第5話
校門の前から坂を下り、不忍通りに出て、通り沿いに上野方面へ向かって歩く。もちろん行き先は木村さんが決めている。木村さんは曲がり角で迷わない。ずんずん進んでいく。こう言っちゃなんだけど、僕は犬の散歩をしているような気分になる。木村さんの背中を追いかけて、僕はただついて行くだけ。
木村さんは小脇にスケッチブックを抱えている。そして、なにか興味を引かれたものを、次々と描き込んで行く。道路にしゃがみこんで、マンホールの模様を描いていたと思えば、古びた蕎麦屋のショーケースを覗き込んで、天ぷらそばのサンプルの絵を描いたりしている。
「なんだか、腹が減ってきたな」
天ぷらそばの絵を横から覗き込んで、僕は言った。
「じゃあ、かわいそうなかけそばを食べようか?」
木村さんが言った。
「かわいそうなかけそば?」
「そう。二人で一つのかけそばを食べるの。お金ないから」
「ああ、そういうこと」
あまり気がすすまないけれど、木村さんが乗り気なので、しぶしぶ蕎麦屋の暖簾をくぐる。エアコンの効いた店内に、お客は誰もいない。ぎしぎし言う木の椅子に腰掛ける。
注文取りのおばさんがやってきて、
「かけそば一つ下さい」
と僕は言った。すかさず木村さんが、
「それと、小さいおわんを一つ下さい。以上です」
と元気よく言った。おばさんがまだ注文を待っている顔をしている。それを見て木村さんが、
「かけそば半分こにしますので、注文は終わりです」
と笑って言った。おばさんがおかしそうに笑って、引き上げていった。僕はちょっと恥ずかしい。
木村さんはテーブルの上にスケッチブックを広げて、さきほどの絵に、水性ペンで色を塗っていく。色使いが特徴的で、なんというか……あまり平和な感じじゃない。
「相変わらず、残酷な色使いをしていますね」
僕は言った。
「残酷と言うよりかは……絶望かな? 絶望の色使い」
木村さんがスケッチブックをじっと見て言った。
「世界は絶望的でしょうか」
「はい。とても」
木村さんが目を閉じて瞑想するようにした。それから、小さくため息をついた。
店のおばさんが、かけそば一つと、空のおわんとおたまを持ってきてくれた。おばさんは、かけそば半分この客に、どうぞごゆっくりと言って、店の奥に戻って行った。
「あ! けっこう大盛りになってる。得したね!」
木村さんがはしゃいで言った。
「嬉しい気持ちと、嬉しくない気持ちが同居しています」
僕はぼそっと言ったが、木村さんにスルーされる。
木村さんがおたまを使って、予定通りかけそばを半分に取り分けてくれた。僕は七味を思いっきり振りかけて、そばをすすりこんだ。
「あれ。すごくおいしい気がする。なんでだ」
腹が減ってるのもあるけれど、不思議な感じがする。
「それはほら、半分こにしたから。ちょっとさびしいでしょ? それで、このちょっぴりのお蕎麦が、すごく貴重に思えてくるの。そうすると、ひとくちひとくち、味わって食べるようになるんだよ」
頷きながら木村さんが言った。
そして僕らは、半分のかけそばをゆっくり味わいながら食べた。おいしいけど、だんだんとさびしい気持ちが高まっていった。
「もうすぐ晩御飯を食べるから、ちょうどいいじゃない」
店を出て、木村さんがなぐさめるように言った。僕は物足りない顔をしていたらしい。
「そうだね。でもなんだか、かわいそうな人になった気持ちがする。晩御飯にありつけるのも、運次第みたいな」
僕はお腹に手を当てて言った。
「きっと晩御飯もおいしいよ」
木村さんが笑った。
上野動物園の入り口を横に見て歩き、不忍の池までやってきた。夕焼け空にカラスが鳴いている。いまごろバスケ部のみんなは、体育館でハードな練習をしているはずだ。僕は女の子と一緒にふらふら歩いている。情けないような、後ろめたいような。でも、とても開放感がある。
不忍の池を半周して、野外音楽堂の前で木村さんがベンチに座った。僕も横に腰掛ける。木村さんは池の方に真っ直ぐ頭を向けて、視線を少しはなれたところにいる、おじさん達の酒盛りに向けている。盗み見るようにして、スケッチしている。ものすごく真剣な、木村さんの表情。
少しして、スケッチが完成した。なんでこんなにさびしい絵が描けるんだろう。
「木村さんのその独特の視点、とても面白いと思うよ。僕はとても好きだな」
「でも、絶望的だよ」
木村さんが笑った。
「そうやってさ、笑って、絶望的だって木村さんは言うよね。それが僕にはたまらないよ。悲しい顔して言われるより、よっぽど真実味があるから」
僕は自分の足元を見ながら言った。
「はぁ。バレてますか。わたしね、追い詰められると笑顔になるんだよ。無理しているわけでは無いの。つらい時に笑顔って、割と自然だと思うの」
なんだかさびしそうな顔をして、木村さんが言った。透明な言葉。
「木村さん、僕と付き合ってくれませんか。木村さんを救うとか、助けるとか、そういうことは言えないんだけど」
「助けてくれないの?」
木村さんがおかしそうに笑った。
「ちょっとひどい言い方になるけれど、僕は木村さんが見ている世界に興味があります。絶望的な世界に立ち向かっている木村さんの横に、僕も立ってみたいんだ。もちろん、助けになれればとは思うけど、同じ気持ちになれる自信は……あまり無いかな」
なぜか僕はきっぱりと言ってしまった。木村さんが大きく深呼吸した。
「付き合ってみようか? わたしも、菅原君の世界に興味があります」
「ほんとに? 僕の恋人になってくれますか」
「うん。菅原君なら、色々見せても大丈夫のような気がする」
そう言われて、僕は少しぞっとした。浮かれた気持ちが吹き飛んでしまった。嬉しいことは嬉しいけれど、なんだか責任が重いような気がする。
「そんな深刻な顔しないで。わたし、人に押し付けたりしないよ」
眉毛を下げて、なぜだか泣きそうな表情で木村さんが言った。
「いや、少しぐらい押し付けてもらわないと。それぐらいの甲斐性は、僕にもあるよ」
僕は笑って言った。
「うん。ありがとう」
そう言って、木村さんが僕の手を握った。遅ればせながらドキドキしてきた。雰囲気的に、僕は木村さんの肩を抱き寄せたかったが、それだとあまりにもせつない感じになってしまいそうなので、止めておいた。
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