今さっきその角から飛び出してきてくれやがった

柿尊慈

今さっきその角から飛び出してきてくれやがった

「先生はもっと小さい子ども相手の方が、実力を存分に発揮できると思いますよ」

 中学高校と理科が好きだった僕は、周囲に理科好きがいないことを悲しく思い、中学校で理科を教えるべく大学に通った。採用試験を受けて、どうにか中学校で理科の勉強を教える立場になれたものの、そこの校長から言われたのがこの言葉だ。やりたい仕事ができると意気込んでいたものの、慣れない――というか向いてない――仕事の方が圧倒的に多いという現実に踏み潰され、新卒から3年で、僕は中学校教員生活に幕を閉じることにした。

 かといって今更一般企業に勤めようという気にはなれず、学生時代も教員採用試験対策や授業研究に没頭していたために、汎用性の高い資格などは持っていない。運転免許すら取得していないという有り様だ。

 さて、先の言葉というのは、日本人の平均的な男性の身長よりもやや背の低い小柄な僕の、僕よりも大きいことすらありえる中学校男子を制御できない指導力不足、および部活動の指導など到底できないほど致命的な身体能力の低さを見てのものだ。学校では、若いからという理由で運動部の顧問のひとりにされることがよくあるのだけれど、フラスコばかり振っていた僕がいきなりテニスラケットを振ることなどできるはずがなかった。子どもたちにというよりは、他の先生方から失望されることが多かったように思う。

 校長先生の言葉は嫌味などではなく、むしろ心のこもった、僕の将来を心配してのもので――事実、他の先生方の発言に対してフォローをしてくれていたのは彼だけだった――実際に説得力もあった。高学年ともなれば話は変わってくるが、小学校にいる子どもたちの背丈は僕よりも低く、まだ体も成長しきっていないので、頼りなさげな僕でも対処しやすい。放課後の部活動があるわけでもないので、退勤時間にも余裕がある。

 とはいえ、小学校教員は基本的に全ての教科の学習を担当するので、理科ばかりを研究してきた僕にとってはかなり苦労を要する仕事だった。小学校の免許も持っているし、実習だってやっているのだけれど、実際に勤務となると話が変わってくる。授業の進度は同じ学年の中で調整する必要があるので気が抜けない。学習の内容が深すぎると小学生には理解できないものになるので、わかってほしいことをすべて伝えることは不可能。よくも悪くも大人への信頼が強いので、小さな問題でも担任を巻き込もうとする……。

「経験上、自分の仕事振りに満足してる人ほど、私たちから見るといい加減な指導をしていることが多いです」

 今の学校の教頭先生が、先日の職員打ち合わせの際に話していた言葉だ。心当たりがあるのであろうベテランの先生の何人かが眉をひそめていたが、僕はその言葉を複雑な気持ちで聞いていた。たしかに、僕は中学生を相手にした指導に向いていなかったように思う。だからここに、小学校に来たのだ。しかし……。

 中学校教員と小学校教員。どちらも向いてないように感じるものの――あえて選ぶとすれば、いったいどちらの方がより僕に向いている職業なのだろうか。僕の選択は、間違ってたのか、間違ってなかったのか……。




 なんてことを考えながらバス停に向かっていたからか、僕は死角から出てきた自転車を避けることができなかった。足をタイヤに踏まれたかと思うと、無様に吹き飛んで歩道の上に倒れこむ。これが車道の上だったなら、通りかかったトラックに轢かれ、僕は一瞬でぺしゃんこになっていたかもしれない。カバンの中の水筒が、アスファルトにぶつかって音を立てた。

「あ、大丈夫ですか?」

 女性の声がする。あまり心配してなさそうな声。羽の欠けた昆虫に話しかけるかのような、緊張感のない声だ。倒れたまま、苦痛で少し歪んだ顔を上げた。長い脚。紺色のプリーツスカートが、その脚の上部を隠している。女性はしゃがみこんだりせず、倒れた僕を見下ろして声をかけた。頭を打ったのか、顔を見ようとしても焦点を合わせることができない。

