第10話 セニ

 真音が予想した通り、祖父が預かっていた絵画のなかにそれらしき姿は見えない。絵画の中を旅する「彼」を会話することができない彼が連れ戻す。恰好つけたはいいが、(真音にそれがどう映ったかは別として)無理難題、あまりにも現実離れした状況に軽くめまいがする。それでも困っている妹に良いところを見せたい一心、だった。

 幸い広くはない美術館で占は問題のを見つけた。すでに美術館の中の違う絵に移動してあたかも最初から描かれていたかのようにふるまっているが、青いターバン、手に持つ水瓶。間違いないだろう、何とも牧歌的な風景の中、牛や羊の群れを背景に、ギリシャ神話の登場人物が音楽を奏でるその絵の中に彼は居た。描かれている山々のさらにその遠くを見るように姿勢を真っすぐにして。

「セニ。君、セニっていうんだろう? 僕君を連れ戻しに来たよ。そこは君の世界じゃないよ。早く帰ろうよ。とりあえず、この絵の中に入って、僕たちの家へ帰ろうよ」

 そう言って持ち出す許可を得た額縁の絵を手前に持っていくが、うんともすんとも言わない。

「ねえ、セニ、お願いだよ。僕、君がいる、あの絵をまた見たいんだ」

 機嫌を損ねぬよう歩み寄ってみる。反応は無い。というより占には聞こえない。

 だめだ、彼の声はやっぱり僕には聞こえない。

 肩を叩いたのはイヤホンをしたままの真音だった。差し出した手に握られていたのは、空色の丸い琉球ガラスのピアスが一つ。どこかで見覚えがあるのは那月の片耳についていたからだ。中に浮かんでいる星の形をした砂が一粒入っている。

「片耳、開いているんでしょう? つけてみろ、ってこの子が」

 思わず髪に隠れた左耳を抑えた。中学も卒業してちょっとした出来心、好きな漫画のキャラクターに憧れて。痛いので片耳だけが限界だった。血流と共にジンジンと頭の後ろを伝わってくる痛みに後悔した後、気恥ずかしくいつの間にか髪も伸びた。左耳を覆う髪が怖くて外せない付けたままのファーストピアスを隠していることを確認した。――いつ気づいたの?

 と聞く前に真音は

「先に帰っているから」

 と硬い表情そのまま颯爽と出て行ってしまう。

 怖気づきながら、一カ月前に通したファーストピアスをとり、真音に渡されたピアスを付けた。頭の中に響く声は耳を澄ませてやっと聞こえてくるほど小さい。

「なかなか似合うんじゃないかな」気泡の浮かぶガラス玉はそう言った。

「……声が聞こえる!?」

「もう一度、あの子に話しかけてみなさいな」片耳を伝わってくる不思議な声を頼りに占は再び例の絵に歩み寄った。

「……セニ。戻ってきてよ。お願いだよ」

 ――嫌だね。あそこは退屈だ。俺はもっといろんなものが見たいんだよ」となりの婦人の竪琴をかっさらい、器用に弾いて見せながらセニは応える。

「ここは、君の世界じゃないんだよ」

 ――ここが俺の世界じゃないと、誰が決めたんだ? あんたたちは移動できる限り移動する。……宇宙へもね。俺もそれとおんなじさ」

「でも君が居ないとあの絵は完成しないよ」

「あそこには気の合う奴が居ないんでね」

「なぜ? 真音も、他の物たちもいるじゃないか」

「真音は優しいけど、女の子だし、話し相手にはちょっと物足りないんだ。……ていうか君誰?」興味深げに身を乗り出してセニは聞いてきた。

「僕は占。真音の兄だよ。僕が君の相手になるよ。退屈凌ぎになる本や絵も君の為に探してあげる。――だから」

 後は占が考えていたよりもとんとん拍子に事は運んだ。もとより軽い気持ちで家出したようすのセニは、占の提案にそれなら、と手のひらを裏返したように帰ることを承諾した。

 絵と人間とは言え、同じ年ごろの同性の友人ができたことが存外嬉しかったらしい。

(誰かが探しに来てくれることがそもそもうれしいのよ、と後で真音は言った)

「ありがとう。君が手伝ってくれたんだよね?」

 ――ガラスはね、なんでも通すの」

 感謝する占に空を閉じ込めたようなガラス玉はそう言った。彼女が言う「通す」、物との通訳に誇りを持っている彼女はあまり言葉を話さなかったが、彼女のお陰で、満月以外の日にもごく小さい声ではあるが占はモノたちの声を聞き取ることができるようになった。

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