第9話
「わたしの家に寄っていく?」
動物園を出たところで木村さんが言った。
「家、近いんだっけ?」
「うん。誰もいないから、遠慮しないで」
「遠慮はしないけど……」
誰もいないなら、むしろ遠慮すべきだろうか……。
思案顔の僕を見て木村さんが、いいじゃない寄っていけば、と気軽に言う。
「そうだな……」
まだ僕がためらっていると、いいから行こうよ、と妙に積極的に木村さんが誘う。僕の手を掴んで、ひっぱって歩き出した。
「もしかして、早く帰って眠りたい?」
僕が言うと、木村さんが僕の手を掴んだまま、立ち止まって振り返った。なぜか、とてもまぶしそうな顔をしている。
「あのね、退屈なわけじゃないのよ。とても楽しいの。だけど……」
「すごく眠いんだね?」
ぼんやりと笑って、小さく木村さんが頷いた。
それじゃあ今日は解散にしようよ、と僕は言ったが、木村さんが聞き入れない。どうしても、と言うので、木村さんの家に行くことに決まった。僕も行きたくないわけではないが、木村さんは眠りたいわけで、一緒に行く意味があるのだろうか。
途中で学校の前を通りかかって、木村さんが、はっと我に帰ったように僕の手を離した。木村さんの顔を見ると、いたずらを咎められた子供みたいに、ぎこちない表情をしている。思わず僕は吹き出して笑ってしまった。
「なんで笑うの! だって、恥ずかしいじゃない」
木村さんにグーで殴られる。
「ごめんごめん。面白い顔してたから、つい」
余計なことを言って、僕はさらに殴られた。
木村さんの家は、谷中の入り組んだ路地の中にある。お寺と墓地が並ぶ小さな道を通り、猫の通り道みたいな、建物と建物の間を抜けて行く。先に行く木村さんに手を引っ張られて、なんだか、怪しい世界に引きずり込まれていくような気持ちになる。
路地の奥でようやく木村さんが立ち止まり、お財布から鍵を出して、目の前にあるドアの鍵穴に差し込んだ。見上げると木造の大きな家だった。雑木林に囲まれていて、秘密基地みたいな家だと僕は思った。
「どうぞ、入って」
玄関で靴を脱いで、ギシギシ言う木の廊下を進み、居間に通される。畳にちゃぶ台があって、すごく懐かしい感じがする。
木村さんが奥の台所でお茶を入れて持って来てくれた。古い家でしょう、と木村さんが言う。
「いや、立派な家だよ。初めてなのに、とても落ち着く」
「そう。よかった……」
にっこりと木村さんが笑うが、頭がフラフラしている。眠さの限界のようだ。もう眠ったら、と僕は言った。
「それじゃあ、ちょっとだけ」
木村さんはそう言うと、フラッと立ち上がって仏間の方に入った。障子越しに僕が覗くと、仏間には大きなソファーがあって、そこで木村さんはタオルケットをお腹にかけて横になっている。僕はどうすればいいんだ。
僕は畳に座ったまま、お茶を飲んでぼーっとしている。時計がカチカチと鳴っている。もう四時半だ。帰ろうかな。
そっと仏間に入って、木村さんの寝顔を上から見下ろした。途端に、木村さんの目がパッチリと開いた。僕は驚いて、オッと声を出してしまった。
「緊張して眠れない……」
横になったまま、木村さんが真顔で言った。
「そろそろ僕は帰るよ」
僕は言った。木村さんがこちらの顔をじっと見ている。それから、タオルケットから手を出して、僕に手招きした。何? と僕は顔を近づける。もっと! と言う感じで木村さんが手招きする。さらに顔を近づけると、木村さんがソファーから半身を起こして、キスをする体勢になった。
「キスをする体勢ってなんだよ!」
慎ちゃんが床をバシッと叩いて言った。
「だから目をつむって……どうぞって感じ?」
僕は言った。
「うっ。説明しなくても分かるよ! それでそれで?」
「いや、キスしたよ」
「うわー。したか、クソッ」
慎ちゃんがまた僕の部屋で暴れている。部活が終わったばかりなのに、元気が有り余っている。僕の方は部活で体力を使い果たして、けっこう眠いのだが。
「それで? それからどうした?」
慎ちゃんがこぶしを握り締めて迫ってくる。顔が怖い。
「木村さんが『いいよ』って言うから、木村さんの背中を腕で支えて、もう一回キスした」
「おおお。いいよって言ったか、キジムナーが。たまんねぇな。それで? それから?」
「いや、それだけ」
「え? だって、『いいよ』って言われたんだろ?」
「うん。だから、キスしたんだけど」
「……お前違うだろ。それは」
慎ちゃんが急に真顔になって言った。
「いや、分かってるけど、それは早いよ。まだ十七歳だし。付き合い始めたばかりだし。こういうことは慎重になったほうがいいと思うんだ」
僕は頷きながら言った。
「スガ……。お前は偉いな……なんて言うと思ったかバカヤロー」
慎ちゃんが床に突っ伏して泣いている。それから、僕は慎ちゃんにヘッドロックされた。遊びにしてはかなり痛い。しかし、僕も眠くて、もうどうでもいい感じになっている。
「おまえな……。いや、悪い。つい興奮した。それはお前の自由だし、お前たちの問題だもんな。悪かったよ」
そう言いながら、慎ちゃんがまだ暴れている。もう付き合っていられない。暴れる慎ちゃんを放っておいて、僕は自分のベッドに体を滑り込ませた。
「うらやまシー。うらやましーな! このやろう!」
……うるさくて眠れない。
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