「ええと、こういうときはどうしたらいいんだろ」

 またもや、緊張感のない声。声の主は僕にぶつかってきた人物と同じはずなのだが、まるで自分が起こした事故ではないかのような口振りだ。

 もしかすると僕は、仕事云々ではなく、社会人として向いていなかったのかもしれないな。そんなことを急に思う。これは、そんな僕を物理的に社会から追い出そうという――死に至らしめようという――神のイタズラ的な何かがこれなのだ。

 そういえば、今日他の学年が自転車の安全な乗り方教室をやっていたな。なるほどたしかに、自転車は危ない乗り物だ。今なら身を持って証明できるだろう。僕の無様な有り様を実例として見せたなら、きっと子どもたちも真剣に自転車の乗り方について考えるのではなかろうか。

 まあ、よその学年のことなんか知ったこっちゃないんだけど。ああ、明日は今日できなかったマルつけをしなきゃいけないのに……。


 僕の勤務する小学校は市立のもので、すぐ近くには私立の女子高がある。

 同音異義なので「イチリツ」と「ワタクシリツ」で呼び分けることもあるわけだが、後者はたいてい「なんとか学園」のようなグループ名がついていて、事実近くの女子高は「なんとか学園なんとか女子高等学校」という名前で――日本のどこかには、同じ「なんとか学園」の男子校があるらしい。

 そのため、女子高でありながら土日のテニスコートにはテニスウェアの男子高校生がいることもある。グループ内の学生同士で交流を図っているようで、土日に学校で作業をしようと道を歩いていると、僕よりもよほどテニスのうまい男の子たちが、久しぶりの女の子との関わりのおかげでやたらと気合の入った練習をしているのを見かけるのだ。結局交流するなら、最初から共学にすればいいのにと思うのは僕だけだろうか。……いや、たまに会えるからありがたみがあるのかもしれない。

「ああ、気づいたのね」

 声の主は、ぶつかってきた女子高生のものではなかった。

 ぱちりと目を開ける。すぐにここが保健室であることに気づいたが、同時に見慣れない感じもして、少し混乱した。ベッドの向きや窓の位置、部屋の広さなど何から何まで、僕の勤務校の保健室ではなかったからだ。

 椅子に座っていた女性は、女子高生というにはやや無理のあるおばさまで、上品というよりは気の強そうな印象の、少し膨らんだ顔に、もっさりとした黒髪を伸ばしていた。

「うちの生徒が校門のところで人を撥ねたっていうもんだから、慌てて行ってみたんですけどね。目立った外傷はなかったので少しここで処置をしました。学校に残ってた男性の先生複数人に運んでもらいましたよ。よかったですね、学校がブラックな職場で。もし学校がクリアな労働環境で、この時間にはひとっこひとり残ってなかったら、あなたは歩道に倒れたまま救急車を待つことになっていましたよ」

 よかったですねと言われても、全くいいところがないではないか。

「学校がホワイトな環境じゃないのは、身をもって知っていますから……」

 ぼそりと呟く。

「へぇ、あなた学校の先生なの?」

 いきなり明るい声がしたので驚いていると、隣のベッドとの境目のカーテンが開いた。そこに座っていたのは今度こそ女子高生で――自転車でぶつかってきた女の子だとすぐに気づく。

 脚が長く、色白すぎない肌の色。地毛なのか判別しがたい、暗めの茶髪。肩甲骨までさらりと伸びていて、さっきまで彼女も寝ていたのか、後頭部のあたりだけ少し盛り上がっている。

「こら、まずは謝らないと」

 そうだよ学校の先生だよ、などと明るく答えるべきではないような気もして返答に迷っていると、保健室の先生が割り込んできた。女子高生は「そうだった」と思い出したように言ってから、ベッドの上で正座をして両の手をつけて頭を下げる。

「ブツカッテ、スミマセンデシタ」

 謝る気があるのかないのかわからない表情と声色で彼女は謝罪すると、ベッドの下に置いてあった上靴に足を入れて、爪先でとんとんと床を叩く。靴を履き終えると、子ども用の椅子に置いてあったカバンを持ってドアの方へ向き直る。まるで用が済んだというような素振りに静止をかけたのは、保健室の先生だった。がしっと女子高生の手首を掴んでいる。

