第9話 絵から抜け出す男の子
店に帰ると案の定、客は居なく、彼らの母は仕事で外出中だ。
居眠りをしていた祖父が寝ぼけ眼で二人を迎えた。軽めに昼食を済ませた三人は、午後の予定を各々考えていた。緑茶を入れに真音は台所へ向かう。先ほど買った和菓子を出すためだ。
祖父が居る為か、那月は静かだった。何となく昼下がりの店内を眺めていると、壁にかけてある絵に目が行った。記憶の片隅にあった、占が幼い頃好きだった絵だ。レプリカなのか、誰が書いたのか作者は不明だが、おそらくルネッサンス期の作風だ。偉人や哲学者、ギリシャ神話の登場人物が複数描かれている。占はお気に入りの人物が居たことを思い出した。話した記憶はあまりないが、残像によれば、青いターバンに、褐色の肌、今にもしゃべりだしそうな得意そうな微笑みを浮かべた薄い唇。滑らかなタッチで描かれたしなやかな身体の青年が、――居なかった。
記憶の中ではしかとその青年の姿が残っているのに、そこには見えなかった。周りに描かれた人物と大仰な身振り、生意気そうな表情で心を見透かすような瞳の水汲みの青年が。そのスペースだけ不自然なようにも見える。
「どうしたの?」
真音がお茶を運んできた。
「い、いや、僕の記憶違いだと、思うんだけど、この絵、こんなんだったかなって思って」
「こんなんって?」
「ここに、ほら、だれか。――男の子が居たと思うんだけど」
真音が絵に近づいてきた。絵を一瞬じいっと見ると、その店内に置いてある絵という絵を覗き込む。
「……いない」
お饅頭を一足先に頬張る祖父健次郎に言った。
「おじいちゃん、先日、修理、頼まれていたよね。絵の」
「ああ、額縁を頼まれたね、木が痛んでいたものだから。ほら、村井さんのところだよ」
村井というのは、占も憶えがあった。自身の名高いコレクションを、自宅を改築して作った小さな美術館に展示している芸術が好きな夫婦のことだった。
「それだわ」
真音は大きなため息を吐いた。かけてあった上着を持つと、颯爽と出て行こうとする。
「あ、真音、お菓子は?!」
名残惜しそうに、楽しみにしていた大好きな小豆餡をふんだんに使った和菓子を後にして、占は妹を追いかけた。
ハーブの香りを含んだ村井家の開け広げている中庭を通りぬけると、そこは自宅兼小さな美術館の入り口だった。ドアを開けると、和装の老淑女が柔らかい笑みを浮かべて出迎えた。
村井
「あのう、英恵さん。先日、お直しした作品ですが、こちらの手違いで、仕上げをする前にお渡ししてしまって、もう一回、お預かりしてもよろしいでしょうか」
上品なその女性は喜んで、というと、彼女と占を中へ通した。
「――真音、どうかした?」占がそう尋ねたのは、家へ入る彼女の顔色が悪いような気がしたからだ。真音は
「那月、連れてくれば、良かった」
と、つい口にだした。不思議そうな顔の占に、
「苦手なの。美術館は」と小声で言った。
「へえ、物が好きな真音が、珍しいね。それこそ、絵と話すのなんて楽しそうなのになあ」
「だって、皆うるさいのよ。好き勝手言って。絵はおしゃべりが多いの。プライドも高いしね」
「どんなこと、言ってくるの?」
「人物は、うるさいわね。自分がいかに素晴らしいか、手掛けた画家の自慢とか、喋れることが嬉しくて、とにかくひたすら話しかけてくるの。今回の『セニ』は特に問題なのよ」
「セニ?」
「占が気づいた、家の絵から抜けだす男の子。常習犯なの。最近特にひどいのよ。あの絵の中にはたくさん人物が描かれているけれど、話したり、動いたりするのは彼だけ。とにかく好奇心が旺盛で、家の絵じゃ飽き足らず、人のものにまで侵入ってしまうなんて」真音は耳を塞ぐ。彼らの声は耳を介すわけでは無いので意味のないことは分かっているが、それでもそうせざるを得ない。
「真音、これ」ポケットから出したのは携帯音楽プレーヤーだった。散歩のお供に持っていく習慣で、先ほど外出した際にポケットに入れっぱなしだった。そっと彼女の耳にイヤホンを当てる。
「役に立つか分からないけど、少しは気がまぎれるだろ。セニは、僕が見つけてくる」
「……話せないのに?」
「会話が出来なくても、僕は言葉を知っている、つもりだよ」そう言うと、玄関に真音を残し、中へと入って行く。
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