夫の失踪
松本純
第1話 写真
カウンタ越しに渡した写真を見て、小太りのママは大声を上げた。
「これって、女装してないから、分からないわ」
私が紙袋から夫のクローゼットから持ち出した服を取り出すと、ママは情けなさそうな顔をした。
「こんな平凡なワンピなんて、なんの助けにもならないよね。それより、女装した時の写真はないの。女装名は」
私が首を振ると、ママはカウンタの向こうの椅子に腰をかけた。
「こういう店って、B面で来ないのよ」
私が言葉の意味が分からず黙っていると、
「B面というのは、ビフォーね、女装する前の状態のこと、A面というのは女装後のこと。この人、あんたの旦那なんだよね、女装したら似合いそうないい男ね」
ママの皮肉を込めた言葉に、私の気持ちは落ち込んだ。私はため息をついて、写真をバッグに入れて、店から出ようとした時、後ろからママの声が聞こえた。
「ずっと、こうやって、一軒ずつ回るつもりなの」
今日で三日目で、まったく、糸口すら見つかっていない。振り返って見ると、ママの表情が「大変ねえ」と語っていた。新宿二丁目を中心とした界隈には沢山の小さなバーが乱立している。しかも曜日でスタッフも変わる店もある。しかも、人探しというと門前払いされる場合が多く、この店のように話を聞いてくれる店は少ない。
「あのさあ、この界隈だけで、バーが何件あるか知ってる」
ママの言葉に、苛立ちを覚えながら、何か言い返していいか分からず、口ごもっていると、「カラン」と、店のドアが開いたことを知らせる鈴の音が鳴った。背の高い女性が入ってきた。
「いらっしゃい」
ママが立ち上がって挨拶すると、その女性は大股に歩いて、私のいる背後のカウンタのスツールに座った。美人だが、よく見ると、顔の作りが骨ばっており、手も女性にしては大きい。その女性はアルコールのメニューを手に取りながら、私をじっと見た。
「ママの友達なの。この純女さん」
その声は男性のものだった。
「人を探ししているんだって」
女性のきれいな顔とアンマッチな低いトーンに驚いていた。
確かに美人なんだけど、わざわざ女装までして、こうやって酒を飲みに来るのか、私には理解不能だった。そんな私を、男性は興味深げに見ながら、カクテルを注文した。バーのスタッフがカウンタに来て、おしぼりを置いた。
その男性はスタッフと楽しそうに会話を始めた。夫の隆もこうやって女装している方が楽しかったのだろうか、ここ数年、私と隆の会話の数は減っていた。
「そうだ、あなたの旦那って、家で着替えとかしていたの」
ママの声で我に返った。隆は休日はいつも家にいたので、女装しているとしたら、平日だろう。
「家ではしていないと思います。会社帰りに新宿に来て着替えていたと思うので」
「じゃあ、お着換え部屋とかで着替えていたのかな、真理さんもそうよね」
ママに真理さんと言われて、傍にいた男が顔を上げた。
「私は田沼ビルの四階のお着換え部屋を使っているわ。家じゃあ、嫁がいるので着替えられないし」
この人も既婚者、隆も同じような事を考えていたのだろう。
「同じお着換え部屋だと、B面を知っているかも」
ママが言うと、
「お着換え部屋で、化粧落とすからね、B面を知っている人は多いよ。でも、私のところは鍵もらって、勝手にロッカーに入って、全部セルフサービスなので、女装同士が話をすることって少ないのよ」
真理さんはそう言うと、「写真を見せて」と、私に手を伸ばした。私は隆の写真を渡した。
「うちのロッカーにはこの人はいないかも。大体、女装する人って、曜日決まっているのよね。その人、何曜日に女装してたの」
そんなの分かるわけはない。私が首を横に振ると、真理さんは写真を返してくれた。
「この写真を印刷して、尋ね人みたいな張り紙をしたら」
真理さんが言うと、
「脱走した猫じゃないんだから、それは無理よ」
とママが笑った。
もう、旦那が失踪してから、一週間になる。旦那の会社に電話をしても、病気でしばらく欠勤との連絡があっただけで、診断書も出ておらず、逆に、こちらが質問攻めにあった。
「B面の写真じゃ、探すのは無理かも、もう、お客さんも増えてくる時間だから、どの店に行っても話を聞いてくれないと思うわ。今日はもう帰ったら」
途方にくれている私にママが言う。今日も一日、終わりか、落胆して、バッグを手に取ったところで、
「ねえ、ママ、この人のジントニック、お願い」
真理さんの声が聞こえた。真理さんは私のバッグに手を置くと、スツールに置くと、
「いいから、おごるよ、ちょっと話をしようよ」
と笑った。改めて見ると、三十代半ばくらいの年齢、ちょうど隆の姿がなぜか女装姿の真理さんにかぶった。私は真理さんの隣に腰を下ろした。
夫の失踪 松本純 @m_chiyuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夫の失踪の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます