第17話 「大人」

――ちがう、ちがう。そっちじゃないよ、そっちへ行っては迷子になってしまう」。

 ――右手をボクとつないで、左手でキリちゃんの長い首を抱えるのが、いつも決まっていたね」

 くすんだ茶色の子熊が言った。首元の赤いリボンはほつれている。

 ――あの子は良く迷子になるから、ぼくがお母さんを良く呼んだよ」

 そう言ったふわふわのキリンのぬいぐるみの首筋の毛並みには、癖がついている。幼い子供が落とさないよう一生懸命にぎっていたちいさな手のあとが。

 ――あの子はすぐ泣くから、いつも一緒にいたよ」

 ――お姉ちゃんだから、僕達の前でしか泣かないんだよ」

 ――優しい子」

 ――とってもいい子」

 ――あの子はすぐ迷子になるから、僕が一緒にいてあげないと」――――

 



「何か、気になるもの、ありましたか?」

 占は、彼の人好きする微笑みを浮かべて声をかけた。顔見知りの客が多いなか、珍しく初めての、若い女性のお客さんだ。

 彼女は、少し戸惑ってからはにかんで、

「ええ、あのテディベアを見てちょっと思い出したことがあるものだから」

「げ! 僕は売り物じゃないよ!」

 視線の先は那月だった。

「……すみません。その子は売り物じゃなくて……」

「あはは! 大丈夫! 私もいい大人だし、流石にテディベアは、……笑われてしまうわね」

「そんなこと、ないです。……年齢なんて関係ない、と思います」

 真音は話しかけようなんて考えてはいなかったが、どうしてもこれだけは、口をついて出た。

 女性は微笑んだ。店が気に入ったらしく、一点一点に視線を注ぐ。カールしたマスカラのまつげが上下する。どことなく、芯の強さを見せるその女性からは寂しさの匂いがする。


 ――こんにちは、綺麗なお姉さん」

 青いターバンの青年、セニが絵中で動いても彼女は気づかない。


「そうよ。……私には、あの子たちじゃないと、だめなのよ……」

 店の片隅、自分にしか聞こえないように漏れたその独り言を、ウラン硝子は反射した。

 落ち着いた口調は、どこか幼な子の駄々を抑えつけた印象があった。

 ――聞こえた? あの子じゃないと、だめなんだって」

 ――会いたい人がいるのよ、きっと」ペアのグラスはその蛍光グリーンを更に煌かせて言った。

 ――なになに? 面白い話?」

 いち早く二人の会話に、セニが彼の持ち場の絵画から抜け出そうとする。

 ――真音! このお客さん、何か探しているんじゃない?」

「セニ。動かないで」

 小さな声で好奇心のかたまりを宥める。

 ――探してあげようか」月で餅つきをしている兎の装飾のついた、行燈が言った。

 ――探してあげようよ」小瓶に入った、大きなあめ玉のような飾りをつけた、おもちゃの指輪たちが騒ぐ。占は最近分かってきた。この店の友人たちは総じておせっかいだ。そしていつも退屈しのぎの種を探している。

 ――うるさいぞ。皆。物が探しているなら兎も角、真音は人間が嫌いなんだ。どうせ、捨てっちゃったとか、無くした、とかだろ。人間なんか、そんなもんさ。人間の為になんか、働いてやるもんか」そう言った那月へのブーイングがおこる前に、


「何か、探していらっしゃるんじゃないですか?」

 ――わ、このお人好し」

「探している、というか、懐かしくなってしまって」妹と同じような顔でも話しやすい微笑を浮かべる占に女性は口を滑らせた。

「このクマを見て?」占は那月を普段真音がそうしているように抱きかかえて客人に見せた。

「わ、何するんだ、占、やめろ。離せ! 真音ぉ」

 真音は少し面白そうに、嫌がる那月を見ている。

「よかったら、聞かせてくださいませんか、何か、役に立てるかもしれないし」

 女性は微笑んだ。髪はバレットできっちりと束ねられて少し堅い印象だが、とても優しい顔になった。

「ありがとう。でも、無理なのよ。もう捨ててしまったぬいぐるみのことなの」

 那月と真音のため息が聞こえた。の落胆する声も。

「……捨ててしまったんですか……」

自分よりも残念そうな占の様子に少し不思議に思ったのか、

「大学生になるとき、実家を出てから、もういらないと思った母が、捨ててしまってね。無理も無いわ。中学校に上がってから防虫剤と一緒にずっとしまってあったのだもの。もうボロボロだったし。……責めることもできないわ。もう大人だもの」

