第8話 みえるもの

 与えられた部屋は、三階の屋根裏部屋だった。窓から差し込む朝の光に目を覚ます。窓を開けて冷たい空気を部屋に迎え入れると、裏の神社の春の名物である桜の木々を上から見下ろす。住み始めて3日目の朝を迎えたが、占はこの家がすっかり気に入っていた。

 昨夜の疲れからか朝はもう10時を迎えていたので、一階で店を開け新聞を開きながら鎮座している祖父と自分にコーヒーを淹れる。足したミルクと蜂蜜で活力を得ると、薄いパーカーを羽織り、一人花見に出かけることにする。春休みがそんな気まぐれを許すので。

 彼自身が昨日思い出したように、満月の日しか聞き取れない「友人たち」の声は、今日は聞こえることは無かった。少しさみしいが、次の満月を待つことにする。真音は先に出かけたらしい。

 裏道を通って、白い砂利が敷き詰められた神社の敷地に入る。観光客は本殿に集まるので、本殿裏の山を背後にするこの道は、いつも人気が少ない。風に乗って桜の花びらが占の髪を掠めて落ちていく。――神社は好きだ。自分にとって、安心できる場所。

 桜を満喫した後、散歩のついでに近所の図書館に寄ってから、商店街、先日気になっていた甘味を買って帰ることにした。

 神社の出口を一歩出て、数百メートル歩いただろうか。異変に気が付く。

 一昨日この街に着いた時には気が付かなかった。新しい土地に対する好奇心の方が勝って、視界は表の方ばかりに行っていたし、裏手の神社のお陰で何よりこの土地は浄化されている感じがしたからだ。だけど今日は違う。

 無意識に息を止めて『それ』を避けた。

 声を出すな。気づかれる。

 何年たってもこれだけは慣れない。昨日気を引かれた甘味処のガラスに青ざめた自分の顔が映る。そして彼が目を背けた「正体」もはっきりと彼には見えている。

 何で僕なんだ。僕も真音みたいに理解できるものたちと仲良くなれる能力だったら良かったのに。

 愚痴も言いたくなる。驚いたとともにほっとしたのは交差点の曲がり角で真音に遭遇したからだ。頼りない双子の兄の如何にも嬉しそうな顔に、少し訝しい表情の彼女を認めたその直後、真音が「それ」に触れそうになる。

 付いてきてしまった!

 思わず彼女の腕を掴んで引き寄せる。

「何?」相変わらずそっけない目が彼をにらんだ。

「いや、その」

 真音には見えていない様子だったので、おそらく「正解」だ。まだ自分の感覚をしっかりと把握していない占の余計な『個性』だ。それは色とちがって確かなものでは無いから。というのが言い訳。もしかしたら自分の幻覚、妄想かも、そうであればいいのに。――ただのおかしい人に成り下がってしまうけれど。境界の分からない占には、人かと思ったら人では無かったことなど数知れない。だが今目の前にあるそれ、は明らかに人では無かった。「それ」から滲み出る生を棄てた不気味さと執念が占に確信を持たせた。年をとるごとに見えなくなるという父の励ましは今のところ無効だった。

 占に見える「それ」は真音には見えないのであった。勿論真音以外の人にも。

「もしかして、まだ、見えるの? ……幽霊」

「それを言わないで!! 寄ってくるから!」

 泣きそうな小声でそう言うと、しばらく間をおいて小さく頷いた。

 死者の魂が見える兄と物の声が聞こえる妹。なんて変な兄妹だろう。

 足早に「それ」から離れ、付いてきていないことに安堵すると占は言った。

「僕のは真音みたいに、明確に声が聞こえる訳でもないし、姿が見える訳でもなかったんだ。たまに目の隅に映る感覚だよ。通り過ぎてから『あれ、もしかして今』って思うくらいの。話しかけて来たことなんて殆ど無いし。でもここは……」

「良く見えるかもね、他の場所より」そういう真音は少し意地悪に、嬉しそうにも見えた。続けて、

「声も聞こえるかも」

「そんなこと言わないでよ!」

「帰りたくなった? 父さんの家に」

「帰らないよ!! 帰らないからね、絶対。でも不思議だ。縁が言っていた通り、この土地には何かあるんだ」

「そうなのかもね」

「そうなのかも、って、他人事みたいに。真音は不思議に思ったことないの? 物と会話ができるだなんて……」

「……私にはこれが普通だから。幽霊は見えないけれど」

「僕も真音みたいに能力も使いこなせたらいいのになあ」情けない声で言った。

「見えたり聞こえたりすればいいってものじゃないわ」言葉があるからさえぎられるものもある。嘘をついたり、争いごとを招く言葉を使う人間などは特に。

 真音の胸ポケットに入っているペン、通称先生が何か訴えたがっていたので真音は握った。

『私たちに触れている時間、通じ合いたい気持ち、聞こうとする気持ちが強い人ほど、私たち「物」も役に立ちたいと思うように、人の気持ちは強いエネルギーになると、私の先代の万年筆も申しておりました』真音の手に支えられ滑るように踊りだした文字たちは、前主人の筆記を強く引き継いだ、少し古臭くも見えるが気持ちの良い字体だった。

「そうか。じゃあ僕も鍛えれば望みはあるわけだ。真音のお兄ちゃんだし。……そういえば、なんでこんなところにいるの?」神社を通って帰ることにしたので些か安心したように占は言った。

「知り合いから頼まれごと。神社に居たんだけど、ついでにお菓子買ってきたの。おじいちゃん喜ぶから」占がまさに行こうとしていた店のものだった。

「……それ、僕の分もある?」買いそびれ、まだうっすら青ざめた表情のかわいそうな占に、真音はぶっきらぼうに言った。

「……まぁ一応ね」

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