第16話 記号

――私を初めて手に取ったとき、本当にうれしそうな顔をするんですよ。

 買った日時と場所、名前を丁寧に書いてね。図書館なんかじゃ管理するために我々に記号を書いたり、図書館の名を入れたりするでしょう? でもその人は自分だけの為に手に入れたにそれらの情報--つまり自分の名前とか、買った場所なんかをね、書いて大切に保管するんです。彼が亡くなって、私のような本たちの処分に困った家族の方が、古本屋に出してね、当時は本も少しはお金になりましたから。――裕福な家だったんですよ。それで沢山の本がありましたが、主人が亡くなっては稼ぎ手もありませんでしたから少しでも資材を売って生活を小さくする必要があったのでしょうね。

 流れに流れて、中にはそのに嫌な顔をする主人たちも居ましたが、時代が経てば、この古い年号に親しみや思いを馳せて下さる人もいてね。

 つい最近、といっても私たちのこの感覚は人間にとっての十数年前に当たるでしょうか、古本屋で私を手にした女の子がね、この私に記入された文字を見て、夢心地な表情で、その文字列を指でなぞるんですよ。まだ彼女も生まれていない年に書かれた筆記を何度も何度も目で追って、そこからヒントを得たのでしょうね。その子は小説を書き始めました。その筆跡から始まる物語を。私が、一介の書籍では生まれなかったかもしれない。私と同じものが、何千何万とある中で私は大層誇らしい気持ちでした。未だ世に出ていないその素敵な作品は、彼女と私の秘密の宝物です。その後も色々なところを転々としてきましたが、もうフイルムはボロボロだ」

 

 真音は優しく表紙を撫でる。


 ――もう十分。もう充分なんだ。そんな気持ちになってしまってねぇ」

 ひとしきり自分の歴史を話し終えたそのは、満足そうに息をついた。


「真音。この人、あ、この本、どうするの……」ずっと昔の名前、買った日付と土地名の記された、その本について、占は真音に尋ねた。

「……燃やすわ」羽織の裾からマッチ箱を真音は覗かせた。小さく言った。

「え。燃やしちゃうの?! でもまだ十分読めるよ。家に置いたらいいじゃない」著名作家の作品の少し色あせてはいたがまだ綺麗なページを、一週間かけてやっと占は読み終えた。時代と共に消えて行った言葉を占が分からなければその本は丁寧に説明して教えてくれた。深い知識と礼節を持つ本だ。

 ――私がそう願ったのですよ。お兄さん。もう私は十分目を通してもらった。ずいぶんと、素敵な眼差しに出会ってきた」

「でも……」

「役目を終えた物は、はやくあちらに行きたいんだ。そうすれば埃にまみれて詰まらない夢に眠るよりよほど良い」

 相変わらず、執着のない那月の言葉は容赦ない。

 ――この殻と離れれば、また前の主人とも会えるかもしれないからね。やはり物としては一番かわいがってくれた人の所に行きたいものさ」

「でも、縁、君は人の終わりと、物の終わりには別の世界があると言っていたよね。僕たちがあの、明かりをもらいにあちら側に行っても、幽霊は居ないように」

 当たり前の事なのか、彼らの常識なのか、説明の最初の言葉を選ぶ博識な糸切鋏に、絵の中の青年セニが割り込む。

 

――終わりは、区別ができない所に溶け込むと言うことさ」

 ますます理解に苦しむ占に、

 ――そもそもきみたちの言葉と、俺たちの言葉が違うから、答えも同じにならないけれど、縛る言葉がなくなれば、世界も溶けて、意識も溶ける。つまりは、……こう思っていたらいいさ。――あちらに行くと言うことは、意識に入ること。自分の世界を持つこと。会いたい人でもものでも意識に溶け込めば、いつでも会えるってこと。逆に言えば今の俺たちは、かたちに縛られている、ということさ。世界は一つであり、一つでないんだよ」

「僕たちにとっての、死、と言うことなのかな」

 ――おいおい、そんな鎮撫な単語使うなよ。せめて、そうだな、『終わりを知る』とでも言って欲しいね」

 人と同じ姿を額縁に留めるセニが低い声で言った。

 ――物があちらに行くにはどうしたらいいの?」占は真音に尋ねた。

「……自然と形が崩れればあちらに行けるの。私は燃えるものなら火を点ける。その方が綺麗だから。でも普通は、古くなるまで使って、壊れたら修理して、それでももう使えなくなったら、『ありがとう』って心の中で言いながらゴミ箱へもっていけばそれで物たちは十分なのよ。それが、終わりを知る、ということなの」

 真音は敬意のまなざしで本に視線を落とす。

「そんな簡単でいいの?」

「そんな簡単なことができる人がどれだけいると思う?」

 口の端を斜めに上げて、皮肉的な笑みを浮かべる妹を複雑な表情で占は見守る。


「ほんとうに、もう、いいの?」

 占は最後の質問をした。言葉を付けたそうと思えば、いくらでも付け足せた。

『使ってもらいたくないのか』『この世界に居たくないのか』『僕なら、退屈しのぎ、させてあげられるかも』。

 そんな烏滸がましい慰めは喉に突っかかって出てこない。


 ――いいのさ。あんまり長く居たのでは、この世界を知りすぎてしまう」

 真音は鮮やかな火をともすと、それは濃紺の庭に、夜の花が流れるように次第に花びらを開き始め、灰色の煙とともに空に舞い上がっては天に消えていった。

 花の咲いた本を持つ、やけどをしそうな真音の手から、占はそうっと本の形をしていたものを預かり、形がなくなるまで見送った。


「ありがとう」占と真音は言った。


 ――ありがとう」

 炎の色が幸せそうなのは、占の感情と相反していた。

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