3 恋の道には犬がさかしい
日曜日の朝、私は愛犬ウェルシュ・コーギーのルルと一緒に散歩へ出かける。秋の高い澄み渡る空の下を、のんびり歩いていた。
爽やかな空気の中で体を動かすのは気持ち良い。心も体も清々しい気分で、自然と足取りも軽快になった。そんな私に感化されたのか飼い主に似たのか、ルルも楽しそうに歩く。
愛犬との散歩は日々の楽しみではあるのだけど、私にはもう一つ別の楽しみがあった。散歩に出かける理由の半分くらいはそれかもしれない。
まだ人気の少ない路地を進みしばらくすると、大きな公園へとたどり着いた。同じように愛犬を連れた人と挨拶を交わして、公園をぐるりと取り囲む遊歩道に出る。来た時とは反対側にある出口近くのベンチに、私は目的の人を見つけた。
「
私はルルと一緒に駆けて近寄った。
やや釣り目がちの凛々しい瞳が、陽光でキラキラしている。私と目が合うと笑顔で手を振り返してくれた。
「
奏海さんがルルを撫でくりまわすと、ルルも懐いているので飛びついて奏海さんの顔を舐めている。
(私もルルになりたい)
などとしょうもない事を考えて愛犬に少し嫉妬してしまう。
私も奏海さんの愛犬である
奏海さんは犬仲間とでも言えばいいのか、愛犬の散歩中に知り合った。日曜日の朝によく顔を合わせているうちに話すようになった。
他にも犬仲間はいるのだけど、私にとって奏海さんは特別だった。
優しく落ち着いた佇まいに、整った顔立ち。声をかけるのは少し躊躇ってしまうくらい、雰囲気がきりりとしていてかっこいい。だけど話すとすごく気さくで、そのギャップに一気に惚れ込んでしまった。
一挙手一投足が洗練されていて、目を奪われる。
私より七つ年上の素敵なお姉さん。
一言で言えば一目惚れだった。
ルルの散歩が奏海さんと知り合ってから、更に楽しみと化したのは言うまでもない。
だけど、奏海さんへの想いは永久に胸の内にしまっておく。
何故なら奏海さんの左手の薬指には指輪がはまっているから。事実を知りたくなくて、怖くて「結婚してるんですか?」なんて聞けない。
取り敢えず、今のところ旦那さんの話は出て来ないのでそれについてはないことにしておいている。
私の想いが叶うわけがないのだから、密かに憧れて、彼女と会うことを楽しみにするくらいはいいのではないか。
「ところで千紗ちゃんはホラー映画って好き?」
「ホラーですか? たまに見ますよ。どちらかと言えば好きです」
「そうなんだ! 今公開されてる映画知ってる? これなんだけど」
奏海さんはカバンから封筒を取り出した。中には絶賛公開中の映画のチケットが入っていた。テレビでもよくCMが流れている。
「知り合いの人にもらったんだけど、私の周りにホラー好きな人いなくて⋯。私もホラーは苦手なんだよね。迷惑じゃなかったら貰ってくれない? このまま無駄にしちゃうのももったいなくて」
「いいんですか?」
「貰ってもらえると助かる」
私はお言葉に甘えてそのチケットをいただくことにした。
「良かったら彼氏やお友だちと一緒に楽しんで来て!」
「彼氏ですか? 残念ながらいなくて」
適当に笑って誤魔化す。彼女とも一年半前に別れてるし。
「そうなんだ。何かごめんね」
「いえ、全然大丈夫です」
せっかく奏海さんから貰ったのだから、きちんと有効活用したい。友人の顔をいくつか思い浮かべる。ホラーが好きな友人もいる。でも⋯⋯。
「奏海さんはホラー苦手なんですよね?」
「うん。何か音とか怖い顔とかにびっくりしちゃって」
「誰かと一緒なら見られたりしますか?」
それならわざわざ私なんかに譲ったりはしないだろうと思いつつ、返答を待ちわびる。
「一人じゃなければ⋯⋯」
「あの、良ければ私と観に行きませんか?」
(奏海さんと映画!!)
