二.混濁


ゆっくり時間を引き伸ばしたのに、洗うものも無くなってきたなあ。そろそろが頃合いだろうか。最後の皿を水切りかごへ立てかけて、少しだけ水の音を落とす。

耳をすましていると、いつもとは違うやりとりが聞こえた。男が、何かを母に頼んでいるようだった。おや?まだ音は立てていた方がいいのかしら、いいや、私に何の関係があるんだ、などと思っているうちに、キィとドアの開く音がした。そのまま、男の声がした。


「かなんちゃん」


ビク、と全身が強張った。

呼ばれた。

あれだけ居ないものとして扱われていた私が、名前を呼ばれた。

関わりがなかったから、私はそこに居ないものだから、麻痺していた。本当は、こんな状況は、この家は。異常で、恐ろしかったのだ。

振り返るべきなのか、返事をするべきなのか、それとも幽霊を貫くべきか、手を震わせて迷っているうちに、男はすぐ後ろに立っていた。


「夏南ちゃん」


一度目よりももっと近くで私を呼んでいる。

どうしたら、いいんだろう。

動けない私の背中から、脇の下を通り、大きな手が回り込んでくる。両胸を掴んだ掌には、遠慮だとか、罪悪感だとか、ましてや、愛など。微塵も、あるわけが無かった。


ぎゃあぎゃあ騒いだ気もするし、それを唇で抑えつけられた気もするし、胸以外の場所も触られた気がするけれど、覚えていない。

ただ、一度も入ったことがない母の部屋のドアを抜けた時、裸の母が私のことを、とても、とても、冷たい目で見ながら、タバコを吸っていたことだけは写真のように覚えていた。

着ているようで着ていない服を母のベッドで剥ぎ取られた後は、ただただ、薄暗い小さな地獄で、覚えもない罰を与えられるだけだった。


胸よりも足の間を。

唇は紡ぐより触れ合うことを。

女はより若い者を。

そして、その獄卒が何を "良く" 思うのか、どう鳴けば褒められるのか、どうすれば地獄を天国と感じられるのか。毎晩の呵責は私に男を教え、二年が経つ頃には、母から学んだ女の体をも、私は知り尽くしてしまっていた。


愛、とは。

愛とは、フィクションで、私の世界では "気持ちいい" というルビがふられていて、それだけで、虚しくて、愛は愛でも愛撫だけの、その結末はただの絶頂で、もう、本当に、幽霊になってしまいたいと思わせるものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る