第18話

 おじさんの言っていた心療内科というものは、ちまたに結構たくさんあるようだった。僕はインターネットで住所と電話番号を調べて、家の近所にある病院に予約を入れた。木村さんの家の近くにも、心療内科はいくつかあったけれど、僕はなんとなく、自分の家の近くの病院にしたいと思った。二人で行くのだから、それでいいのだ。

 待ち合わせ場所の駅前に到着すると、木村さんがもう先に来ていた。デートをする時みたいに、おめかししている。木村さんは今日も学校を休み、僕はバスケ部をサボった。こんなところを慎ちゃんに見られたら、たぶん本当に殴られる。木村さんの表情が明るい。少しウキウキしているように見える。

「なんだか楽しそうだね。実を言うと僕は、けっこうドキドキしてるんだけど」

「楽しいよ。だってデートだもん。病院デート。素敵じゃない?」

 木村さんが不敵に笑った。

「笑顔が素敵ですよ? ちょっと恐いくらいに素敵ですよ」

 僕は言った。

「大丈夫。今日の笑顔は楽しい笑顔。病院に連れて行ってもらうって決まってから、まるでお誕生日を待つみたいに楽しかった。そうやって待っている間は、とても心が落ち着いていたの。病院に行く前からこの効果。すごいよね?」

 木村さんのテンションが高すぎる。僕はだんだん心配になってきた。弾むように歩く木村さんの手を握って、僕は手綱を掴んでいるような気持ちになった。

 駅前から少し歩いたところ、五階建てのビルの三階部分に、目指す心療内科がある。雑居ビルと言っていいような小さなビルで、地元だから僕はこのビルの存在は知っていたが、中に入るのは初めてだ。

 エレベーターのボタンを押すと、自分でもびっくりするくらい心臓がドキドキしている。たぶん自分が診察を受けるのなら、こんなに緊張することは無いと思う。一方木村さんはニコニコしている。まるで立場が逆だ。

 四人乗りぐらいの小さなエレベーターで三階にあがる。エレベーターを出た正面に擦りガラスのドアがあり、「持田クリニック」と書いてある。

 中に入ると殺風景な真っ白の部屋で、長いすが三つ置いてある。それ以外に何も無い。他に待っている人もいない。奥のほうにカウンターがあり、白衣を着た中年の女性が一人、椅子に座って事務作業をしている。

「予約した木村ですが」

 僕が言うと同時に、木村さんが手際よく、受付の女性に保険証を差し出した。 

「そちらに座って、少々お待ちください」

 女性が静かに微笑んで言った。悪くない感じだ。高校生二人組みの僕らを見て、特別な反応も無かった。

 椅子に座って待っていると、程なく受付の横のドアから、白衣を着た初老の男性が現れた。この人が先生だろう。学校の先生のようにも見える。くたびれていて、理知的で、優しそうな感じ。受付の女性と少し話をした後で、僕らの方に向かって、どうぞ中にお入りください、と気さくな感じで言った。

 もしも木村さんが緊張していたなら、僕が先導して、診察中もできる限りサポートするつもりだった。しかし……。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って、椅子から立ち上がった僕だけが緊張している。

 木村さんは終始落ち着いており、診察が始まってから、自分の状態について先生に丁寧に説明した。先生の質問にもテキパキと答えて、僕の出る幕は無かった。木村さんの冷静な態度に、先生も感心しているようだった。

「不安を鎮める薬を、まず一週間飲んでみましょう。この薬には、気持ちを上向きにする効果もありますからね」

 先生が優しい声で言った。

「先生?」

 木村さんが、せつないような声で言った。

「わたし、一時的に、すごく落ち込んでしまうことがあるんです。あの……トンプクって言うんですか? 本当に辛い時に、すぐに効くお薬もいただけませんか。それとわたし、寝つきがとても悪いんです。先ほどお話ししましたけど、夜中に何度も目が覚めてしまうんです。できたら睡眠薬も、いただけないでしょうか」

