第6話 猫のユノ

真音まとちゃあん」

 春休み二日目の朝は、真音を呼ぶ頼りなく可愛い声から始まった。

 まだ日の光が柔らかい時間。いつもより早く起きた祖父健次郎は客が来るには早い時間に店を開けた。こうした予想外の小さなお客が来ることもあるからだ。店に冷たいが澄んだ気持ちの良い空気を入れる。池底も透き通る水が湧く神社を抜けた風が店内にも届く。店に来慣れた様子の小学校低学年ほどの少女は、健次郎に大きな声であいさつをし、真音に要件がある旨を伝えた。

「珍しく真音はまだ寝ているみたいなんだよ。ちょっと起こしてくるから待っていてね」

 健次郎は昨夜真音が遅くまで起きて居たことを知っていた。控えめに呼んで、起きてこないなら、この小さな客人に温かいココアでも入れて少し待っていてもらおうと考えていたところに階段を下りて来たのは占だった。

「おお、占。ちょっとこのお客さんの相手をしていてくれるかな」健次郎は客の相手を孫に任せそそくさと台所の方へ下がっていく。

「あ、真音ちゃん! じゃない。……お姉ちゃん、誰?」

 占の真音そっくりな顔と暖色のセーターに隠されてしまった少年の体を見て、少女は言った。

 占は多少傷つきながらも

「僕は西条占。真音の双子のお兄ちゃんだよ」少し驚いた少女は、しばらく丸い目で占を見ていたが、やがて自己紹介をし、近所の小学校の2年生、瀬尾さくらと名乗った。彼女は唐突に、

「私のユノがまた居なくなっちゃったの」泣きそうな顔で言った。おろおろと困っているところにちょうど良く祖父が温かいココアを持ってくる。先日の満月の際、ぺらぺらと話しかけて来た賑やかなピューター製のマグカップ4兄弟、--ココアを注いでいない後一つは真音用だろう。--は、青が混ざったその銀色だけを反射させ今日は静かだ。おそらく真音以外にだけ。店の中ではいつもどおり、勝手におしゃべりを始めているかも知れないし、夜に備えてまだ眠っているのかもしれない。

「これをお飲み」それだけ言うと健次郎はまた店の奥へ入ってしまった。

 一口、幸せなカカオの香りとともにココアを口に含めると、落ち着いた様だったので占はさくらの話を聞いた。

「ユノって誰?」

「ユノはユノだよ」

「うーん?」

「そいつの飼ってる猫だよ」

 小さな男の子のような柔らかくクリアな声はテーブル上のクマのぬいぐるみから聞こえた。

「……へえ。猫ちゃんか。――あれ、なっちゃん、僕今日満月じゃないけど君の声聞こえるよ」

「知らないよ、ばぁか」占に対する口の利き方はまるで小学生そのものだ。

「またそういう口のきき方!」

「お兄ちゃん、どうしたの? 誰と話してるの?」

「あ、ごめん、なんでもないんだ。ちょっと、独り言。――で、君はユノを探して欲しくて真音に頼みに来たの?」

 意外な依頼に少し困惑していると、

「ようこそ、さくらちゃん。お待たせ」

 そう言って階段から眠たそうに真音は起きて来た。着物はしっかりと着かえているのにあくびをしながら。賑やかな朝に嬉しそうな健次郎が真音に渡したココアを飲みながらひとしきり少女、さくらの話を聞いた。毎晩必ず一緒に寝るのに一昨日の夜から彼女の猫、ユノは帰ってこない。こんなことが今までに無いことも無かったが、ユノはもう19歳のおばあさん猫であることが小さなお客を心配させた。真音は彼女のあまり変わらない表情で、しかし彼女にしてみれば精いっぱい柔らかい顔をして見せると、言った。

「任せてさくらちゃん。探すのは、きっと今晩が良いと思うの。きっと明日の朝にはさくらちゃんのもとへユノを帰らせるから、心配しないで」今までにもこんなやり取りがされてきたのであろう。それを聞くと安心したようにさくらは帰って行った。


「真音は猫も探すの?」

「専門じゃないけれど、彼女の猫は少し特別でね。ちょうどいいからアズル、今晩明かりを貰いに行こう」まだうっすら眠たそうにそう言い、占に聞こえない声でアズルは真音と話をしている様だった。

「やっぱり聞こえないや。――ねえ、なっちゃん」

「なんだよ、うるさいなあ!」

「やっぱり君の声だけは聞こえる。……なっちゃん、僕も真音みたいに毎日みんなと話すにはどうしたらいいのかなあ。練習すればできるようになる?」

「真音はお前と違うんだ。お前なんかに出来るもんか!」

 そう言った直後、威勢の良かった言葉は言い淀んだ。占には聞こえない「誰か」に諫められているらしい。

「……ああ、もう分かったよ! うるさいなぁ、縁! 言えばいいんだろ! ……『占は勘が良いから、もしかしたら、真音といれば、とにかく『あちら側』と繋がる機会が多くなれば、聞こえるようになるかも』って、縁が……」不貞腐れた声で言った。まるで反抗期の子供のような言葉遣いの態度に占は笑ってしまう。

