聖者の旅路
鬱蒼とした樹々の集う森の奥。白亜の石材によって組み上げられた門には、蔦が絡まっている。建てられてから年月が経ち、朽ち果てつつあるのだ。
巡礼者を除けば、人が来ることはないのだろう。門の前に乱雑に並べられた供物は、全て見覚えのあるものだった。
『……儂は入るが、着いてくるか?』
ラウラは決断的に頷く。他の巡礼者なら門を潜ることは無いのだろうが、彼女は厳密には信徒ではない。己の興味に従うように、木箱から林檎を二つ取り出した。ひとつを躊躇なく齧ると、もうひとつをナールに渡そうとする。
『……要らんよ。この体で何かを喰う必要は無い。それに、下手にあの方の供物を口にして愛想を尽かされたら全てが水の泡だ』
一際綺麗な林檎を片手に、それ以外の供物を外に置いていく。心残りがひとつ解決し、ラウラは清々しい気分で霊廟へ突き進んでいくのだ。“誰にとっての”心残りだったかは、彼女にとってはどうでもよかった。
霊廟の内部は暗く、消えかけたランタンの灯だけが頼りだ。仄かな光がかつて彫られた壁画を照らし、ナールは静かにそれを撫でた。
直線的で、シンプルな紋様だ。女神信仰は大昔からあるものらしく、稚児の落書きめいた壁画は連綿と続いている。ひび割れてはいるものの、そのルーツは確かであるらしい。
『懐かしいな。この霊廟が建てられた時、儂は近くの村に住んでいたものよ……』
ナールは眼を瞑り、過去を懐かしむように黒曜の仮面を撫でた。
『今よりも神と人の距離が近い刻だ。儂は狩人だった。森で狩った獣の皮を剥ぎ、血に染まって生きていた。その日も、大物を仕留めようとしてな……』
ナールは足を止め、独り言を呟くように訥々と語り始める。ラウラは傍に立ち、静かに耳を傾けた。
『……金色に光り輝く牝鹿だった。儂は剣を構え、後を追うように森を抜けた。霊廟の門前に居るはずの牝鹿を視線から外さないようにしたのだよ。だのに、儂は獲物を見失った。そこに居たのは、
ナールが煩悶するかのように首を振る度に、穴蔵めいた通路に鈴の音が響く。耳飾りに鈴が繋がっているのだ。狩人を廃業してから着けた物なのか、それは彼の信仰を象徴するかのように揺れている。
『儂は、愚かだった。醜く、正しい道を歩んでこなかった。女が儂を一瞥した時、不意にそんな感情が湧き上がって来たのだ。それまでの人生が無為なように思える眼だった。咄嗟に、儂は目を逸らした。今思えば、それが罰だったのだろう。その日から、儂は不死になったのだよ……』
これは贖罪の旅だ。そう彼は呟く。もう一度逢って、次は目を逸らさずに謝罪をする。そのために、数百年も生きてきたのだ。
ラウラは彼に寄り添ったまま、小さく微笑む。彼の孤独な旅路の果てに付き合えたことが、ラウラに次の一歩を踏ませる原動力になった。ナールに供物を預けると、先導役を代わるかのように歩き始めたのだ。
終着点は、開放感のある広い部屋だった。祭壇らしき階段状の上層には空いたままの棺が安置され、それを見下ろすように荘厳なステンドグラスが張られた巨大な窓が鎮座する。そこに、ナールの云う女神の姿はない。
『女神様……?』
狼狽えるナールを横目に、ラウラは預けた供物の林檎を受け取り、棺まで駆ける。
本能で、やるべきことは理解していた。それは使命めいて彼女の脳裏を駆け巡り、動機を満たしていく。それは、この場で求められていたことだった。
林檎を棺に入れ、ローブのフードを跳ね上げる。ラウラの意識に混ざるのは、異なる記憶と権能だ。それは彼女の欠落を埋めるかのように、ラウラを元の姿に変貌せしめた。
『狩人よ。貴方の願いを叶えましょう……!』
『……此度は、贖罪に参りました。もう目を逸らさないと決めたのです。我が身の罪深さを知り、醜さを知り、愚かさを知りました。貴方に逢うために、これまで生きてきたのです!』
ナールは状況を察し、告解の体勢を取った。長い手足を折り畳み、
求められたなら、為せばならない。神がヒトからの信仰によって形を成す存在であるなら、求められた物を提供することによって進行を維持していかねばならない。信徒に幻滅されてはならないのだ。それが神という機構を動かすサイクルなのだから、仕方ない。
ナールの眼から光が消えた。彼は一筋涙を流し、祈りのポーズを取ったまま崩れ落ちる。それは、数百年の旅路の終着点だった。
『……やはり、独善は避けるべきでしたね』
願望器としての女神のあり方に悩んだのは、霊廟が建てられた直後だった。それまでの
理解者が欲しかった。永劫の刻を生きる女神はいつも孤独で、日々の生活を語り合う相手もいない。そう云った“神にとっては当たり前の事象”に、突如として耐えられなくなったのだ。それは、ヒトの中でも幼子の駄々に近い感情だった。
だから、目が合った初めてのヒトに祝福を授けたのだ。端正で生命力に溢れた狩人に、永劫の命を約束したのだ。彼のプリミティブな魂の輝きに、どうしようもなく美しさを憶えたのだ。
全ては独善だった。ヒトの社会生活を観測して理解した『不死は必ずしも喜びではない』という価値観を加味し、彼女は自らの行いに言い様もない恥じらいを感じる。
ステンドグラスに朝陽が差した。もうじき、夜が明けるだろう。
自分にとっての心残りもひとつ解決し、彼女はこれからの己の在り方を逡巡する。神としての純度を高めるために、これからは私情を挟まないようにしなければ、と言った具合だ。
だからこそ、彼の行先を祈るのは今日で最後にしよう。そう彼女は決心する。
秋が過ぎ、冬を越えて春が来るように、いつか生まれ変わったナールが幸福な生涯を送ることを。
独善かもしれない。ヒトの願いを叶えるべき女神がそれを願うことは奇妙かもしれない。それでも、いつかまた異なる姿で逢うことを祈らずにはいられないのだ。
巡礼のナール 狐 @fox_0829
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