巡礼のナール

愚者のパレード

 滑らかな白衣のローブを纏う巡礼の列は、シュヴァルツヴァルト街道の秋を告げる定例行事と化していた。ちょうど収穫祭の始まりに現れ、終わるまで街に滞在するのだ。

 その集団は、“女神への供物”を求めて現れる。採れたばかりの赤く滑らかな林檎や、職人の手によって丁寧に磨き上げられた宝石をバザールで買い集め、霊廟へ献上するのだ。生と美を司る女神に捧げる供物なのだから、各人が思う美の象徴を集める必要がある。それがその集団の教義だった。


 賑わう収穫祭の喧騒を眺め、ラウラは巡礼者たちの旅路の果てに興味を抱く。彼女の親は糸織りを営んでいるため、その年の一級品を買いに現れる巡礼者の存在は生活の大きな助けになるのだ。

 ラウラは母親が編んだ純白のローブを拝借し、小さな体を隠すように覆う。滑らかなシルクの肌触りが心地良かった。

 柔らかい金の髪にフードを被せ、首には月桂冠を模したネックレス。巡礼者の中には彼女と同じような年頃の少女もいるため、怪しまれることはないだろう。彼女は気まぐれに突き動かされるように、誰にも相談せずに家を出た。


 収穫祭が佳境に近づくと同時に、巡礼者一団は移動の支度を始める。先頭に立つ司祭の女性が店主に呪文を唱え、息災を祈るのだ。それが終われば、店主はもっとも品質の良い品を彼女らに渡す。ラウラが知る限り、街の全ての店主がその決まりに従っていた。

 荷車に積んだ果実が揺れ、揃いのローブに身を包んだ一団は街を出る。ラウラは数十人の巡礼者の最後尾に付き、歩調を合わせる。時折唱える呪文も、一定の間隔で行われる礼拝も、一度慣れてしまえば簡単に覚えられた。


 シュヴァルツヴァルト街道を越え、ラウラは冷たい土を踏んだ。周囲を見渡せば、陽を遮るように林立する樹木の群れが視界へ飛び込んでくる。近隣住人も足を踏み入れることの少ない、鬱蒼とした森林地帯だ。辛うじて視認できる獣道めいた細い路を歩き続ける一団は、各々がランタンを持つことで次に訪れる夜の闇に対処しようとしていた。


「ここを越えれば、霊廟があるの。女神さまがお眠りになられている寝室のような場所よ」


 ラウラの前方に立つ信徒の女は、ランタンを掲げて微笑む。そこに向かう理由を尋ねれば、少し考え込んで答えた。


「女神さまは、常に私たちを見てくださっているの。ヒトの知らないところで、ヒトが気づかない間に。私たちはそうやって平穏に暮らせてるの。だから、お礼のプレゼントをしに行くのよ。霊廟に置いたら、次に来る頃には無くなってるの。きっと受け取ってくれたんだわ……」


 信徒たちは、何かを求めて神に会いに行くのではない。むしろ、日々を平穏に暮らせるという保障を女神信仰によって得ているのだ。普段の生活を女神の功績に近付けることで、何も起きない日々を幸せだと認識している。

 ラウラは、その在り方を珍しいと思った。『神は願いを叶えてくれるものだ』と刷り込まれていたのだ。きっと、信仰の対象は陰で彼女らの無意識下の平穏願望を叶えているのだろう。彼女はそう思った。


 風が樹々を揺らし、陽が落ちていく。巡礼者たちは開けた草地に集い、ランタンや供物を囲むようにしゃがみ込む。ラウラは知る由もないが、夜の森は危険が付き纏う場所だ。縄張りを主張する獣が襲ってくる事もあるのだ。

