2 瑠衣ちゃんは卒業したい

好きな女に迫られるというのはいいものだ。年下のずっと気になっていた職場の後輩が、目を潤ませて私にすがりついて来る。出来るならこのまま持ち帰ってしまいたい。

 駅のホームのベンチで電車を待ちながら、私はやましい気持ちを押し隠した。

虹子にじこ先輩、助けてください。私、苦しいんです」

 九つ年下の明日、二十五歳になる後輩の瑠衣るいちゃんは、はらはらと涙をこぼしながら私にすがりつく。

「助けてあげたいけど、どうすればいいのか⋯。役立たずでごめんね」

 何も出来ない私は瑠衣ちゃんの頭を撫でた。

「嫌です。助けてください」

 遂に抱きつかれてしまった。これは役得だけれど、瑠衣ちゃんはきっと苦しくてそれこそ藁でも何でもいいからすがりたいだけなのだろう。

「⋯⋯⋯っくしゅん」

 瑠衣ちゃんはハンドタオルで口元を抑えてくしゃみをした。それすらも愛らしい。

 やっぱりお持ち帰りしてもいいだろうか?

「ねぇ瑠衣ちゃん、病院には行った? 行った方が少しは良くなるんじゃないかな」

「行ってないです」

「どうして? 病院は嫌い?」

「どこも予約がいっぱいで⋯⋯」

「あー⋯⋯」

 それなら行きたくても行けないのは仕方がない。

「虹子先輩はいいですよね。花粉症じゃなくて。もう先輩のコートで顔拭っちゃいますから」

「えー、それは困る」

「じゃあ、虹子先輩治してください。先輩といたら治る気がします」 

 瑠衣ちゃんはしっかりと私に腕を回して、頭を私の首元に埋めている。こっちの気も知らないで、こんなに体を寄せないで欲しい。そのうち理性が死んだらどうしようか。 

「私お医者さんじゃないから、瑠衣ちゃんの体楽にしてあげられないけど、好きな食べ物ぐらいは奢るよ。どうする? 何か食べたいものない? 明日瑠衣ちゃんのお誕生日だしケーキなんてどう?」

「T駅の近くのケーキ屋さんで苺タルト食べたいです。前から虹子先輩と行きたくて⋯⋯」

「あそこね。いいよ。今から行こうか?」

「はい」

 瑠衣ちゃんは私から離れる。もう少し触れていたかったけど仕方ない。

 タイミング良く電車が来たので私たちは乗り込んだ。

 目的地のあるT駅で降りて、お店へと足を向ける。歩いて三分ほどで到着した。

 アンティーク調のおしゃれな佇まいのお店に入ると、ガラスケースには見目にも美しい色とりどりのケーキが並んでいた。

「瑠衣ちゃん、好きなだけ頼んでいいよ」

 可愛い後輩のためなら少しくらいの出費も厭わない。彼女が喜んでくれるなら。

「虹子先輩⋯⋯」

 相変わらず潤んだ瞳でじっと見つめられると変な勘違いを起こしそうなので、私はさっとケーキへ視線を移した。

 瑠衣ちゃんはさっき言った通り苺タルトを選んだ。

「それだけでいいの?」

「お土産に後でモンブランとアップルパイ頼んでもいいですか?」

 うるうると私を上目遣いで見ている。これは卑怯だ。こんな頼まれ方をして断る女がいるのか? 否だ。

「もちろんいいよ」

 私は満面の笑みで返す。瑠衣ちゃんは嬉しそうにしていたので、これが見られただけでも私的には儲けものだった。

 店員さんに案内されて私たちは窓際の席に通される。程なくして、瑠衣ちゃんが頼んだ苺タルトと私が頼んだミルフィーユが運ばれて来た。

「虹子先輩にケーキ奢ってもらえて、花粉症になって唯一良かった出来事です」

 目元を朱に染めた顔で言われると、何か特別な感情があるのではないかと思い込みたくなる。が瑠衣ちゃんはただの花粉症である。

「ミルフィーユも美味しそうですね」

「後でこれも買ってあげようか」 

「大丈夫です。でも一口だけください」

 瑠衣ちゃんは餌を待つ小鳥のように口を開ける。

(大胆だなぁ⋯⋯)

 関心しつつ、私はフォークで切り分けたミルフィーユを瑠衣ちゃんの口に入れた。

 瑠衣ちゃんは満足そうに頬張っている。

「虹子先輩も苺タルト食べますか?」

「私はいいよ。全部瑠衣ちゃんが食べて」

 彼女の好物だから遠慮したのだが、瑠衣ちゃんは神妙な顔つきになった。

「私も先輩にあーんしたかったのに」

 可愛いことを言ってくれる。

「私みたいなおばさんにしても楽しくないでしょ」

「そんなことないですよ。虹子先輩全然おばさんなんかじゃないです。美人だし、頼りになるし、時々ちょっと可愛いです」

「そう? ありがとう」

(可愛いのは瑠衣ちゃんの方じゃない) 

