ピクルスかずやん

@ooaann

ピクルスかずやん

 二人を乗せた木製のボートが、漕ぐたびに軋んだ音を立てる。久々に人を運ぶ仕事なんかさせて大丈夫だったか、と和也は心配になった。閉鎖されたボート乗り場で、捨てられたように眠っていたボートを、二人で無理やりたたき起こすようにして水に浮かべたのはつい今し方のことだ。

「途中で沈んだりしないよね?」

 千佳子が無邪気に笑いながら言った。笑ってはいるが、少しばかり本気で不安そうだ。

「沈んだらワニかなんかの餌になるかもよ。」

 和也も同じ気持ちなのを悟られないよう、敢えてからかうように言ってみる。

「そんなの日本の湖にいるわけないじゃん!」

 千佳子が露骨に焦ったような口ぶりになったが、すぐに気持ちを落ち着かせるように、努めて冷静につぶやいてくる。

「でも、こんな服で水に投げ出されたら泳げないのは確かだね。」


 見渡す限り、どこまでも一面の水。薄い霧がかかっているせいか、対岸は全く見えない。こんなに広い湖が日本にあったのか、と和也は感心した。まるで大海原に投げ出されたような気分だった。

「なんかさ、河童が出るって有名らしいよ。」

 千佳子が思い出したようにポツリと言った。

「え、なに?調べたの?」

 河童・・・?彼女から予期せぬ単語が飛び出してきて、手にしたオールを思わず水に投げ出しそうになる。

「ううん、さっきのボート乗り場の看板に書いてあった。」

 いつの間に撮ったのだろうか、千佳子が携帯の写真を顔にかざしてくる。可愛らしいマスコットのような河童が、ボート乗り場をきゅうりで指し示している看板が映っていた。

「へえー、ちょうど霧がかかって良い雰囲気じゃん。もしかしたら会えるかもよ?」

 和也は写真を見ながら、いたずらっぽく言った。

「ねーもうやめてよ。」

 千佳子のリアクションを見るたび、ついつい彼女をからかいたくなる衝動に駆られてしまう。どうやら彼女の中では、ワニより河童のほうが信憑性が高いようだ。

 大学3年の前期、今日は休講のタイミングが重なって、せっかくできた休みの日だ。まだ付き合って3か月ほどだが、他の皆が羨むほどの彼女が出来たおかげで、和也は休日ができるのを密かに心待ちにしていた。ドライブからの無断のボート乗船は完全に思い付きだったが、文句も言わず素直について来てくれるのを見ると、千佳子も少しはやってみたかったのかと前向きな受け取り方ができる。


「結構漕いできたけどさ、ちゃんとボート乗り場に帰れるの?」

 和也が頭の隅に置いておいた懸念事項を、まるで察したかのように千佳子が聞いた。

「それな、俺も心配になってたんだよね。」

 おどけた笑いを作りながら、辺りを見渡す。気づけばかなりの距離を漕いできたらしい。どちらの方角を向いても、陸地らしい影は全く見えない。

 湖がいくら広いっつっても、こんなに周りが見えなくなるほどのもんなのか?

 和也自身が、自分の中で不安が膨れ上がっているのに気付いたとき、

「ねえ、なにあれ・・・。」

 不意に、千佳子が目を見開いて言った。明らかに、何かおかしな物を見る目で、和也の後ろに目を凝らしている。どうも様子がおかしい。和也が振り返ると、そこには何やら水面から、標識のようなものが突き出ていた。

「へ?」

 思わず声を上げる。ボートの進む方向、その少し先に、幻想的な風景にはまるでふさわしくない、白塗りの標識が忽然と水から生え出している。運転中によく見るあの丸い枠組みの中に、何やら不可解なイラストが描かれているのが、霧の中でもはっきりと見えた。

 湖だぞここ?道路じゃねえんだぞ?

 和也が不信そうに眺めている横で、千佳子が震える声でつぶやいた。

「おかしい・・・。おかしいよあんなの・・・。」

 ボートをゆっくりと動かしながら、恐る恐る標識に近づいてみる。吹き付ける風も、僅かに波立つ水も、まるで微動だにしていないところを見ると、どうやら浮かんでいるわけではないらしい。

「どうやって立ってんだよ。あんまり深くねえのかこの湖。」

 オールを伸ばせば届くほどの距離までボートを進めると、今度は手に持ったそれで、標識の胴体を突いてみる。地球の中心から生えてきたのではと思うほど、全くもってビクともしなかった。

「ねえこれどういう意味かな?」

 千佳子が標識のイラストを見上げながら言った。和也も目線を上げてみると、そこには、人間の形をしたマークの下に左矢印が、河童の形をしたマークの下に右矢印が、記号のように描かれていた。

 なんだこれ・・・。ここで分かれ道ってことか?

