第八話 ないものねだりは、酔っ払いの基本行動。

「下古川っ、ちょっと来なさい!」


 昼休憩が終わった直後の、最も集中力が発揮しやすい時間帯。しんと静まり返り、キーボードを叩く音だけが鳴っていた事務所内の静寂は、部長の怒声によって破られた。


「は、はい……!」


 本能が弱者であると自覚しているのか、惨めにも体は大きく跳ねた。怯え腰のまま、部長のデスクへと向かう。怒られるようなことは見当もついていなかったが、動悸は激しくなり、冷や水を掛けられたように頭は寒気を感じていた。


(帰りたい……今すぐにおうちに帰りたいよう……!)


「来月頭の新製品のスケジュール。まだ立案できていないんですか?」


 苛立ちをまるで隠す気の無い、低い声。老化から来る皺は、一層に数も深さも酷くなっている。


「で、できてるはず……ですけど」


「はず? まだ共有されていないと、問い合わせがありましたが」


「そう……ですね。未だ、部長からの承認をもらえていないので……」


「ん、私からだって?」


 目つきが一層に強くなる。責任転換を疑われているのだろう。けれど、それが事実だった。


「はい……。2週間前に、承認を頂くための書類は提出しておりますし……1週間前には催促のメールを入れさせて頂いておりますし、受信BOXを見れば……」


「1週間前のメールなど、残っているはずが無いだろう!」


 部長がデスクを叩くと、机上のマグカップが揺れ、からりとした音が鳴る。


「ひっ……っ、ど、どうしてでしょう……?」


「どうして? 読んだメールは破棄しているから当然です。出ないと、容量が一杯になってメールが受信できなくなる。そんなことも分からないのですか?」


 メールの容量なんて、たかが知れている。削除するメリットは皆無で、仕事の履歴が残らなくなる、デメリットの方が圧倒的に多いだろう。


「えっと……」


「なんだ、私に口答えをするつもりですか?」


「も、申し訳ありません……直ぐに、お手配致します……」


 とはいえ、言えるわけも無い。

 パソコンや機械にめっぽう弱い年配の人に伝えたとて、正しく理解してもらえるか怪しいだろう。何よりも、嫌いな部下から物を教わるというのは屈辱に感じるはずだ。こちらが折れた方が傷は浅くて済む。

 背後にピリピリと刺さるような部長の視線を感じながら、自分のデスクへとそそくさと戻る。

 隣の席には、朝ミーティング中に部長へと告白したことから、部長近くの席から引っ越してきた天音先輩が居た。「大丈夫ですか?」と心配そうに、こちらを見ている。

 叶うことなら、泣きついて頭を撫でてもらいたいくらいだ……そんな欲望が鎌首をもたげたが、妄想の中で押しとどめておく。会釈だけ返すことにした。



 書類の再発行を終え、部長が俺の失敗談をネタに他の社員と雑談に花を咲かせているのをBGMに黙々と仕事を進めていると、

 とんとん。

 隣の席、天音先輩がボールペンでデスクを小突いた音だった。

 俺のデスクと天音先輩のデスクのちょうど境界線となる溝の上に、一枚の付箋が置かれている。


『今日の夜、ご飯でもどうですか?』

 

 ほとんど反射的に問題無い旨を書き込んで、俺もデスクを小突く。

 付箋を受け取ると、天音先輩の表情はぱっと華やいだ。


(ああ、この人がいれば仕事いくらでもできるわ……)


 窓際社員故の肩身の狭い扱いは相変わらずなものの、救いの手が一つあるというだけで、こうも強く生きていられるのか。すごいな天音先輩。俺にとっての特効薬が過ぎる……。


 だが、そんな彼女の頼りがいのある先輩像からかけ離れた姿を、俺は知っていた。


「お願いします。たこわさを作ってください」


「お客様。ですから、メニューには無くてですね……」


「はぅ……。タ、タコに……タコにわさびを付けて、ちょろちょろっとするだけで良いんです……! ああそういえば、イカリングフライがメニューにありましたよね。後はお寿司もありますしワサビも――」


「天音先輩」


「どうしました、下古川くん。今、先輩である私がたこわさを頼んで差し上げますから――」


「はあ……。店員さん、ご迷惑を申し訳ありません……。この酔っぱらいはどうにかしておくので、無視してお仕事に戻ってください」


「すみません……ありがとうございます」


 店員は不憫な者を見るような眼を向けてから、そそくさと戸は締めていった。

 大衆居酒屋の個室。チキン南蛮がウリだという。


「うぅ~~」


 むっとした顔をして、すぐさまピンポンを鳴らそうとする天音先輩の行動を先読みして、それを隠す。


「注文がある時は、僕を通してくださいね。ほんと、頼みますから」


「下古川くんのいぢわる……」


 ピンク色の唇を尖らせる天音先輩。可愛いが、これに絆されて甘やかすと痛い眼を見るのは散々学んだ。もう二の轍を踏んでなるものか。


 あの日。天音先輩と街コンでマッチングした時以来、こうして2人きりで呑みに行くことが増えてきていた。回数を重ねることで分かったのは、天音先輩はお酒には強い……が、足元が覚束ない程に酔うまで呑み続けてしまうという悪癖があることだった。

 さっきみたいにメニューに無いものを作らせようとしたりと、店員に迷惑を掛けてしまうことも初めてじゃない。

 頼りがいのある先輩――とは言い難い体たらくではあるものの、俺はそんな姿に安心感のようなものを感じていた。以前のような社内でだけの繋がりだった頃は、淡々とした口調や、機微の小さい表情から、まるでロボットのようだなと思うことも少なくはなかった。後輩を大事にしよう、そんな温かみを感じてはいたものの、基本的には淡泊な印象が強かったのだ。だからこそ、酔うことで露出する天音先輩の人間臭さには非常に好感が持てた。それと、みっともない話ではあるが、天音先輩の酒癖の悪さのおかげで、仕事時に借りた恩を返すことができる機会が設けられているこの環境は、精神衛生上良かった。