 お世辞とはいえ、大好きな後輩に褒められるのは満更でもない。 

 食べ終えた私たちは再びガラスケースの前でケーキをテイクアウトすると、お店を出た。

 駅まで戻るために歩道を歩いていると、瑠衣ちゃんの気配がしなくなった。振り返るとかなり離れた場所で立ち止まっている。私は慌てて彼女の所まで走った。

「瑠衣ちゃんどうした? 具合でも悪くなった?」

 俯いているので顔を覗き込む。大粒の涙を流していた。

「また悪化しちゃった? 大丈夫? 辛いね」

 医者でも薬でもない私には、瑠衣ちゃんの花粉症をどうにかしてあげることはできない。せめて祈ったら治ってくれればいいのに。

「ドラッグストアに寄ろうか。薬剤師さんによく効く薬あるか聞いてみよ」 

「虹子先輩⋯⋯」 

「ん?」 

「私早く卒業したいです」

「卒業?」

「花粉症から」

「そうだね。卒業証書もらって、はいおしまい!ってできたらいいよね」

「⋯⋯はい。あと先輩から卒業したいです」

「私から?」

 何だか不穏な話になってきた。もしかして転職でも考えているんだろうか。それとも私の下では働きたくない、なんて言われたらどうしよう。私の胸がどくん脈打つのを感じた。

 顔を上げた瑠衣ちゃんはこちらがたじろぐほどにまっすぐに私を見ている。まるで射るように。

「私、もう後輩なんて嫌です。虹子先輩の後輩卒業したいですっ! いっぱい虹子先輩に⋯⋯⋯『好き』って気持ち⋯⋯送ってるのに⋯⋯⋯⋯どうして気づいてくれないんですか! 私は虹子先輩の特別になりたいのに!」

 瑠衣ちゃんは泣きながら私に抱きつく。

「今日だって⋯⋯頑張ってアピールしたのに気づいてくれないっ」

(これは私が望んでいた展開では⋯)

 私は瑠衣ちゃんを抱き返しつつ、彼女の本心を探る。この涙は花粉症なのか。それとも別の涙なのか。

「私も瑠衣ちゃんのことは大好きだよ」

「"後輩の好き"はいりませんっ!」

「どんな好きが欲しいの?」

 瑠衣ちゃんは私を見つめる。今にもキスしてしまいそうな至近距離で。

「何で分かってくれないんですか。虹子先輩もおんなじ気持ちかもって、何度も期待したのに」

「もっと分かりやすく説明してくれないと分からないなぁ」

「もういいです! 虹子先輩のバカ! 鈍感!」 

 そう叫ぶと瑠衣ちゃんは駆け出す。急いで私も後を追った。信号を渡ろうとした瑠衣ちゃんは赤で渡れなかったせいか、すぐ側の公園に入ってしまう。中央にある大きな桜の木の前で私は彼女を捕まえた。

「⋯⋯⋯逃げないでよ、瑠衣ちゃん」

「虹子先輩がいけないんですよっ」

 相変わらず真っ赤な目で私を睨む。

「ごめん。あのさ、瑠衣ちゃんが欲しい好きってこういうことでいいの?」

 私は彼女を桜の木に押し付けるとそのまま唇を奪った。

 勘違いだったら大惨事だけれど、瑠衣ちゃんはまた涙を流しながら私に飛びついた。

「虹子先輩! 虹子先輩!! 良かった。伝わってた!! 私、先輩のことが大好きです!!」

 私の腕の中で瑠衣ちゃんは小さな子供みたいに泣き出した。

「間違えてなくてよかった。私も瑠衣ちゃんが好きだよ」

 まさかずっと密かに片想いしていた後輩から告白されるとは思わなかった。まだ現実感がなくて、夢を見ているよう気がする。この後、目が覚めて夢オチにならないといいのだけど。 

 どれくらい時間が過ぎただろうか。瑠衣ちゃんがようやく落ち着いたので、近くのベンチに腰をかけた。がっちりと瑠衣ちゃんに手を握られている。

「虹子先輩、私⋯⋯⋯っくしゅん!⋯⋯くしゅん」

「⋯⋯⋯大丈夫?」

 瑠衣ちゃんがまた泣きそうになったので私は宥めた。

「花粉症からも卒業したい〜」

「ごめんね。そっちは私ではどうにもできないよ」

「でもいいです。やっと虹子先輩に好きって言えたから。後輩は卒業でいいんですよ⋯⋯ね?」

「いいよ。私と付き合ってくれる?」

 私が繋いでない方の手を出すと、瑠衣ちゃんも手を取った。

「はいっ」

 特大の可愛い笑顔をもらって私まで涙が出そうになった。 

「虹子先輩、私明日、誕生日です」

「うん。そうだね。明日お祝いしないとね」

「プレゼント、くれますか?」

「私に贈れるものなら」

「あの⋯⋯、虹子先輩が欲しいです。だから⋯⋯えっと、家に泊まって行きませんか?」

 瑠衣ちゃんは目と鼻だけでなく、顔を真っ赤にしている。愛おしくてたまらない。

「私は構わないけど、瑠衣ちゃんのこと食べちゃうかもよ?」

「虹子先輩にならいくらでも」

 

 その日の夜、私は瑠衣ちゃんの家に泊まることになった。果たして私が彼女が欲しかったものをあげられたかどうかは、秘密である。         

            

            

       

                  

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