第8話
誕生日が過ぎて、十月の第一週目。僕は木村さんと初めてデートすることになった。放課後のお散歩を今まで何度もしてきたから、厳密な意味で言うと初デートではないかもしれない。でも、僕が告白してから少し間が空いていて、二人で長い時間を過ごすことが無かった。僕がバスケ部で忙しいのもあるけれど、木村さんのお散歩もきまぐれなので、なかなかタイミングが合わない。だから改めてデートの申し込みをしたのだ。
どこに行きたいかと僕が聞いたら、木村さんが少し考えて、動物園に行きたいと言った。それで、上野動物園に行くことに決めた。近すぎるけれど、いい動物園だ。
上野駅、上野公園口で午前十時に待ち合わせ。僕は念のために早めに家を出発し、九時半に上野駅に到着した。これからデートだし、待っている時間も楽しいだろう。そう思って改札を出たら、公園口の端っこに木村さんが立っていた。
柱に寄りかかって、足元を眺めている。僕らの学校は私服なので、木村さんの私服も見慣れているけれど、今日の木村さんはいつにもまして素敵に見える。学校での服装は、どちらかと言うと適当に見えるし、慎ちゃんが言っていたように、少し変わったセンスをしている。僕はそれも好きだけど、今日は落ち着いた色のワンピースを着て、ヒールのある、先の丸いエナメルの黒い靴を履いている。とてもかわいらしい。僕は少し離れたところから、じっと眺めている。
木村さんが僕に気が付いた。僕は笑って、まだ眺めている。僕が近づいてこないのを不思議に思っているのか、木村さんが目を丸くして、どうしたの? という顔をしている。まだ眺めていたい気もするけれど、ようやく僕は、木村さんに近づいていく。
「ちょっとね。木村さんが素敵だったから、眺めていたかったんだ」
「あ……そうですか」
木村さんが恥ずかしそうにする。
「いや、ほんとにかわいいよ。ため息出ちゃう」
「……ありがとう」
そこで、木村さんが大きくあくびをした。
「うわ! ごめんね……」
あくびを飲み込むようにして、慌てて木村さんが言った。
「眠いみたいだね」
僕は笑った。
「昨日緊張して、眠れなくて」
「一睡も?」
「一睡も」
木村さんがため息をついた。
「あのさ、どこかで休もうか」
「ううん、大丈夫。それに、もうデートが始まったでしょう? さらに緊張が高まって、目が覚めてきた。でも、あくびはしちゃうかも。許してね」
木村さんが心配そうな顔で言う。
「大丈夫。いっぱいあくびしていいよ」
僕は笑って言った。いえ、あくびしません、と言う感じで木村さんが頭を左右に振った。
動物園に向かって二人で歩く。やはり眠いのか、木村さんの足取りがフラフラしている。小さな段差につまづいて、転びそうになったり。
「危ないから、手をつなごう」
僕が言って、眠そうな目をした木村さんが頷く。
動物園の入り口のゲートを通過する。僕が手を引いているのをいいことに、木村さんはほとんど目をつむったようにして歩いている。それ見て僕は笑いながら、木村さんにどの動物が見たいか訊いた。
「ゾウが……」
「ゾウがどうしたって?」
「かわいそうなゾウが見たい……」
意味が良く分からないが、ゾウが見たいのは確かだろう。木村さんの手を引っ張って、ゾウのコーナーに連れて行く。木村さんは目をつむって、僕の引っ張る手にすべてを任せている。
「木村さん、ほら、ゾウだよ」
「うん。ゾウ……」
寝ぼけまなこで木村さんが、手提げかばんから、スケッチブックを出そうとする。絵を描くつもりのようだ。しかしスケッチブックは、かばんから半分出たところで、なかなか出てこない。木村さんが泣きそうになりながら、スケッチブックを無理やり引っ張っている。
「ちょっとまって、引っかかってるから。ほら、普通に出せるよ。泣かないで」
僕は言った。
「泣いてないよ……」
木村さんがほとんど泣き顔で言った。
スケッチブックを取り出すと、急に木村さんがテキパキとしだして、水性ペン等も取り出し、スケッチを始めた。僕は横で見ている。
「ゾウはかわいそうに見えるでしょう?」
木村さんが手を動かしながら言った。
「まあ、なんとなくね」
「でもね、実際のところ、ゾウはちっともかわいそうじゃないのよ。タフで、頑丈で、いっぱいウンコをして、長生きするの。それじゃあなんで、ゾウがかわいそうに見えるか。どうしてでしょう?」
「見ている人が、ゾウに感情移入するからかな」
「そう。人が勝手にかわいそうな感情を、ゾウに託すの。それでゾウがかわいそうに見える。かわいそうな人ほど、たくさん感情移入する。ゾウにしたら、はた迷惑な感じかもね」
「だとすると、あのゾウの悲しい目は、僕の悲しみを写しているということになるのかな」
僕は言った。
「どのぐらい悲しそう?」
「そうだな……。せっかくの初デートなのに、彼女があくびばかりしている。それぐらいの悲しさかな」
僕は笑って言った。
「いじわる!」
木村さんの、水性ペンを握ったグーで肩を殴られた。結構痛い。
「木村さんはどう? ゾウがかわいそうに見える?」
「はい。とても」
どのぐらいかわいそうに見えるのか、それは木村さんの描く絵に表れているはずだった。十分ほどで描き終わったゾウの絵は、かなりタソガレていて、まさにかわいそうなゾウ、という感じになっていた。説得力のある絵だと思った。