 湖なんかで、進む方向を示されているのもおかしな話だ、と和也は思った。

「水の上で右か左かの分かれ道なんて変だよね。」

 千佳子も同じことを思ったらしい。無視する?と和也に問いかけてくる。

「でもなんか、面白そうじゃね?特に河童の絵が描いているほう。」

 和也の中で、一抹の好奇心が湧き上がってきた。

「え、ちょっと、マジで出たらどうすんの!?」

 千佳子が正気じゃない人間を見るような目で和也を見た。それを跳ねのけるように、オールをしっかりと握りしめる。

「出たらむしろラッキーじゃん。写真・・・、いや動画撮ろうぜ。youtubeとかに載せたら再生数いくんじゃね?」

「いや襲ってくるタイプのやつだったらどうするのよ!」

「大丈夫。そのときはこのオールでぶちのめす。千佳子だけは俺が守るから。」

 強張った顔の彼女を乗せて、ボートを漕ぎだす。実際に存在しないものなんかを相手に、なにマジになってんだと少し冷静な気持ちになった。


 霧で標識が見えなくなるほど進んだところで、千佳子が何かに気づいたように口を開いた。

「あれ、わたし手汗やばいかも・・・。」

 そう言って手のひらを和也に見せてくる。自分の見ていないところで水に手をつけていたのかと思うほど、千佳子の手はびっしょりと濡れていた。それを見て、オールを漕ぐ自分の手も、何やら滑りやすくなっていることに気づいた。

「あれ、俺もだわ。」

 自分の手のひらを眺めてみる。水滴が手のひらから流れ出て、ひじの当たりまで伝って行った。

「霧で水滴がついただけじゃね?ほら、顔とかも少し濡れてきたし。」

「ホントだ、顔もヤバい。これ気づいたらめっちゃ濡れてるやつじゃん。髪とかお風呂上りみたい。」

 千佳子のお風呂上りという言葉についドキッとしてしまう。水が滴る感じの彼女も悪く無いなあ、などと自分でもどこから目線か分からないまなざしでつい見てしまう。

「標識の方向もいいけどさ、戻ることも考えないと。霧雨が激しくなってくるかもしれないよ?」

 千佳子がトートバッグからハンカチを取り出しながら言った。

「そうだな。このまま進んで、陸地が見えたらそこから上がろう。車までは歩こうぜ。」

 提案する和也の額を千佳子がハンカチで拭うと、フローラルな香りが彼の鼻をくすぐった。その匂いに包まれながら、今この場所には俺と千佳子、二人しかいないのだという実感を、改めてしっかりと噛みしめる。

 この時間が続くなら、もう少しゆっくり進んでもいいな、と和也が気を抜きかけたちょうどそのとき、

「きゃあああああああ!!」

 千佳子の口から甲高い悲鳴が上がった。和也も思わず飛び上がるように彼女を見やる。

「手・・・、てええええええ!!」

 和也にかざした千佳子の手のひらは、もはや人間のそれではなくなっていた。指と指の間には、水かきのようなものがはっきりと出来上がっていた。弾かれたように自分の手のひらの感覚も確かめる。確かめようとした和也は、その場に凍り付いた。手で握りしめていたと思っていたオールが、いつの間にか無くなっている。どこで落としたのかももう分からない。代わりに、この世のものとは思えない、指と指の間に水かきのような薄膜が張った、両の手のひらがそこにはあった。自分がそれまで手のひらに抱いていた感覚が、幻だったかのように失われている。腕から先が別の何かにすげ変わったようだった。

「あっ・・・、えっ・・・!?」

 すでに正気を失いかけている千佳子を前にして、和也も頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 は・・・?なんだよこの手!?夢かこれ!?ってか待てよ、オール無しじゃボート漕げねえじゃん!どうやって帰んだよ!

 真っ青な顔で唖然とする二人を乗せて、ボートはひとりでに標識の指し示す方角、右へ右へと進んでいく。対岸など見える気配すらなかった。

「ねえここどこ!?わたしは!?わたしどうなるの和也!!」

 千佳子が叫びながら、和也の手のひらを握ってきた。お互いに人のものではない手になっているせいか、全然上手く指を絡められない。すでにボートの底では、二人も気づかないほどゆっくりと、水が時間をかけてその面積を浸食していた。

 二人の若者を乗せたボートが、まるで行先を刷り込まれたかのように、ひとりでに進んでいく。右へ右へと、ゆっくりとその船体を沈ませながら。その先に何があるのかは、誰も知らない。

 身体の芯まで水に浸食されたかのように、朦朧とする意識の中で、和也は不意に思った。

 きゅうり食いてえ・・・。そういえばここの湖がなんで閉鎖されたのか、理由をぜんぜん調べていなかった・・・。

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