「さっき、ここのグループの持ってる病院に連絡をしたわ。学園の生徒が成人男性に怪我をさせていい加減な対応をしたなんて世間様に知られたくないでしょうから、誠心誠意、治療と診断に臨むそうよ。そういうわけだからあなたは、あちらの男性に付き添いなさい。あなたは加害者なんだから。……しっかりシメられるといいわ」

 保健室の先生は女子高生の手首を掴んだまま、空いている左手で僕にメモのようなものを差し出した。

「ここが、その病院。この娘のご家庭からはあとで正式に謝罪があると思うけど、ひとまずあなたは体の方を診てもらって。……特に問題はないと思うけどね。大袈裟すぎる対応の方が、何もしないよりも世間ウケがいいのよ。ごめんなさいね、今日も遅くまで学校で仕事をしていたでしょうに。不幸中の幸いは、明日が土曜ということかしら。ゆっくり体を休めてね」




 結果から言うと本当に異常は何もなく、自転車の衝突よりも日頃の疲れがとれていなかったことの方が問題だったらしい。我ながら迷惑な話であるが、衝突のショックが大きすぎて気絶したというよりは、衝撃がきっかけとなって熟睡してしまったということだ。

 娘を女子高に通わせるご家庭なら、相当娘を大事にしているだろう。逆にこっちがクレームをつけられそうだなとビクビクしていたものの、病院にやってきた親御さんは誠実だった。治療費の話なりなんなりをしてから、穏便に解散。

 衝撃のわりに無傷だったことを考えると、どうやら天は僕を見放さなかったようだ。……いや、逆に見放された結果なのかもしれない。今後も教員生活という生き地獄を味わうがいい、というメッセージではなかろうか。

「あの先生はね、友達のお母さんなのよ。高校で離れちゃったけど、まさかそのお母さんと友達になるとは思わなかったわ」

 バス停での会話。

 生徒に友達扱いされるとは、あの先生も災難だなと思う。いや、あの感じを見ると、案外向こうも彼女を友達か何かだと思っているのかもしれない。

 土日は何事もなく明けて、向いてない小学校教員としての一週間が普段通り始まった。……しかし全てが普段通りというわけではなく、退勤後バス停に向かおうと歩いていると、例の女子高生が、女子校の校門の前に立っているのが見えたのだ。そしてその日から、彼女は保健室で勉強してから、僕の退勤に合わせて学校を出て、僕がバスに乗るのを見送るようになった。保健室の先生にでも言われたのか、彼女自身が僕を気遣ってのことか。仕事が遅れたり、彼女の都合が合わなかったりのときのため、メッセージアプリのID交換までしてしまった。ここ5年ほど恋人さえいない僕のスマートフォンに、女子高生の連絡先が追加されてしまったのである。

 ちなみにあの交通事故は、自転車に乗るのは校門を出てからにしましょうという校則のようなものを破った挙句、日も暮れているのに無灯火で運転していたという、100パーセント彼女が悪い事故であり、その負い目はご両親が一番感じているようだった。娘がすぐに帰宅しないどころか、成人男性とバス停で話をしているなど、普通であれば許せないだろう。非常に語弊のある言い方になるが、僕たちの関係はご両親と学校公認の仲、ということだ。

 とはいえ、僕たちの事情を知らない人から見れば、非常に危うい関係にも見えることは確かで、バス停で待っていると、時折他の乗客から白い目を向けられることがある。そのため、僕たちは親戚という設定で話をしているのだが……。

 必死になっている僕の心境など考えもせず、彼女の方は新しい友達ができたくらいに思っている節がある。

 そして困ったことに、僕は彼女の魅力にどんどんと引きこまれていて、もはや親戚だの友達だのは、僕自身の邪な気持ちに蓋をするためのシールの役割も担っていた。


 そんな状況が、1ヶ月ほど続いている。

 僕は全くの無傷なので、もう彼女やその両親が僕に負い目を感じる必要はなく――それどころか、彼女に会いたいがために交友(?)関係を続けている僕の方が、よほど世間様に頭を下げなければならない。

「先生さ、今度私の家に生物教えに来てよ」

 彼女は僕のことを、ただ「先生」と呼ぶ。僕も彼女を「君」という二人称でしか呼ばない。それは、彼女の苗字である筒井つついが、僕にとっては彼女のご両親を指すものとしての印象が強いからだ。かといって、彼女をファーストネームで「鶴子つるこちゃん」と呼ぶ気にはなれなかった。

 そんな間柄なのに、家に行って生物を教える?