 だが、彼らが対処せねばならない要因はすぐ近くまで接近していた。それは信徒らが順番に祈りを捧げている最中、ランタンの灯が消えかけた瞬間のことだ。


 早駆けの蹄の音を耳にし、司祭は強く瞼を閉じる。女神に強く祈ると、周囲の信徒に供物の分割移送を提案したのだ。その表情は鬼気迫り、何らかの覚悟を秘めていた。


「おい、お前ら動くなァ!! ここを通りたいなら……有り金、全部置いて行けよォ!!」


 泥に汚れた馬に乗って現れたのは、荒々しい野盗の群れだ。各々が剣や弓を持ち、樹々の間を縫うように手綱を操る。狙いは、おそらく供物だろう。

 巡礼者たちは分けられた供物を抱え、四方に分かれるように森を抜けようとした。だが、それを阻むように盗人は周囲を囲んでいた。一人が弓を構え、包囲網の中心に立つ司祭に向ける。


「……不信心者め。霊廟に捧げるべき供物を盗むなど、女神様の怒りを買うぞ。我々を常にておられるのだ。そばに居られるのだ。どんな報いが起こるか……」

「……ハッ、子供騙しの御伽話が怖くて盗人が務まるかよ。祈りたければ祈ってみろ。あんたらの言う信仰とやらがただの思い上がりだ、って証明してやるから……!!」


 風を切る音と共に、弓弾かれた矢が司祭の肩に突き刺さる。白いローブを鮮血で濡らしながら、それでも司祭は祈り続けている。視線を野盗の棟梁から離さず、自らの命が危ういという恐怖さえも上書きして。


 ラウラは、耐えられなかった。何かに突き動かされるかのように、フードを脱いで司祭の前に躍り出たい欲求に駆られる。だが、理性はそれを必死に止めていた。そんなことをして、何になるというのだ、と。


「よし、もう一発だ。今、命乞いしたら宝は半分で許してやるよ。それでもまだ祈って信仰を捨てない馬鹿どもなら、俺は何も知らん。皆殺しだ……」


 下卑た口調で教えを棄てようとする棟梁は、さながら試練を与える悪魔めいていた。屈しなければ肉体的に死ぬが、屈せば信徒らのそれまでの信仰は全て価値のない物となる。司祭の表情がわずかに曇り、祈りをそらんじる唇の動きが小さくなる。その瞬間を見計らって、二本目の矢が引き絞られた。


「残念、時間切れだ。放て」


 一陣の風が吹き、草木がそよぐ。射抜かれるはずだった矢は弓から外れることはなかった。矢羽を残して、朽ち果てたのだ。

 状況が把握できない野盗たちは、恐慌状態に陥った。混乱の果てに乱れた隊列によって数人の巡礼者を逃し、彼らは慌てて次の矢を装填する。それは、発射の瞬間に矢尻が砕けた。


 ラウラは、夜の闇に潜むその正体を視認していた。

 或いは風よりも速く、或いは凪よりも静謐であった。端切れのような黒い襤褸を纏い、土気色の肌を月光に晒す。“それ”は空中を舞うように跳躍し、発射された矢を素手で圧し折る!


『——愚者は居るものだな、いつの時代も』


 鈴の音が響いた。一拍遅れて、盗人たちは馬上で仁王立ちをする何者かの影を目撃した。


『女神の罰と訊いて見物に来たのだが、あの方が手を下すまでもない相手ではないか。それなら、わしが代わって手を下すのも認められるだろうさ』


 月光に照らされた仮面は、つるりとした黒曜の色をしていた。そこから覗く眼窩に幽鬼めいた眼光が灯り、馬は恐怖で暴れまわる! 射手が一人地面に転がり、乗っていた馬に凄まじい蹴りを食らう!


「曲者だ、やれ!!」


 曲刀を振り回す野盗が接近し、“それ”に刃を振り下ろす。鮮やかな血が噴き出し、纏っていた布が裂けた。そこから覗く汚れた肌に、冷たい白刃が突き刺さっている。“それ”が、曲刀を握る腕を掴んだまま離さないのだ。


『——斬り殺すか? それとも、弓を用いて射殺すか? どちらでも構わん。ひとつ、手間が省ける』


 野盗たちは武器を構えたまま動かない。“それ”は不敵に笑い、自らの肉を断つかのように刃を引き寄せる!