二週間後の日曜日、私は家の最寄り駅の改札前で一人浮かれていた。
ダメ元で聞いてみてよかった。
『千紗ちゃんともっとゆっくりお話してみたかったんだ』
なんて笑顔で返されて私は天にも昇る気分だった。
初めて愛犬たちを介さずに会う。
(これがきっかけで散歩以外でも会えるようにならないかな)
駅で締まりのない顔になりそうになるのを何度も堪えながら、私は奏海さんが来るのを待っている。
約束の時間ぴったりに奏海さんはやって来た。
散歩中のラフな格好しか見たことなかったけど、今日は秋らしい色合いの大人可愛いコーデで決めている。
(これが眼福というやつか)
普段ももちろん素敵なのは言うまでもない。でも今日は輪にかけて魅力が増していた。
「千紗ちゃん、遅くなってごめんなさい」
「私は用があって少し早めに来ていただけですから大丈夫です」
(本当は一分一秒でも早く奏海さんに会いたかっただけなんだけど)
私たちは電車に乗り、二駅隣りの街にあるショッピングモールへと着いた。ここには大きなシネコンが入っている。
新しくできたばかりのせいか、館内はどこも真新しい。早速、中に入って中程の席に落ち着いた。
隣りで奏海さんが深呼吸している。
「怖い、ですか?」
「ううん、怖いわけじゃなくて⋯。少し怖いけど映画館に来るの五年ぶりで、ちょっと緊張してる」
「久しぶりに来るとどきどきしますよね」
映画が始まってどれくらい過ぎただろうか。大きな音楽が流れたり、画面に人ではないものが映されると奏海さんは怖いのか私の手を握って来た。
目は画面に釘付けで、どうも無意識に手を握っているようだった。映画の最中なので声をかけるわけにもいかない。
(握り返したらダメだよね⋯)
おそらく奏海さんは恐怖を紛らわせるために何か縋れるものが欲しかったのかもしれない。
(変な期待はしない、しない!)
と自分に言い聞かせる。
おかげで、話題作の映画もあまり頭に入って来なかった。
二時間の上映が終わり、明かりが着く。
横を見ると、飼い主に無理矢理病院に連れて来られた犬みたいな顔の奏海さんがいた。その可愛いさに抱き寄せたくなるが、そんなことはしてはならない。
「奏海さんがホラー苦手なのに誘ってしまってすみません」
「ううん、私が行くって返事したわけだし。そもそも私が貰ったチケットだから。この映画の音楽を担当してる人、前から好きなアーティストでそういう意味では楽しかったから。⋯⋯⋯あと側に千紗ちゃんがいたから何とかなった」
笑顔を見せてくれる。
(そんなこと言われたら調子に乗っちゃいそう)
私はデレデレになりそうな顔を引き締める。
「この後、ご飯でも食べに行きませんか? ホラーの口直しに奏海さんが好きなもの食べましょう!」
「うん、ありがとう千紗ちゃん」
私たちは奏海さんが気になっていたカフェレストランへと足を運んだ。
その日一日、奏海さんの手の感触が忘れられなかった。
気づけば季節は冬に近づいていた。街中やお店の飾りはハロウィンからクリスマスに変わった。
私はあの映画以降、ちょくちょく奏海さんと出かけたり遊びに行く仲にまで進展した。犬仲間から友だちぐらいには昇格できた気がする。
このまま仲良く友だちでいていいのか、私は迷っている。奏海さんは結婚しているかもしれないのだから。
未だにそれについては聞けていない。結婚していなくても、指輪の相手がいるのは間違いない。ただのおしゃれで左手の薬指に指輪をするだろうか。
(仲良くなればなるほど、後で辛くなる)
それを分かっていても、奏海さんと過ごす楽しさを手放すことはできそうにない。
私はモヤモヤを晴らすために、お昼を食べた後でルルを連れて散歩へ向った。
今日は祝日なので、公園に行っても奏海さんには会えないだろう。今は彼女との関係をどうするべきか考えたいから、むしろ会えない方がいい。
いつもの散歩コースを歩いている時だった。普段なら右の路地を曲がり神社の脇を通って公園へ行くのだけど、何故かルルは左の路地に進んで行く。
「どうしたの、ルル?」
私みたいに気分転換でもしたくなったのかもしれない。私はルルに逆らわず、一緒に付いて行くことにした。
程なくして、川沿いの道へと出る。先に見える小さな橋の上の人影が目に留まった。何となく見覚えのあるシルエット。
ルルは橋の方へとずんずん近寄って行く。
「千紗ちゃん⋯⋯」
「奇遇ですね。奏海さんも散歩ですか?」
橋には奏海さんがいた。しかし愛犬の大吉くんはいない。
