寝てあげられない。一人でも、寝られるかなぁ?」

 卵色に茶色い斑点を浮かべた小さなキリンのキリちゃんは言った。

「大丈夫」制服を着た彼女になっていた。強く、芯のある声で言った。

 --寂しくない?」

「……ちょっと、……寂しい、かな」

 髪を茶色に染めた、彼女が言った、たくさんの教科書を抱えて。

 声が揺れる。

 ――夢で会えるよ」依然として、子供に話しかけるように、彼らは「彼女」に話しかける。

 ――また、お友達、探しなよ。僕みたいな立派なキリンのお友達さ」

 ――今日あったこと、なんでも良いから話してさ」

 ――一緒にお茶の時間を過ごすんだ」

「……私もういい大人なの。大丈夫よ」今日店で会った大人のが微笑んだ。そして言った。

「誰がなんと言おうと、お気に入りのぬいぐるみを探すわ。好きだったものを、もう一度、探しに行くから」はらはらと、大粒の涙が、彼女の「大人」の呪いを流れ出させていくようだ。

 ――言い物語を書くのも、いい大人になるのも、時間は関係ないよ。大人と子供の境目なんて、無いんだから」


「ありがとう」「さようなら」「またね」何度もそう繰り返して、一晩の夢を閉じた。


 形はどこへ行くんだろう。永遠にあちらの世界で幸せな夢を見続けるのだろうか。

 魂ってなんだろう、言葉ってなんだろう。彼らのそれを知れば知るほど、占はわからなくなる。

 血が通わないだけで、言葉が通じないだけで、『無い』と決めつけてしまうことが、あまりにも悲しい……寂しい。火星人だって、目に見えない、僕らの耳に聞こえないだけで、もしかしたらもう目の前にいるかもしれないのに。

 

 ただ、この人は、この夢が覚めたらきっと、胸が締め付けられるくらい、素敵な憂いを持っているだろう。好きな人に夢で逢ったような気持ちと、思い出せないような寂しさを持って。「またね」があるか分からないけれど、きっと信じてそう言った。

 

 そしてお気に入りを探しに、街へ出るのだろう。

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