第10話
その日、マスターの館の厨房からは朝から食欲を唆る匂いが漂って、弟子たちの頭の中は肉料理やポタージュや甘いケーキでいっぱいになっていた。
マスター・ナルは全ての授業を中止にして、さらにその弟子たちに仕事を全て任せて料理に没頭している。
再びの休日、玄室に臨む日も決まった最後の休日。エリスはナルの言った通りにミリアを館に招待していた。ミリアは喜んでその招待を受けて、夕刻にはやってくる予定だった。
「エリスさま、マスターは何をしてるんでしょうね?」
若手の一人に尋ねられたが、
「お料理でしょうね…」
(まあ、そのままよね…)
若手魔法使いのやや困った顔を見て思った。
「何日もいらっしゃらなかったりするからです。最近はマスター・ナルさまが不在の日も多いですよ」
「不満なの?」
「そういうわけではないんです。ナルさまもご研究がありますし、行くところもあるのでしょう…」
「行くところ?」
ふと、気になった。
「あなた何か知ってるの?」
「ご存知ないですか? ナルさまのご研究が、魔法だけでなく異界だって」
「異界?」
弟子は口籠った。明らかに(やばい…)という顔をしている。
「ミリアさんよね? いつ頃くるの?」
いつの間にかナルが厨房から出てきていた。
「お料理は大丈夫なの?」
「お肉を蒸してるところだから離れても大丈夫」
「夕刻には」
「そう。ラーファちゃん、あなたたちの分もあるからね。わたしたちは別の部屋にお客様を迎えるけど、食堂にお料理置いとくからね」
「はい」
弟子はにこやかに返事をして、エリスと目を合わせないようにそそくさと立ち去った。
ナルは少し笑って言った。
「あなたっていい人なんだけど、ちょっと近寄り難いわよね」
「そうね」
「でもここでマスターやるならいいかもね。教える側は、本当は怖がられるくらいがいいわよ」
そこかしこに食欲を唆る匂い。ナルは相当に料理が得意なようだ。
「ラーファのことは気にしないの。いずれわかるよ。わたしだって最近まで自分が誰かわからなかった」
気になる物言い。
ナルは何かを考えている。そのために、玄室へ、最近も? しかしどうやって。また臨時でパーティーを組んで?
「ミリアさんが来るまでお茶でも飲む?」
…しばらく話していた。
他愛のないことだとエリスは思った。
パーティーの仲間のことよく知ってる? 今日仲間をご招待して、と言ったのも親睦を深めるためよ。お互いのこと知らないとダメよ。
実力は把握してる?
後で知らなかった、て大変よ。
玄室に行こうってくらいだから高レベルなのはわかるけど、みんな呪文は全て習得してる? いい? 全て(これはのちの戦闘でエリスが思い知ることになる)…。
内なるリリスが反応する。ナルに。
(どうしたの…?)
引き留めるような、心配するような、そして懐かしいような。
そう、懐かしい。
反応する自分の中のもうひとりの自分。
自分が誰なのかを知った女性…。
外が薄暗くなる頃、ミリアが訪ねてきた。
背後にはリョウもいた。
聞けば、
「今日ね。お墓に行っていたのよ。それで彼、今日あなたにお呼ばれしてるって言ったら送って来てくれたの。帰る頃に迎えに来てくれるって」
ミリアはどこか嬉しそうだった。
リョウは軽く頭を下げると、「後で来る」とだけ告げて帰って行った。
エリスは疑問を振り切ると笑顔を作った。
いま考えていても進展しない。たしかに生き残るためにも、ここではリラックスして仲間のことを知ることの方が大切だ。そのための時間。
生き残るためにも。
「リョウも来てよかったのにね」
「彼、気を遣っちゃうわ」
「…そうかもね…。どうぞ入って」
ナルは自室のリビングでテーブルセッティングをして待っていた。
テーブルの中央には大輪の花を飾ってミリアを出迎えた。
晩餐の始まりだった。
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