絵を描き終わり、道具をかばんにしまうと、木村さんはまた省エネモードに入っている。まぶたをピクピクさせて、ぼーっと立っている。先程と同じように僕は木村さんの手を取り、どの動物が見たいか訊いた。
「水族館……暗い」
「暗い?」
「暗いところで、眠る……」
相当眠いのだと思う。僕は笑ってしまった。手を引っ張って、木村さんのご希望通り水族館に連れて行く。水族館の入り口がホールのようになっていて、椅子とテーブルが並んでいる。真っ暗というわけにはいかないけど、外と比べればだいぶ暗い。
「ここで寝る?」
違います、という風に木村さんが首を振る。仕方が無いので、本当に真っ暗な水族館の中に入っていく。
水槽の中で泳ぐたくさんの魚が、キラキラ光っている。木村さんを引っ張って少し歩いてみたけれど、休憩できるようなスペースは無い。しかし、なにか不思議な感じだ。真っ暗な水族館の中に僕はいる。木村さんはもう、眠りの世界に行ってしまった様で、まぶたをピッタリと閉じている。手をつないでいると、僕も一緒に眠っているみたいだ。足元がフワフワして、危なっかしい。深海魚のコーナーでようやく椅子を見つけ、木村さんを促して二人で座った。小さな子供が目の前を走り過ぎて行く。僕も目をつむって、子供たちのはしゃぎ声や、パタパタ言う足音に耳をすませる。とても穏やかで、平和な気持ちになっている。
「……くん。菅原くん」
揺り動かされて目が覚めた。目をこすって木村さんの顔を見詰める。
「おはよう」
木村さんが笑った。
「わたし、おなか空いた。菅原君は?」
「空いたね」
そう言って時計を見ると、もう午後二時近い。かなり眠ってしまった。
木村さんがおべんとうを作ってきてくれたというので、不忍池のほとり、ペンギンの前のベンチでお昼にする。木村さんが大きめのお弁当箱を二つ、手提げかばんから取り出した。かばんがかさばっていたのは、これのせいだったのか。よいしょっと勢いよく、お弁当箱の大きなふたを木村さんが開けた。
「げ。すごい豪華だな。こんなに食べきれるかな」
「多分無理。作りすぎちゃったよ」
半笑いで木村さんが言った。それを見て、僕は吹き出して笑ってしまった。
「眠いのに、大変だったでしょう」
「うーん。眠れない分、集中していろいろ作ってしまいました」
肩を落として木村さんが言った。
「僕は嬉しいけど……あの、木村さん、けっこう無理してない? がんばらなくても、僕は、木村さんと一緒にいれるだけで楽しいよ」
「……ありがとう。とっても嬉しいけど、今のところ、自分にブレーキをかけるのは難しいかも。緊張しちゃうし、人と付き合うのは初めてだから、この雰囲気になかなか馴染めないの。でも、わたしもとても楽しいよ。それは本当だからね」
なぜか少し苦しそうな表情で、木村さんが言った。うんうんと僕は真顔になって頷く。
それから僕らはごっついお弁当に取り掛かった。かなりがんばったが、二人で半分ぐらいしか食べられない。なにしろおにぎりだけで十個もあるのだ。おかずも色とりどり、各種さまざま。大量にある。
僕らが座っているテーブルの隣に、小学生ぐらいの男の子兄弟のいる家族連れが座っていた。少し食べてもらえませんか、と僕が頼んだ。そうしたら小学生の食欲が素晴らしくて、あっという間に残り半分を平らげてしまった。彼らは自分たちのお昼として、売店で買ったハンバーガーとかを食べていたと言うのに。
子供たちのお母さんが、木村さんにお礼を言っている。木村さんが顔を真っ赤にして、こちらこそありがとうございます、と言った。母親の弁当よりおいしかった、と兄の小学生がおせじを言って、みんなで笑う。楽しいお昼ご飯になった。
お隣は食事を終え、僕らとあいさつを交わしてテーブルを離れて行った。小学生はもう元気に走り出して行ったが、僕らは腹がいっぱいでまだ動けない。再び眠気もやってきて、テーブルの上にうつ伏せに、体を投げ出してしまう。木村さんも眠いのだろう、目をとろんとさせて、なぜか笑顔になっている。
「わたし、感動しました」
「え? なにが?」
「菅原君が、お隣にお弁当を分けたこと」
「食べ切れそうもなかったからね」
「でも、なかなか言えないよ。あんな感じに、すんなりと」
素敵な笑顔で木村さんが言った。
「そうかな」
「そうだよ。やるなーって思った」
「思いましたか」
「思いました」
う、美しい。木村さんの笑顔が美しい。
それから木村さんが、スケッチブックの絵を見せてくれた。さきほど僕が水族館で寝ている間に描いたという。短い時間で描いたとは思えないほど、細かい絵だった。秋の街、夜の風景。空にはたくさんの魚が泳いでいる。その魚達が、僕の眠った白い顔を囲んで、夜空のどこか遠くへ運ぼうとしている。きれいな絵だけれど、すごく寂しい感じする。
「なにか、胸が締め付けられるようだな。すごく好きだよ、この絵」
僕は言った。
「水族館でね、ほんとにどこかへ行っちゃいそうだったから。菅原君」
木村さんが、切ない表情で笑った。
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