 どこにあるか分からない空虚の原因を探すのは困難だ。それが大事な幼い記憶であればあるほど、防衛本能が蓋をするから。

「……ただ、ちゃんと、お別れしたかったなって、時々ね、思うの」手元の雑貨を手に取りながら。思いは遠くに、ばかげているわね、と眉尻をさげる。

「その、……名前を教えてくれませんか」真音は言った。

「え……石原え」言いかけたところに「貴女じゃなくてたちの」とそっけなく聞く真音に占は頭を抱える。

 うふ、と少し照れ臭そうに笑う女性は

「きりんのぬいぐるみは、キリちゃん。蝶ネクタイをしているの。淡い黄色に、茶色の斑点。あと、茶色い、クマのぬいぐるみ、まーちゃん。リボンを首に巻いているの、この子みたいに」那月を指す。真音は、女性が先ほどから持っている、貝殻の装飾の着いた合わせ手鏡を見て、「石原さん……あの、それ、お買い上げされるつもりですか」と聞いた。

「ええ、このお店に入ったとき一目ぼれしてしまって」

 ――この人、優しい人よ。真音ありがとう。行ってくるわ。あとは任せて」手鏡は言った。真音は手鏡を受け取り、大事に袋に入れながら微笑むと、

「今夜、この鏡を枕元に置いて寝てください。きっといい夢が見られますから」。




「真音、あの人の為に働くの?」

 石原が帰ったあと、那月は不満の声を上げた。

「あの人の為、というか、ぬいぐるみたちのためね」

「でも、そんな簡単に見つかるかなぁ」

 ――今夜はいい夜ですよ。あちらで探し物をするには」

 光を受けて、硝子の中の小さな羽を風もないのにくるくると回すリヒトミューレは、同じくヨーロッパ生活の長い万年筆、「先生」と親友だ。先生の雰囲気と似た、若男爵、という印象の落ち着いた声で言った。

 ――そうよ、そうよ、見つけてあげて真音ちゃん」

 ウラン硝子は次第に近づいてくる夜の闇に溶け込む。

 ――占も行くの? なら今日は僕が明かりになる、いいでしょ真音」

 掛け行燈の餅つき兎が聞いた。

「いいよ」

 アズルを手に取りながら言った。夜23時のお店。ご機嫌な母の鼻歌が風呂場から微かに聞こえる。祖父は居間でまったりとテレビを見る。

「今日はどこから行くの?」占は羽織と下駄を慌ただしく用意しながら真音に聞いた。着物姿の真音は、フラワーを指さす。

 ――占、私を持っていきなさい」リヒトミューレは言った。

「リヒトを?」


 ――夢を結ぶんだよ」

 ――夢を結ぶんだよ」

 今日はウラングラスを始めとした陶器がやけに元気だ。


「占、行くよ」真音に呼ばれて占はフラワーの前に立つ。神社の泉が入り口の時は未だに慣れないので、フラワーが入り口だと知って実は少しほっとした。繊細なつくりのリヒトミューレをそっと持って、片方の手で兎の掛け行燈を持った。兎にとって久しぶりのらしく、時折、月から弧を描いて跳ねる。

「ねえ、真音。これからどうするの? もしかして、ぬいぐるみ、さがすの?」

「そうよ」「でも僕達、名前しかしらないよ」

「名前と、その子への想いさえ消えていなければ大丈夫」

 真音は少し立ち止まって何か考えはじめた。行き方と探し方が複数あるようだが、何度聞いても占には理解できそうにはなかった。とりあえず、距離も時間も空間も差し引いて考えるところから始めないといけないようだ。


「キリちゃん、マーちゃん」真音は優しくぬいぐるみたちの名を呼んだ。

 暫く名を呼んで歩いたが、

「ふむ……これだけじゃダメみたい。先に夢を結びましょう」そう真音が言うと

 ――占、ちょっと私を掲げてくれるかな」リヒトミューレが言った。

「あっ、はい!」些か緊張した面持ちで占はリヒトミューレを掲げた。

いつ終わるとも分からない黄昏の、世界中の仄暗い光を平らげるように、リヒトミューレはその羽をくるくると回しはじめた。

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