「今日は一人でね。大吉はお留守番」
どことなく何かが吹っ切れたような、さっぱりした顔をしていた。
「この辺りもよく来るんですか?」
「桜がきれいだから春になるとたまに」
川沿いには数は少ないが桜が植えられていた。しかし冬が真近の現在、桜は葉すら残っていない。
「千紗ちゃん、この川に落としたものって拾えるかな?」
「⋯⋯無理だと思いますけど、何か落としたんですか?」
川は浅瀬だが、降りられる道や階段などはない。
「だよね。落としたのはそういう運命だったのかも」
「⋯⋯⋯⋯?」
「さっきね、指輪落としちゃったんだ。捨てようと思って外して、ためらった瞬間にうっかり落としちゃって」
「指輪⋯⋯」
奏海さんの左手に例の指輪がなかった。
「昔、好きだった人にもらった指輪だったんだけど、その人と別れた後も忘れられなくて。待ってたら、帰って来るんじゃないかって期待して帰って来なかった。昨日、結婚式の招待状もらった。ひどくない? 別れた女に招待状出すなんて。でも、もう無理なんだなって思ったらどうでもよくなっちゃって、指輪捨てようとしたら落とした⋯⋯って感じ」
にかっと無邪気な笑顔をする。
私はどう慰めていいのか、慰めるべきなのか分からなくて言葉が出なかった。
取り敢えずあの指輪が結婚指輪ではなかったことを喜べばいいのか。喜んでもいいのか。
「千紗ちゃん、眉間にシワよってる」
奏海さんに眉間を押されて、思わぬ至近距離にどきりとする。
「暗い話聞かせてごめん! でもね、指輪が落ちた時に何か重荷が落ちたというか、すごく自由になれた気がしたんだ。だから私あの人のこと忘れられそうで、気分的にはすっきりしてるから!」
雲一つない青い空と呼応するかのように、奏海さんは晴れ晴れとしている。
「奏海さんが落ち込んでるわけじゃないなら良かったです」
私の心の中の灰色の雲もどこかへと消えていた。気持ち良い青空と奏海さんの笑顔を見ていたら、言えなかったことも言っていいのではないかという気分になってくる。
「奏海さん、私と付き合いませんか?」
一度心の奥から出ようとした言葉は止まることなく私の口から飛び出した。
「千紗ちゃんと、付き合う?」
私の中に再び灰色の雨雲がもくもくと押し寄せる。
(どうしよう。勢いでやっちゃった。告白してしまった。終わりだ。奏海さんに嫌われる。そういう目で見てたって軽蔑されるかもしれない)
「あ、あの映画とか買い物とか付き合いませんか、みたいな。また付き合ってほしいなみたいな。日本語変ですよね。彼氏の分の穴埋めします的なえっと⋯⋯」
私は何とか言い訳をひねり出す。
「ねぇ、千紗ちゃん」
奏海さんが私に近づく。
「招待状送って来た指輪の相手、元カノなんだけど」
ニヤリと奏海さんが笑う。
「も、も、元カノっ⋯!?」
予想外の言葉に脳が混乱する。
(元カノ、元カノ!? 女の人と付き合ってたってことだよね? 私にもチャンスがあるってこと? 聞き間違い?)
「さっきの千紗ちゃんの付き合ってくださいって、そういう意味だと思ったんだけど違うの?」
「ち、違います、あっそうじゃなくて違いません。違いません!」
「千紗ちゃん落ち着いて」
「違わないです。違わないので、あの⋯⋯。奏海さんのことが好きです!!」
「ありがとう千紗ちゃん。その言葉受け取ってもいいよね?」
私は夢を見ているようで、何を言っていいのかよもや分からなくて必死に頷いた。
そして私は夢から覚めた。
つい一ヶ月前のことをまた夢に見てしまった。私はあまりに嬉しかったせいか、何度も同じ夢を見てしまう。
隣りで寝ている奏海さんの頬にキスをする。
(これが現実なんて、私運が良すぎて来年死ぬかもしれない)
明日はクリスマスイブだ。
奏海さんとデートする予定である。
ニヤニヤしていると足元からもぞもぞと小さい生き物がやって来る。布団を抜けてルルはまだ眠っている奏海さんの腕の中に収まった。
「ルルばっかりずるい」
「千紗ちゃん⋯⋯」
奏海さんは寝言を言いながらルルを抱きしめた。
「それ私じゃない!!」
何となく腑に落ちないまま私は再び布団の中に潜った。
(クリスマスはルルにも大吉くんにも奏海さん渡さないんだから。まぁ、奏海さんと今こうしていられるのはルルのおかげみたいなものだし、今日は大目に見よう)
奏海さんの幸せそうな寝顔を見ながら私は二度するために目を閉じた。
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