第11話 朝

最近は朝が弱い真音に代わって朝一番に起き、朝食を用意する忙しない占が今朝は見えなかった。しかしキッチンにはしっかり祖父と真音の分の朝食が用意されていた。母はもう出かけたらしい。そういえば昨日彼女に会った時、今日から暫くヨーロッパで雑貨の買い付けをしてくると言っていた。身体を一つの巣に休ませることを知らない、彼らの母の常だ。

「おはよう、真音。占は、今朝早く出かけたみたいだぜ」

 そう話しかけて来たのは、占の説得を受けてやっと自身の絵の中に戻ったセニだった。退屈しているらしく、真音の居る方向へ合わせて店内に置いてある絵を伝って移動しては真音に話しかける。

「そうみたいね」

 昨日はセニの件で持ち出した絵を、レトロ館で彼本来の家に戻した。

 同じ年ごろの友人ができたのがよほどうれしかったらしく、占と夜通し話こんでいたことを真音は知っていた。

 早く仕事を済ませてしまおうと、午前中に再び村井家に絵を返しに行った。

 

 焼きたてのスコーンとダージリンティーでブランチ中だった村井夫妻は、真音を招待した、幸せな朝だ。

英恵はなえさん、悦治えつじさん、この前は急いでいてお礼、言いそびれてしまったんですけれど、ロンドンのお土産、ありがとう。クッキーとお茶、美味しかったわ。占もおじいちゃんも喜んでいました」

 夫人は笑った。「まったくねえ、せっかく行って、まさか時計台が白い布に包まれているなんて、残念だったわ」

 念願のロンドン旅行に出かけた夫妻だったが、大規模なメンテナンスのため、観光名物ビックベンを見ることが叶わなかった。

「君はまだそれをいうのか。散々真音ちゃんに愚痴をこぼしたのに」

「だってねえ、子供のころからの夢だったのよ。ピーターパンを読んで、どれだけいままであこがれていたか、この目で見たかったか! 私だっていい歳、あと何回海外旅行なんて行けるかわからないのよ」

 少しムキになって夫に反抗したあと、恥ずかしそうにうふふ、とまた笑った。

「ああでも。ビルばっかりでイメージとは少し違った街並みになってしまっていたわね」

 この人は変わらない、少女のように笑う。年を取った少女なのだ。真音は言った、

「英恵さん、次はたぶん大丈夫です。しばらくは、あの時計の気は変わらないと思うから」


 帰りみち、神社を通った際、真音を呼び止めたのは占だった。

 白衣に松葉色の袴を着て、白足袋を履いた彼は、境内の掃除をしていた竹箒を片手に。実家で着慣れていたのか和装は板についている。

「僕、神社でお手伝いすることにしたんだ!」

 開口一番に、眩しいくらいの占は上気を帯びた顔で言った。真音(の記憶には薄いが)と占の父は宮司である。縁があってか、祖父健次郎の店裏の富士山を祀る神社の宮司も彼らの父の知り合いで、父の神社を継ぐかもしれない占さえよければ祭事や雑事などの手伝いをしてほしいと祖父伝いに連絡があったそうだ。

「真音が言った通り、僕は僕に出来ること、ちゃんとやろうと思う。神社でお手伝いすることが直接解決になるとは思えないけれど、……なんて言うか、何か、したいんだ。見つけたいんだ。……僕自身と向かい合おうって思ったんだよ。勿論真音の手伝いもする。真音を置いて行かない。もう二度と一人にしない。だからお兄ちゃんを、僕を頼って。もっと、頼りがいがあるお兄ちゃんになるからさ。真音を見ていて、大好きなモノ達に礼節のない人間が嫌いって言っていること、よくわかった。そういう人は、悲しいけどたくさんいるから。でも、だから、僕が人一倍真音の手伝いを、『モノ』を助ける手伝いをする。だからそれで、チャラにならないかなあ……」

「占に私の何が分かるっていうの」

 出来るだけ兄を遠ざけるように、冷たい言葉を選んだつもりだった。自身の選択に自信があるのか、満足そうな彼にそれが伝わったかは分からなかったが。新しいことに対する期待で輝く瞳には何か逆らえない気がする。

「正直……わかんないけどさ。僕には何にも。僕自身についてさえ……好きとか、嫌いとか、やるべきこと、とか、目標、とか。でもこれしか今僕のできることはないしね。とりあえず、ここから、やれることをやろうと思うんだ――まあ、この仕事もらったのもご縁かなと思って」

「ご縁……か。その言葉は嫌いじゃないわ」自分のいない間に妹に何があったのか、この空白をどう埋めたら昔みたいに一緒に笑えるか、占にはまだ答えは見えなかったが、朝露に濡れた桔梗のように凛として、真音が静かに笑ったように見えた。


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