 ほぼ毎日とはいえ、僕が退勤してからの10分や20分程度のやりとりしかしてこなかったのに?

 僕は成人していて、彼女は未成年なのに?

 同じ学校じゃないにしても、僕は教員で、彼女は現役の女子高生なのに?

「そんなの、筒井さんたちが許すわけないじゃないか」

 僕は動揺を隠すように、空を見上げて言った。真っ暗な空に、もっと黒い雲が浮かんでいる。

「ふたりを説得すれば来てくれるわけ?」

 彼女が言った。僕は首を振る。まだバスは来ない。

「じゃあ、駅のカフェは?」

「ダメだよ。場所の問題じゃない」

「どこでもダメなら、今だってダメでしょう?」

 痛いところを突いてくるもんだ。僕は頭を掻く。視線を空から落として、ほとんど僕と背丈の変わらない彼女の方をちらりと見る。

 しかし、これがまずかった。

 彼女は僕を見ていたのだ。正確には、僕と目が合うのを待ち構えていた。バチリと視線が交わったとき、彼女がにやりと意地悪そうに笑う。

「私のこと好きなのに?」

 目が、逸らせなくなった。

 逸らしたら、図星を突かれたことを誤魔化しているように思われる。何を言ってるんだと、呆れた目をしなければならない。しなければ、ならないのに。

 ぐっと、心臓を握られたかのような痛み。彼女の瞳、唇、髪の毛に、視線が吸い寄せられる。

「もうちょっと背が高かったら、好きになってもよかったんだけどなぁ」

 バスが、来ない。

「年齢の差は、時間が解決してくれるでしょ? でもたぶん先生は、先生と生徒って関係を気にしてるんだと思うんだよね。同じ学校でもないのに。大人になるまで待たなきゃって、普通の人ならそれで許されると思うけど、公務員ともなると、それすらも自重しなさいって思われるだろうし……」

 弄ばれている。

 好きになってもよかった、という表現。月日が経ったところで、あるいは僕が胸の内の劣情を素直に打ち明けたところで、彼女が僕を受け入れてくれるというわけでもない。釣り糸を垂らし、僕の様子を見て楽しんでいるのだ。そういう目をしている。

 罠だ、これは。

「向いてないと思っちゃうなら――私への気持ちの邪魔になってるなら、辞めちゃいなよ、先生なんて。今すぐにとは言わないけどさ」

 バスが来る。逃げるように乗り込んだ。ドアが閉まる。その直前。

「先生辞めて、今より1センチでも身長が伸びたら、デートしようよ。バス停以外の場所でさ」




「僕も飲みたかったのに!」

 男の子のひとりが文句を言っている。気にせず僕はストローの袋を破り、ストローを牛乳パックに突き立てた。給食の時間。本日3つ目の牛乳。クラスには牛乳嫌いの子が多いため、毎日5個くらい牛乳が余るのだ。普段ならおかわりとして配っているが、このところは大人げなくそれを飲み干している。我ながら馬鹿らしいことをしていると思う。

「牛乳はね、飲み過ぎてもよくないんだよ。お腹も壊れちゃうし」

 子どもへの対応をしながら、僕の目は虚空を見つめている。この頃は勤務中でも、帰るときのことばかり考えてしまう。

「そしたら、先生もお腹壊しちゃうじゃんか」

 ストローに空気が混じる。ズゴゴゴと、不快な振動と音。ストローを抜き取り、牛乳パックを折り畳む。

「先生はもう、壊れてるから」

 彼女は今日、どんな話をしてくれるだろう。

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今さっきその角から飛び出してきてくれやがった 柿尊慈 @kaki_sonji

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