 ああ全く……自分でも面倒な性格だってのは理解している。

 ただ、そういった分かりやすいポーズが無いと、喉奥に小骨が刺さったような引っ掛かりを覚えてしまうのだ。

 いつか、治したい……とは思う。


「そうだ下古川くん。そろそろ、再戦と行きませんか?」


 3本目となる冷酒の蓋をきゅるきゅると開けながら、天音先輩は思い出したかのように尋ねてくる。


「呑みくらべならやりませんよ」


「違いますよ。それに、お酒に関して私の右に出る者は居ませんから」


「それだけ酔っておいて何を言うんですか……」


「何を言いますか。呂律だって回っていますし、顔も赤くないでしょう」


「酔ってる人に酔いすぎ、なんて言うだけ無駄ですよね……。まあ、なんでもいいです。それで、再戦とは何ですか?」


「……再戦?」


 こてんと、子供のように小首を傾げる天音先輩……可愛い。

 ……じゃなくって。酔いすぎだ、もう数十秒前の自分の発言を忘れてしまっている。


「とりあえず、いったんお冷を飲んでください」


「なるほど。冷酒以外のものを呑もうということですね。どれ、何にしましょうか……」


「メニューは没収っ、これ以上はアル中になりますよ! 酔いを冷ますためですって!」


「……下古川くんは九州出身だっていうのに、そんなことで良いんですか?」


「わけわかんないこと言ってないでくださいよ……お願いだから、お冷を呑んで一度冷静になってください」


 むくれつつも、天音先輩はコップに口をつけた。ピンク色の口紅が淵で滲んでいるのを見つけてしまい、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。

ともあれ実は、こうなれば一安心だったりする。一度、落ち着くタイミングを作れば、ある程度の冷静さを天音先輩は取り戻すのだ。


「再戦、というのは街コンの事ですよ」


 異性を攻略するとなれば、異性を味方につけるのが一番に手っ取り早い。そんなもっともらしい提案を受けていたのだった。


「そろそろ、良いかもしれませんね」


「ええ、傷も癒えましたし」


「傷?」


「はい。下古川くんが教えてくれた『異性のタイプ』の話です」


「あっ、あれは…………!」


「ふふ、冗談ですよ。少しからかってみただけです。冷静になれましたし、ナイスアドバイスでした。流石、私の自慢の後輩です」


「もう、脅かさないでくださいよ……」


 ただでさえデリケートな話題なのだ、心臓に悪い……。


「ですけど、深く踏み込んでおけば置くほど、大胆に声を張れることも増えてくるものです。下古川くんとしても、やりやすくなるんじゃないですか?」


「うぐ、そうですけど……」


 本当に、天音先輩は俺のことを良く見ている。見事に図星を突かれた。


「お互いに協力し合える街コン……となれば、立席形式の恋活パーティでしょうか?」


「アリだとは思いますが、リスクは大きいと思います。僕と天音先輩が2人きりで固まっているが目につきやすいですし……。なんといっても、明確な席が存在しないので」


「確かに。大前提として初対面のフリはしないといけないとなると、相当に気を遣うことになりそうですね」


 疲れて、直ぐにガス欠が来るだろう。街コンどころでは無くなってしまいかねない。


「まずは様子見として、前回と同様に座席のローテーション形式。それと、二次会が予定されている街コンはどうですか? 恩恵が得られるのはローテーションで被るタイミングと、最後の二次会だけですが、掴みとしては充分な機会だと思います」


 ここで言う二次会とは、前回のようなローテーション形式の街コンとセットで行われがちのもので、運営側がセッティングしてくれるものだ。席移動となるまでの短い間では軽い自己紹介のみで会話が終わってしまうという当然の問題から、いわば延長戦の形で開催されるものだ。席の自由度は高く、アプローチをかけたい異性に話しかけやすいことから、二次会の人気は大きい。


「一口にお互いにフォローと言っても、慣れは必要かもですね。わかりました。下古川くんの意見で決まりとしましょう」


 早速スマホで検索を掛けると、二次会を予定している街コンはごまんと見つかった。

 できるだけ、既に人数が集まっているもので、男女比率が偏っていないものを選ぶ。

 日取りは今週末の土曜日、お昼過ぎ。次の日が休日かつ、まだ陽の高い時間帯。最適と言えるだろう。


「さて、決めることも決めましたし、呑みなおしと行きましょうか」

 そそくさと天音先輩はメニューへと手を伸ばし始めた。


「駄目です。明日も仕事なんですから」


「い、一合だけ……」


 叱られた子供のような態度だが、見ないフリを通す。


「駄目といったら駄目です。ただでさえ窓際社員に転落してしまったというのに、二日酔いで休んだりしたら袋叩きにされますよ」


「……窓際社員歴が長いだけあって、含蓄がありますね」


「仕返しのつもりでしょうけど……いやほんと、心抉られちゃうんでやめてください……」


 二日酔いでの欠勤。前科は無いが、部長とかに攻め立てられるシーンを想像するだけで、きゅっと胃が締め付けられる。


(いやほんと、会社やめたい……つらいよう……ああ、そうだ……夏になったらサマージャンボを買おう……可能性はゼロじゃない、むしろ無限大なのだから……)


 

そう決意を新たにしている隙、天音先輩がひっそりとメニューをくすねていたのに気づいたのは、店員が注文を取りに来てからのことだった……。

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