 淡々と話すのが、逆に迫力がある。頷きながら先生は聞いて、じゃあ、頓服の薬も出して置きましょう、と言った。

「頓服の薬には眠くなる効果もあるから、睡眠の方もまずそれでいきましょう」

 そう言って、先生が話を終わりにしようとした。

「先生。確実に眠れる、睡眠薬が欲しいんです」

 木村さんがじっと先生の顔見据えて、微笑んで言った。凄まじく美しい横顔。診察室の時間が、一瞬止まったようになった。虚を突かれて固まっていた先生がようやく我に帰って、じゃあ睡眠薬も取り合えず、一週間分出しておこうね、と言った。

 

「なんというか……完璧だったよ。僕がいる意味、ほとんど無かったね」

 病院のビルを出たところで、僕は言った。

「そんなことないよ。菅原君がいてくれたからわたし、あんなに強気で行けたのよ。ほら、トンプクを、ちゃんと貰おうねって話したじゃない? 睡眠薬も。そういう課題があったから、わたしは目標に向かって、全力を出すことが出来たのよ」

 笑って木村さんが言った。

「全力出しすぎだよ。女性の恐ろしさを見たね、僕は」

「幻滅した?」

「そんなことないけど、全く、迫力があったなあ」

 僕は言った。

「だってわたし、本当に崖っぷちだもん……」

 そう言って、木村さんが僕の手を握った。

 先生に出してもらった処方箋を持って、駅前にある薬局に行った。混んでいたので、薬局を出た時には空が暗くなり始めていた。

「どうしようか。もう少し、散歩しようか」

 僕は言った。

「お散歩したいけど、でもやめて置く。これ以上楽しいと、あとがものすごく辛くなるから。ただでさえ病院デートで、テンションがあがっちゃったし」

 泣笑いのような顔で、木村さんが言った。

 突然僕は、木村さんを思いきり抱きしめたいような衝動にかられた。僕が君を助けると、今こそ言わなければならないと思った。でもそんな事をしたら、今の木村さんには、ダメージにしかならないかもしれない。

「わたしの事で悩まないで。でも、ほんとにありがとう」

 そう言って一瞬、木村さんが僕の頬にキスした。繋いでいた手が離れて、木村さんが駅の階段を上っていった。うしろ姿が見えなくなってからも、僕は少しの間、ぼーっとその場に立ち尽くしていた。


「キスをしていたよな」

 後ろから声がして振り返ると、鬼のような形相をした慎ちゃんが、ジャージ姿で立っていた。 

「え? なんで? 部活は?」

 部活が終わる時間には早すぎる。

「ちょっと足首を捻ってな。今、整体に行ってきたところだ。まあ、そんなことはどうでもいい。スガ、お前今、キスをしていたよな?」

 コブシを固めて慎ちゃんが迫ってくる。片足を引きずっているのが、まるでゾンビのようで恐ろしい。

「違う違う。これには深いわけがあるんだよ!」

 逃げながら僕は言った。

「お前、逃げんなよ! 俺は足を捻挫してんだからな! 素直に殴らせろ!」

 慎ちゃんの怒りが収まりそうにも無いので、しょうがなく僕は、病院デートの一部始終を説明することにした。

 駅前にある公園のベンチに座って、始めは眉毛を吊り上げていた慎ちゃんが、次第に考え込むような表情になった。

「お前すごいな。精神病院に付き添いって、なにそれ。身内? いや、愛だよな、愛」

 勝手に感心している。

「精神病院じゃなくて診療内科だよ。それに、僕はたいしたことしてないし」

 僕は言った。

「いや、俺は感動したよ。うん、木村のこともさ、けっこう誤解してたな。あいつも戦っているんだな……」

 空を見上げて、感慨深げに慎ちゃんが言った。もうこうなったら、止めようがないだろう。ひとしきり感心した後でようやく、慎ちゃんは立ち上がった。しかし先ほど無駄に走り回ったせいで、捻挫が悪化したらしい。かなり痛そうにしている。仕方が無いので僕は肩を貸して、慎ちゃんの家まで付き合って歩いた。歩いている間、慎ちゃんはほとんど無言で不気味だった。どうやら、さきほどの感心の余韻を引きずっているらしい。僕には無い男らしさが、慎ちゃんには確かにあるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る