第5話 モノの世界

――紫色の空だった。その他、世界は灰色だった。音は無い。空気がそこにとどまっているかのように風も無い。目の前には遮断機が斜めに刺さっているが、踏切は無い。

「真音ぉ、こいつ、付いてきちゃったよ」

あからさまに嫌そうな顔で妹は占を睨みつける。

「ご、ごめん」

真音はため息を吐き捨てたまま、辺りを見回した。

「来てしまったものは仕方がない。くれぐれも私たちから離れないでね」

 音のない世界に、人は彼ら以外居なかった。朽ちた道路のような、埃っぽい地面を真音の進むまま占は着いて行く。

目立った建物や家は無い。屋外のようだが、空と地面の境界も曖昧に感じる。

 乱雑に刺さった道路標識、転がるピアノの鍵盤、どこかの朽ちたコンクリート塀。ふいに現れた張りぼての住宅街に、小さな祠が無数に並ぶ。二人とテディベアの後ろを路面電車が滑って行った。乗客は見えない。

「ここは、何? ……めちゃくちゃだ」

時代錯誤の看板や朽ちたアスファルトの地面にまばらに見える祠のようなものは不気味で、傷みきっている。人が通るには小さい赤い枠組みの障子扉が所々に棄てられたように地に被さっている。

「物の世界」

「物の世界?」

「私にも良く分からない。でも、人以外のものが出入りする、特別な場所」

「生き物が居ないってこと?」

「……動物が通ることはあるわね。彼らは勘が良いからすぐに帰ることができるけれど。ほら、あそこ。魚」真音は空を漂う魚を指さした。彼は跳ねるとどこかへ消えた。「……とにかく、私以外の人間はここに来ることはまずないわ」めんどうくさそうに真音は応えた。

「そうなんだ……で、何をしに来たの?」遠くで何かの看板の電光が光る不気味さより、好奇心が勝っている。

「ちょっと気難しい方を説得に」

昔から表情の読みづらい真音だったが、占には彼女の高揚と緊張が読み取れた。

真音の後を付いて行くと、小高い丘に着いた。下を眺める一本の木は時が止まったように静かだ。栗鼠が一匹、走ってきて、木の実と地面に埋め、ポンポン、と確認するように叩いた。そしてせわしなくまたどこかへ跳ねて消えていった。

「こんなところに埋めるから、どこに埋めたか忘れちゃうのよ」


 灰色の丘から下を見下ろせば、水槽の中を漂うように近代都市のビルが見える。木の横に佇んでいるのは時計だった。真音の背の高さほどもある、塔の形をした、四角い時計台だ。

「こんにちは」

真音は時計の横に立った。

――こんにちは、お嬢さん。貴女、随分と背が高いんだねえ。はじめてだ。人と目線が合ったのは」

「……此処では大きさの感覚は曖昧なの」

――そうかい。――そうだろうね」――どこかで見たことがある、占は思った。

「……貴方が動かないんで、多くの人が悲しんでいるわ」

――……そうか。ちょっと、長居しすぎたかもしれないね。日がな一日働きづめで同じ景色を見ているので、たまには冒険してみたくなったのさ」

「せっかく貴方を見に行ったのに、白い布で囲われてしまっていて見られなかったって私の友人が悲しんでいたわ」

――ははは。それは悪いことをした。何分、古いものでね。メンテナンスが欠かせなくなってきているものだから。その頻度も多くなったものだ」低く、温かい声だ。

「……何か、私にできることはない?」そういう彼女の横顔は、昔と変わらず喜怒哀楽が分かりづらいがとても優しく見えた。

――いや、ただちょっと息抜きのつもりだったんだ。じきに戻るよ。ただ……そうさね、こうやって会えたのだから、それも私の声が届く人間に。一つだけ頼みごとを聞いて欲しい」

真音は快く引き受ける。

――もし君が私に会いに来ることがあったら、私が灯す時間を見て、動く針を見て、そこにぜひ永遠の国を、もしくは君の想像する物語でもいい。何か楽しいことを、思い描いて私に笑いかけておくれ。近頃は人々が、街が寂しすぎる。私を瞳で見ずに、レンズに収めて満足してしまうんだ」

「ええ、喜んで。いつかあなたに表の世界でも会いに行くわ。それに……そう願う人は、少なくなってしまったかもしれないけれど、確かに居るわ。……心配しないで」

――それと……」占は、無いはずの『視線』が自身に一瞬向いた気がした。

――……兄弟は仲良くする方がいいね。物語はいつだって幸せでなくてはならないのだから」

「……努力するわ」これにはため息交じりで。

――おじいさん、真音は人間嫌いなんだよ」白いテディベアが付け加えた。

小さく時計台は笑った。つられて鐘も小さく鳴った。

――そうかい、可愛い坊ちゃん。人間嫌いの人間か、それは大変だな、そうかそうか。真音、と言ったね。いいかい、真音。君が私を見つけに来てくれたように、君を見つけてくれる人も、君が必要とする人もきっとこの世界にいるからね。宝探しをするつもりで、毎日を生きると良い。君たちの命は我々よりはるかに短いのだから」

時を告げる鐘が、双子を見送った。

 ぴんと張った糸のような真音の緊張感は溶けたので、一段落付いたようだ。

「良い『人』、というか『時計』だったね」

「そうね」あまり怖がったり驚いたりしない占に、真音は少し驚いている。

「これが真音の仕事?」

「……うん」短く言った後、

「これだけじゃないんだ。西町は時々不安定になるんだ。あちらの世界と人間の世界のバランスが崩れる。真音はそのバランスを整えているんだ。どちらも主体にならないように」テディベアの那月が得意そうに言った。


「……モノたちを作ったのは人間だから……私はただ、まだあなたを必要としている人が居ますよって、彼らに伝えるの。それだけしか、できないけれど」ほんとは、人間なんて、好きじゃない。非情で傲慢な人が多すぎるもの。きっと私も含めてね。――言葉に出したかったことはうまく口から出てこなかった。

「素敵だね」

「……そう思う?」

「思うよ。僕がもし物だったら、ううん、僕自身、誰かが必要としてくれているって知ることはとっても嬉しいもの。それは人だって、物だって同じだと思う」

「気味悪がらないのね。……占なら、すぐに逃げ出すと思ってた」

「僕は真音のお兄ちゃんだよ!? 真音を置いて逃げたりなんかするもんか。――確かに最初は少し、怖いというか、びっくりしたけど」

自分とは正反対に、素直すぎる双子の兄の率直な言葉を受け取るのは真音には少し困難だ。

「――ねえ、真音、僕にも何か手伝わせてよ」占は続けて言った。

「でもお前、満月しか僕らと話せないんだろ、それって役立たずじゃん」かわいい容姿とはかけはなれた台詞がテディベアから出てきた。

「前から思ってたけど本当に毒舌だな、なっちゃん」

「気安く呼ぶな!」

「――私には、私のやることがある。これは、占が、あまり関わらない方がいいって思っている」ぶっきらぼうに答えたあと、「――たぶん、占にはきっと、占にしかできないこと、あると思う」少し緊張が解けたのか、帰り道、真音は少し柔らかくなった声で、そう言った。

占は、『できないことがあるのは、ほかにできることがあるっていうこと』昔、祖父がそう言ってくれたことを思い出していた。


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