『どうした? 儂も信仰者だ。だのに、か弱い司祭は傷つけても儂は殺せぬと? その程度の覚悟で罪を犯すなら、やはり貴様らは愚者だが……?』

「…………やれッ!!」


 弓を構えた野盗が、緊迫した状況を動かした。それはまさしく鏑矢のように、“それ”の頭部を真っ直ぐに捉える!


『……やはり、贖罪が必要か』


 突き刺さっている矢を引き抜き、“それ”はゆっくりと首を振った。黒曜の仮面を外し、額から流れる血を受け止める器に変える。幽鬼じみた眼光は、野盗の棟梁に静かに向けられている。

 肉を穿たれた筈だった。矢は頭部を貫通し、曲刀は彼の肩口に刺さったままである。常人であれば死んでいる筈の重傷なのだ。

 傷を覆うように、肉が集う。あなを土気色の肌が埋め、零れ落ちていく血は纏っていた襤褸へ向かって吸い寄せられていくのだ。

 それは、再生だった。


『……名乗ろう。我が名はナール。あの方に罰を与えられ、不死しなずの身体を手に入れた。貴様らと同じ、愚者narrよ』


 灰を被ったような色の髪は腰まで伸びるほどに長く、無駄が無く引き絞られた体躯は細い。土気色の肌は死人じみて生気が無いが、その表情にはかつて端正だった面影があった。

 ナールと名乗った男は、自らの肉から剥がれた曲刀を握る。小さく溜め息を吐くと、唖然とする野盗たちに突き付けた。


『命乞いをすれば許してやる、だったか? 生憎、儂はそこまで寛大ではないのだよ』


    *    *    *


 ラウラの眼前の景色は血に染まっていた。野盗も巡礼者も半死半生の体で、一部は物言わぬ肉塊と化して地に伏している。

 彼女は司祭のそばで傷の具合を確認した。矢を射抜かれて衰弱してはいるものの、まだ息はある。とはいえ、予断は許さないだろう。残った巡礼者はまだ生きていた馬を引き寄せ、司祭を乗せて街へ戻るように駆けた。

 彼らの心残りは、分配しきれなかった供物の扱いだろう。ラウラは残った荷物が入った木箱を確認し、どうすべきか思案した。


『幼子よ、貴様も巡礼者か……?』


 曲刀を放り投げ、ナールは頭上の月を仰ぐ。浴びた返り血は全て襤褸によって吸収されたが、足元の骸には未だ血溜まりが残っていた。彼は眠る骸の全てに黙々と祈りを捧げ、ラウラの方へ向き直る。


『死んでしまえば、悪人も善人も同じことよ。丁重に送ってやらねばな……』


 ラウラは追従するように祈りを捧げた。偽ってはいるが、ここまで歩いてきた縁もある。それに、自らがすべき事を探していたのだ。


『……儂も、霊廟に向かうつもりだった。貴様が望むなら、随伴を許可しよう。供物を運ばねばならないのだろう?』


 ラウラは頷いた。霊廟に何があるか興味があったのは勿論だが、この供物を運ぶのは自分にしかできない仕事のように思えてきたのである。

 ナールは満足げに笑い、拾った枝と剣を擦り合わせて火を灯した。暗い森を通るための仄かな灯りである。


『……幼子よ。何処かで逢ったか?』


 振り向きざまに訊ねるナールに、ラウラは重い木箱を抱えたまま首を横に振る。フードの中で、金の髪が揺れた。


『……忘れてくれ。悠久の時を生きていると、似た顔に逢ったやもしれん。現に、生者の顔の違いなどもう見分けられんよ』

 

 白と黒、対照的な二人の背中が夜道へ溶けていく。目的地に辿り着くまでの、奇妙な随伴だった。

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