第2話

 不思議な女性だと思う。人間属のこの姉弟子はいつも書庫で本を読んでいるか、マスターの助手として新米の魔法使いたちに教えを解いているかだ。エリスの疑問はほかにもある。ナルは属性が中立であることから、さらに上の司教職は望めないものの、すでに僧侶系魔法も全て習得したエリスさえも凌ぐ何かがあるような気がしてならない。彼女から感じるのは冒険者以外の、むしろ町人が持つ緩やかな、日毎日毎を感じさせる空気だ。迷宮に挑む者たちは、属性が善であっても、あの暗闇の世界が持つ湿った鈍く重い空気を纏っているものだったから。彼女もかつては迷宮で経験を積んでいたことはわかっているが、今もなお彼女の実力を聞きつけた冒険者たちの勧誘もあり、それもエリスの誘い同様、にべもなく断っている。


「引退したの」


 それしか言わないのだ。


 玄室に挑むのは三日後に決まった。実力は十分につけたとはいえこれが本当の、最後の戦いになるはずだ。生還できる可能性は100ではないのだ。パーティーは各々が自分の時間を過ごしていることだろう。エリスは自室で妹・リリスの残した革鎧を見つめながらしばらく逡巡していた。自分を高めてくれた迷宮。妹の命を奪った迷宮。その際深層で自分は何と向き合うのだろうか。




 歌うような声。詠唱のようなエリスにとって身近で迷宮の闇を連想させながらも響く美しい声。


 ナルが歌っていたのだ。古い魔法。


 魔法? 魔法だ、これは。大凍(マダルト?)違う。似てるけど違うもっとなにか上の。きっと恐ろしい…。でも彼女の声だと優しく響く何か。でも物悲しい。何が悲しいの。


 何があったと言うの? エリスは思った。ああ夢を見ていたんだわ。3年前に妹のリリスを失ったあの時。カント寺院からリリスの装備品だけ持って帰ったあの時。

 姉弟子のナルは抱きしめてくれた。「大事な人を亡くしたのね」そう言った。書物に埋もれそうな暮らしをしていたナルが。泣きそうな顔をしていた。何を知っているの。でもきっとあなたは何か大事なことを知っている。修行とか関係なく。あなたの感性。あなたの心。優しさ。属性を超えたもの。


 歌うように詠唱する。失われたスペル。なぜ知っているの? ああ、彼女は魔法使いであり研究者だ。数千年前のことだって知っているだろう。


 悲しさはそこにあって。ナルは話した。

 

 数年前、マスターレベルの魔法使いであり中立の属性であったナルは、様々なパーティの補佐をしていた。迷宮でパーティが、半壊して仲間の遺体を回収しなくてはならない者たち、まだ初級レベルの者たちのサポート。

 研究が主だったナルはパーティを組んで迷宮に挑み、ワードナを倒すことをそもそも目的としていなかった。必要があればあくまで一時的な仲間として様々なパーティに参加した。

 

 ひとつだけ定期的に参加していたパーティがあり、心優しい善のパーティは中立とはいえ彼女の心を和ませた。

 

 とはいえ、臨時のパーティであったため、しばらく音沙汰がなかった。

 助けに行った。地下9階で消息が途切れたから。それを聞いてギルガメッシュの酒場で熟練のロードとサムライに頼み込んで臨時のパーティを組んでもらった。

 

「このメンバーでは君も前衛になってしまうよ」


 そう言われても飛び込んで行った。


 熟練パーティでも3人で挑むことは危険すぎた。

 善のパーティの遺体の回収は3人までがやっとだった。2人の仲間に大柄な戦士たちを任せ、ナルは死んだ仲間のひとり、比較的軽量のエルフの僧侶をどうにか肩で支えて、進んだ。残った仲間たちの遺体に(すぐ迎えに来るから。)そう言ってその場を離れた。


 どうする? 

 

 地下9階とはいえ完全とは言えないパーティ。3人の中でも革鎧さえ纏えないナルは、地下4階でエレベーターを使うまでに予想以上に魔力を消費していた。直接的なダメージを受けたらひとたまりもない彼女はすでにティルトウェイトも使っていた。気がつけば第7レベルの魔法はあと1回しか使用できない。


 どうする?


 いまは戦力が低い。個々のレベルは15を超えていても人数が少なすぎる。この状態では下手に動くよりもマロールで帰還した方が安全だろう。ならば第7レベルの魔法は残しておかなくてはならない。


 しかし、グループの敵と対峙した時、その考えは変更せざるを得なくなった。たった3人、しかも前衛に魔法使いがいる段階で悠長なことは言っていられないかった。


(ティルトウェイト? でも。あとがない。)


 第7レベルには及ばなくてもグループにダメージを与えられる魔法。ナルは失われたスペルを思い出していた。








 

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