「そうか。縁、なっちゃん。ありがとう」

「……一番大事なのは『気持ち』だって。僕達の声を聞きたいっていう気持ち。じゃ僕伝えたからね。もういいでしょ、縁。……真音ぉ!」

 手のひらを返したように姉に甘える弟の声になった那月は真音を呼び留め構ってほしいのか一生懸命話しかける。

 まだ足踏みして冷たい空気を含む春の一日を、占は店の掃除や主な収入源である依頼された修復に勤める真音と健次郎の手伝いをしながら過ごした。彼女の仕事に着いてくる気満々で夕方になるにつれ落ち着かない占を見て真音は言った。

「あまり私と一緒に行動すること、勧めないのだけれど」頬杖をついて振返るが、占の目を見ずに言った。

「どうしてさ」

「私は変わり者だから。占まで変な目で見られても、知らないわよ」指先で万年筆の「先生」を撫でて転がしながら言った。占には先生が何か言いたげに見えた。

「……人と違うってことはめんどくさいのよ」下を向いたまま言った。煮え切らない彼女の態度に、思わず占の口からは言葉が溢れでてきた。

「……『同じ人』なんていないよ。人と違うってことは、その人にしかできないことがあるってことだろ。それって凄いことじゃない。僕は真音がやっていること、かっこいいと思う。それでも真音が変な目で見られるなら、僕だって変な目で見られてやるよ。ねえ、連れて行ってよ!」

 占があまりせがむので、反対する気力もなく真音は連れて行くことにした。それに気力は今から大変使うものだから取っておかねば。

 店の奥から樟脳の香りとともに取り出してきたのは羽織だった。長い髪を祖母の形見のバチ型かんざしで軽くまとめると、占には祖父が昔使っていた学帽を渡した。そしてマントと下駄を渡す。これではまるで蛮カラだ。

「今から猫探しに行くんだよね?!」

 そうよ、とさも当然のように答えると、今度は占には時代劇で見るような手提げ提灯を持たせ、自身はテディベアの那月を抱え、ランプのアズルを店の天井から外し手に下げた。嬉しそうに填められたガラスを揺らす。

 頭のうえにはてなが乗ったままの占を残しそのまま店の外に出るので占は急いでついて行く。「今日はから行くんだね」真音に抱えられた白いテディベアが言った。

「うん、フラワーが、今日はその方が通りやすいって」

「真音、いい加減説明してよ! あっちって? この格好は?」17時を過ぎ、外は大分暗くなった。玄関裏の道から神社へと続く道に出る。おぼつかない下駄の足元で必死に真音について行く。

「この格好は、通行証のようなもの。長居するときは、昔の香りのする、古いものを身に着けていた方があちらに歓迎されやすいから」

「あっちって?」

「占もこの前時計を呼びに行っただろ? あそこと同じようなところさ。口を利かないものが行き来できる世界だよ」テディベアの那月は説明した。占は『動物が迷い込むこともある』と真音が言っていたことを思い出した。

「今日は、フラワーを通って行かないの?」

「毎回ドアと路が一緒とは限らないんだよ」着いたのは裏手の神社だった。湧水の作る池を跨ぐ赤い太鼓橋の上まで来ると、沈みかけた太陽がずっと遠くに見えた。

 夜が来た。池を囲む灯篭の明かりが水面を揺らす。昼間は多くの観光客で賑わうが、現在は一変、人通りは少ない。月明かりで暗がりの中でも水面ぎりぎりで泳ぐ魚の様子が伺えた。

 ――左から2番目

 真音は心の中でそう数えた。占の手を引くと、揺らめく泉に映る石灯篭に足を入れようとする。

「真音、何やってんの、濡れちゃうよ」

「いいから、真音のやる通りにするんだよ、占も。じゃないと本当に濡れちゃうよ」

 混乱する占の手を握って

「物質に騙されないで。ここは通行所なの。信じて、ここまで来たなら付いてきて」

 ――じゃないと帰って来られなくなる。

 水面へ、一緒に踏み出した足は濡れていなかった。重力は少しの間、自身の役割を忘れていて、生暖かい空気に包まれる。少し曖昧な視界は暗順応のようにすぐ世界に馴染もうとしていた。ぽんぽん、と足元を払いながら真音は占より先に立った。そのずっと上に大きな鳥居は朱が褪せていて。泉も、周りにあった風景も今は溶けてしまった、白い世界。

「来られて良かったね」

 馬鹿にしたように那月が言った。

「不思議だ……この前と、同じような感じだけれど少し雰囲気が違うね。温度とか、風を感じないのは変わらないけど」自分の手のひらを見つめ、開いたり閉じたりしながら、ここにある感覚をつかもうとする。

「変わらないものなんて、何もないのよ。特にここはこの世界の気分ですぐに変わってしまうから」

 足を忘れた下駄がカランコロン、二人の間を通っていく。

「へえ。僕達、ここで猫、ユノを探すの?」気分で変わる世界で、探すということは可能なのだろうか。

「そうよ。でも今日はその必要ないみたい。……ほら」

 占の後ろには、青灰色の目、その美しく冷たい色と正反対の、ベージュとグレーの温かい毛色をした老猫が出迎えていた。


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