第7話 灯

 青灰色の目をした老猫は占たちを待っていたかのように、

 ――真音。待っていたわ。そろそろ「明かり」への案内を必要としているころだと思ったから」

「わ。しゃべった」思わず口に出した自分の方が、ここでは異端だと悟った。

 ――あら、今日は一人じゃないのね。……坊や、正確にはしゃべったわけでは無いのよ。この世界は言葉で成り立っていないから、思いが通じるだけ。――初めまして、わたしはユノ。さくらがお世話になったのかしら。あの子の匂いがする」

「あ、真音の兄の占です。初めましてユノ。……さくらちゃん、あなたの事、心配しています」生まれて初めて猫と会話する占はどう言葉をかけたら良いのか分からない。変わって真音は、人と会話するように、もしくはそれよりも柔らかく、親しみと尊敬を持って言った、

「ありがとう。ユノ。待たせちゃったわね」

 ――違うのよ、真音。私が勝手に来たのよ。最近私が老いたのを心配して家の人があまり外に出したがらないから、真音と連絡が取りづらくて、こうするのが手っ取り早いと思っただけ。此処では時間はあってないようなものだから大したことないのよ、待つことなんて。

 ――さ、貴方たちはあまり長居しない方が良いわね。行きましょう」

 灰色の世界を案内する明るい青灰色の瞳に従って二人とテディベアはついて行く。

「僕達、どこに向かっているの? それにこの提灯、明かりが着いていないけれどいいの?」

「今に分かるよ。僕ら、明かりのお店に行くんだ」得意そうに那月は言った。こちらでは彼の四肢は思いのままに動くらしく、短い手足で大きな身振りを思う存分引き出している。宙に浮いたり、ずんぐりした手足で歩いて見せたり。それでは遅いので結局真音に抱きかかえられたが。

「明かりをもらいに行くんだよ」

 銀色の薄暮時に似た彼らを導く径が、ありもしない星影をどこからか攫ってきた。

「……明かり? 電球とか、火、とか?」

 色としては曖昧な、空間と呼ぶにはあまりにも無責任なその世界で、一匹の老いた猫を先頭に、真音たちは目的地に着いた様だった。老翁の手のようにしなびた骨だけの枝をしならせた、一本の大きな柳に、柔らかな、呼吸を伴った明かりが、――文字どおりそれは「明かり」だった。--火でも、電球でもない。蛍火に似た儚いそれは、たわわに実った果物のように木を灯していた。確かにあるのはただその木一本だったのに、次に目をそらしまた視界を持っていくと、木の下には小さな小屋、赤い小さな提灯で表を飾り、電球や、アズルのような異国情緒あるランプまで、様々な明かりを入れる器が吊るされている。真音は袖に手を滑らせると、しなやかな手首を少し大仰に皆に見せるように高くあげ、

「明かりをくださいな」と言った。手に握られていたのはいくつかのビー玉だ。――幼い頃占は、夏の陽光を弾く水に溶けたそれが、どんな宝石よりも価値があると信じていた。どこからともなく現れた「手」がそれを受け取ると、アズルには甘く、それでいて少し寂しい安心に包まれるような明かりが灯った。深い皺が刻まれた、長い指と目立つ節の太さは男性の手か。明かりを渡してから再びまた現れると、今度は占の持つ提灯を指さす。

「ええ、お願いできるかしら。帰り道を照らしたいの」

 ひらひらを子気味良く反応したあと、占の握る提灯に明かりが灯る。

「ありがとう」そう真音が言うのを聞いてか聞かずか、そこにあった店も、木も、たちまち蜃気楼のように遠くへ行ってしまった。

 ――終わった様ね」ユノが言った。

「おい、占。あんまり考えすぎるなよ。あれは何、とか、なんで、とか手が、とか」

 放心している占を那月が呼び戻した。間抜けな声が喉を通り抜ける。

「え、そっくりそのままそのこと考えてたんだけど」

「僕らに説明できるなら苦労しないさ。とにかく、自分の頭で考えても分からないのに、それについて考えていたら、『嵌るはま』ぞ。これは一種の毒なんだ」

「そんなに危険なことなの? 真音は、ずっと、一人で、こんなことしているの?」急に腹の底に寒気が走る。

「だから僕らがいるんだろ。お前なんかより、僕の方がよっぽど頼りがいがあるんだから」

「……ごめん。そう言う意味じゃなくて。僕が居ない間も、ずっと……? このことについて知っている人はいないってこと?」

「そうね、おじいちゃんは『知らないことを』知っていると思うけれど、ここに来る人間は私一人ね」

「真音一人だけ?! その、……危険じゃないの? 怖くはないの? だって、……『手』が浮いてるんだよ!?」

「どうして?」手なら私たちにもついているじゃない、といいたげな反応。

「僕は、怖いよ。だって、僕達『人間の世界じゃない世界』に居て、猫と言葉が通じて、手が浮かんでいるんだよ?! 真音がそんなところに今まで一人で行き来してきたなんて! 僕は、僕は何にも知らずに君を一人に……」

「私は、自分を『世界の全て』だと思ってしまう『人』の方が怖いわ。自分の力を過信して、他に対する尊敬の念もない……」真音の口調は嫌悪にまみれていた。

「真音……」――『そんなことないよ!』と確信をもって言うことは、占にはできなかった。自身にも「見えないもの」を見る苦い力が曲りなりともあるからだ。

他人からすれば彼の「妄言」が何度となく周りの人を不快にさせ、加えて自らを理解してもらえない悔しさを味わったことか。幼いながら人は皆、度の違う眼鏡をかけているのだと思わせられた。

「……占は、明かりって何で出来ていると思う?」突然、真音は音のない世界で控えめな声で言った。

「え? そりゃあ、火に始まって、電気……、とか」真音の求めている答えを一生懸命自分の中に探した。相手が欲しがっている答えを探してしまう自分の嫌な癖。小さい頃は探そうとしなくても二人の考えていることはいつも同じだったのに。

「……夜に対するささやかな抵抗なの」真っすぐな冷たい空気が一本の線のように一行の間を潜って行った。出口が近いことを示している。

「夜は、闇は、私たち『言葉を持つもの』には時々恐ろしいものになるの。だから、昔の人は、祈りと、魔除けと、願いを込めて明かりを作った。勿論、物質的に言えば私の言っていることはおかしいけれど、ここにはまだ本当の意味での『明かり』が残っているから、時々アズルの為に貰ってくるの。食事みたいなものよ。ペンにはインクが、鋏は研いであげないといけないように」

 ――そうね、真音。実際貴女のランプはこの街を守っているもの。ほかの人には分からなくても」猫は落ち着いた声で言った。

「私は、『物』たちが好き。それを作ったのが嫌いな人間で、私もその一人だけれど。物には『真相』が詰まっているもの。作った人、場所に残った『心の底からの気持ち』や切り取った世界の断片が。この世界ではそれが生きて、残って、形を持って先行している。だから私は此処を守りたいの」

 

 占は、「一体何から守っているの?」とは聞けなかった。彼女がどこかもっと、自分の知らない遠くへどんどん行ってしまう気がして。


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